無量寿寺(鳥栖)
https://shin.gr.jp/shinran/24/t_004.html
社家の姓氏 大中臣氏
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/north/huta_nik.html
宇都宮神社初代宮司は「大中臣清麿」であった。
「貞観二年(860)、勝道上人の従弟にあたる大中臣清真が、二荒山神社の神主となり、清真が日光山神主職の初代とされている。」
下総の片岡氏も大中臣の一族であり、近江国伊香郡の片岡氏も大中臣氏と同祖であった。
宇都宮氏の娘は平家貞に嫁いでいる。
平家貞・貞能(貞能の母が宇都宮氏) 以下はwikipediaからだが、
その家貞・貞能は、「伊賀国を本拠とする伊勢平氏譜代の有力家人である。平忠盛・平清盛の二代に渡って仕え、「一ノ郎等」(『愚管抄』)といわれた。」
貞能は「貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。」
「貞能は出家して九州に留まり平氏本隊から離脱した(『玉葉』閏10月2日条)。また『玉葉』の寿永3年(1184年)2月19日条に資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている。
平氏滅亡後の元暦2年(1185年)6月、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した(『吾妻鏡』7月7日条)。この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。北関東に那須塩原市の妙雲寺、芳賀郡益子町の安善寺、東茨城郡城里町の小松寺、そして南東北でも仙台市の定義如来など貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである。 」
そして、浪合記の中の話に続く。http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai14.html
「大橋家伝
九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。平家の滅亡後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。その場所を大橋という。その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。そこで農家の女二人を妾として、おのおの二人の娘を成した。
頼朝は貞能を捜索した。尾張国の、原の太夫高春が扶助していると耳にして、梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。貞能は、景季の陣に行って、自ら捕らわれた。景季は貞能を虜にして鎌倉に下り、そこで比企谷の土牢に入れた。
貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、父の生死を知るために鎌倉に下った。鶴ヶ岡八幡宮に毎日毎夜参詣して、法華経を高声に読誦し、父のことを祈ること数カ月に及んだ。その容色は、とてもただ人とは思われなかった。
世間の人々が奇異の思いをなしている事を、頼朝卿の御台所が聞こし召され、事情を聞いて頼朝卿にお告げになった。そこで、頼朝卿は一妙丸を召して、意趣を聞かれた。一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。これが大友の元祖である。
この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。
貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして、一人を大友四郎経家に下された。これは豊前守能直の母である。
その四人の女子の生まれた里は、末代までの験(しるし)として、四女子と名づけられた。その後、四女子の母を祭った社がつくられた。後にこれを、間違えて頼朝の宮と呼んでいるという。」
今回はその盛綱と息盛季が気になった。
平貞能が佐々木盛綱の舅という事になる。盛綱の息盛季を調べてみよう。以下は佐々木哲学校のコメント欄より
盛綱の次男盛季(小三郎左兵衛尉・左衛門尉)が近江国野村郷を領したことから、野村氏が始まりました。
盛季が嫡男として在京御家人として京都に出仕していました。しかし承久の乱で、盛季は佐々木広綱・経高らとともに京方であったため、盛季の子盛蓮は出家し、さらに日向国諸縣郡に四ヶ所の所領があったことから日向に下向しました。盛蓮の長男頼親は踏切郷・村角郷を領し、六男光盛は伊東祐光の養子になりましたが後に帰家し中村を領し、七男光秀は佐土原を領しました。
このうち光盛の孫信盛は肥後国楠郷を所領を得たと伝えられます。
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小山氏
宇都宮頼綱 小山政光の養子になる。
小山氏
千葉胤政の娘が小山氏の妻に(たぶん、小山朝政)
小山朝政は、wikipediaによると
久寿2年(1155年)頃、小山政光の子として誕生。父は武蔵国の太田氏の出であり、下野小山に移住して小山氏を名乗り、後室に八田宗綱の娘で源頼朝の乳母である寒河尼を娶っていた。
というのだが、兄弟の結城朝光の母も寒河尼なので、これは父政光の妻に寒河尼を娶って…という事なのだろうと思う。
寒河尼の父は「八田宗綱」で、宇都宮宗綱、中原宗綱ともいわれている。
つまり、この女性は宇都宮・中原・八田と小山氏をつないでいる人である。
そして、千葉胤政(正)の娘(成胤の妹)は千葉氏と小山氏をつないでいる人である。
胤政の孫胤綱の妹が土岐七郎に嫁いでいる。これは、土岐光家のことではないだろうか?
千葉頼胤の娘も土岐
(光定の母が頼胤の娘であった。間違っていた!)スミマセン!
かなり、親しい関係のようだ。
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googlebooksより
googlebooksより
(諸家系図纂)
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土岐氏が出てくると九里種信の「起」は「隠岐氏」であったかな?とも思う。
土岐光家とは、どのような人物だったのだろうか?