九里 【九里】を探して三千里

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佐々木宮 木村氏の祖【成俊】は【源成頼】の裔(2) 伊香三郎成俊

2018-01-27 | 佐々木氏

図書館に依頼した本を読んで~。

岩波講座【日本通史 第七巻】
2.保元の乱 序曲 ― 地方における
『一一四六年(久安二)二月 阿波国のある荘園に対し、八十余人の軍兵の一団が乱入、数々の狼藉をはたらき、下司を捕え、民家五軒を放火する事件が起こった。検非違使庁によび出された関係者の証言によると、襲撃者は同国一宮の宮司河人成高・成俊兄弟の命令を受けた「所従眷属」の一団で…』

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つまり、この話は阿波国でのことであった。阿波国の成俊だったのである。(もちろん、佐々木宮にも成俊がおり、成頼より六世末と記載のある系図があるはずである。)この話を勘違いしていた私の記事(木村氏となった成俊かと思ってしまった。)は消去したので、以下の話に戻ろう。


この段の続きは、近江の話に移る。

『次に一一四二年(康治元)近江国佐々木荘の豪族で、佐々木宮神主の一族友員なる武士が京都で殺され、源為義が犯人との説が流れた。このとき犯人かと疑われて検非違使庁で尋問された友員の伯父行真の陳述によると、友員の仇敵は従兄弟の道正で、まず友員が道正の母と弟道澄を殺し、報復に道正が友員の母と兄友房・末高らを殺害した仲である。
今回も道正のしわざに違いないという。在地武士団のすさまじい私闘の世界をかいまみた思いがする。また行真によると道正は以前からの源為義の郎党で、今回の殺人犯が為義だとの流説とも一致する。六年ほど昔、為義は佐々木荘に下向、道正の弟道澄の家に滞在中、挨拶に出向いた行真に対して、名簿を提出して従者となるよう求めた。しかし行真の家はすでに藤原忠実の所領であり、自らも忠実の舎人となっているので断ったところ、子どものうち一人でも郎党にしてほしいと要求された。一人はすでに左大臣源有仁の所領佐々木荘の下司で有仁の従者となっており、いま一人は佐渡守に仕えているので、やむなく残りの四郎行雅を為義の郎党にすすめ、見参させた。しかしそれ以後は全く出入りしたこともない。これが行真の証言である(平安遺文 二四六七号)』

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石井進氏は【友員】を木村宮神主一族とされている。

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次に木村氏情報(wikipediaより)

近江国蒲生郡木村(のちの滋賀県蒲生郡蒲生町木村、現在の同県東近江市木村町)が発祥。

12世紀末、『源平盛衰記』巻37で平通盛を討ち取る①木村茂綱は紀成高の四代の孫とされ、『姓氏家系大辞典』でも紀姓説を採っている。一方、『佐々木系図』(『続群書類従』所収)で成綱①を佐々木経方の後裔とし、かつ、経方の次男行定の母を紀盛宗の娘としていることから、
『近江輿地志略』では、行定の子定道が祖母の姓である紀姓を仮冒して称したのであり、本来は佐々木氏の一族とする。

後世、その子孫は宇多源氏佐々木氏流を称し、江戸時代の幕臣として9家が『寛政重修諸家譜』に掲載されている。
家紋は四目結、あるいは釘貫。安土桃山時代に豊臣氏の家臣となった、木村定重・重慈・重成らもこの流の後裔と考えられている③。

近江国滋賀郡堅田(現在の滋賀県大津市堅田地区)の人に、
弓術出雲派の吉田重綱の弟子で、寿徳派の創始者木村寿徳がいる。元は猪飼氏を称していたとされる。

①『佐々木系図』では平通盛を討ち取ったのは、成綱の弟(木村源三)俊綱とする。また『吾妻鏡』では俊綱を成綱の子とする。
②『尊卑文脈』も同様
③太田亮著『新編 姓氏家系辞書』角川書店,1974年,484頁

web情報ではhttps://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment_boy/11799136.html
上記のページに『佐々木氏の祖源成頼から六世の末佐々木成俊が、近江国伊香郡木村に因んで木村を称したが、祖母が紀氏の出身であったこともあって、佐々木の姓を木村に改めたとされている。

