土岐光行の妻に東胤頼の娘 …… 片岡経春の海上荘は東胤頼の所領となる。
土岐七郎光家の妻に千葉成胤の娘 …… 千葉胤綱の妹である。
佐々木信綱の妻に千葉胤綱の娘 …… 佐々木氏が京極と六角に分かれる前の代である。
九里はもうすでに佐々木氏についていた。
隠岐太郎は「佐々木政義」と「土岐国時」がいる。
佐々木政義は義清(佐々木秀義の六男と母は大庭景親娘)の長男
土岐国時は光定の(土岐光行と母は東胤頼娘)長男である。
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以下は、私の未熟なままの想像である。まだ出来立てなので荒いが、忘れないようにmemo
千葉胤正の娘が中原経久の妻となり、(経久は片岡経久1173年生であった。)と仮定する。
その経久の父(経利)は橘荘(海上荘)を所領していたために橘次を称していたとする。代は経春に変わり、その経春のために所領を失ってしまうが、千葉胤正の案で、経久の妻に娘を預けることで、外見は千葉氏の所領だが、片岡氏に安堵されていたとする。
しかし、その経久が因幡国・丹後国の地頭となって土地を離れることとなり、東氏に所領を渡すこととなる。
もしかすると、東氏に嫁いだ経久の娘もいたかもしれない。
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経春の子孫は備前へ、
弘経と経春は同じ年である。
双子か、または本当の弟ではないようであるが、まだよくはわからない。
そして経久の父は「経任」であり「つねとう」であるが、
片岡の方「経利」は「経俊」とも書き「つねとし」に当たるのではないかと思う。
この経任・経久の二代だけが、支援?のために入ったのではないだろうか?
もともとは片岡同族で鹿島神宮の神官であったため、大きな家族のように暮らしていたのではないかと思う。??
以上が今のところの私の頭の中である。