のち、佐々木宗家が京極・六角と分かれたので、木村氏もこの両家に分かれて属した。』とあり、近江国の九里氏の流れとも一致し、しかも我が系の柏原藩の九里の言い伝えでは「九里は佐々木の出、神社の方」なので、ぴったりとくる。

ココで問題が発生する。
【近江国御家人井口中原系図】に照合すると、木村成俊より先の系図と近江国御家人…の系図とは、全く一致しない。
しかも、成俊から換算すると年代も今までの想定とは変わり、九里の祖が1330年代くらいになる。(今までは1220年生まれあたりかと思っていた。)

九里秀重の「唐崎合戦」ということが時代を決めることのできる唯一の言葉なのだ。
唐崎での合戦らしきものは何度かあるが、一番大きなものは延元元年(1336年)である。

成俊までの系図の年代はあっているように思える。
(全然あっていない!)これは、別人なのでは…

但し、木村神主一族中に「友員」がいたかもしれない~という処から何かわかるかもしれない。





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4 コメント

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Unknown (木方)
2020-06-18 20:49:20
テレビ番組で木村さんの由来やっていましたよ。
紀氏との関係やっていました。軒丸瓦も大好きなので物的証拠としての関係もありそうでした。各地の木村という地名に豪族の古墳もありそうですし、瓦で寺とも関係してきそうですよね。全国の木村さんにも呼びかけてましたよ。それぞれの探究を。やはり木は紀伊との関係もやはりありますね。頼朝の関係にも関わっていそうですね。因みに旧姓でも現在も木なので紀氏族関係してくるんでしょうね。全国で各自の名字探究が進むと色々と見えてくる事があるでしょうね。
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コメントありがとうございます! (kunorikunori)
2020-06-18 21:49:10
木方様

はじめまして。コメントいただき、ありがとうございます。

私、近江国の木村に気を取られて、他の国の木村氏はあまり調べていなかったのです。
でも今、一人、関東の木村氏が気になっています。
木村信綱と言う方です。藤原秀郷流の人だったと思います。
もしも、何かご存知でしたら、教えていただけますとうれしいです。


返信する
家紋 (木村)
2022-12-25 11:03:48
木村家のご先祖様を調べていたら、このページにたどり着きました。
当家でわかっていることは・・・
1600年代に備後の国の北部(現在の口和町)に移住してきた。その際に木村を名乗らず、近くに茶の木が植えてあったことから、それ以降明治まで姓?屋号?を茶の木と名乗る。
その初代の法名が釋玄海である。
明治になってから剣術の免許皆伝を受けているが、その源流は大垣城下西方寺である。
家紋は隅立て四つ目に折敷の囲いが入っている。
以上なのですが、、
現在の場所に入ってくる前はどんな経緯だったんだろうかと、憶測ばかりです。
調べるための何かヒントを教えていただきたく、コメントしました。
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コメントありがとうございます。 (kunorikunori)
2022-12-25 18:32:57
木村様? 茶の木様

コメントありがとうございます。
こちらの家紋は佐々木氏につながっているかもしれませんね。聞いた話ですが、折敷は神社関係かも知れませんので、近江の沙々貴神社の関係の方であったかもしれません。

また、釋玄海という法名をgooglebooksの検索ワードとして入れてみました。
読むというボタンを押しますと、読むことができます。気になる方がいらっしゃるとよいですね!
大垣市史の中にもその名前が出ておりました。
ご本人とは限りませんが、どうぞご参考まで。

また、広島藩になるのでしたら、福島正則に随ってそちらに移った可能性も感じました。

https://www.google.com/search?q=%E9%87%8B%E7%8E%84%E6%B5%B7&tbm=bks&sxsrf=ALiCzsYzADAr7SwB98bTrv9p07bF48MXFg:1671960458022&source=lnt&tbs=bkv:p&sa=X&ved=2ahUKEwjw8raJupT8AhWFOnAKHaiGCtMQpwV6BAgBEBs&biw=1513&bih=696&dpr=1.25
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