https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/62194a2c4629ec2bad625d995c20dd2e
以前書いた記事の「桜本坊」は、上記の地のことだったのではないだろうか?
…ということは、馬淵氏の被官『九里但馬守』であったのかもしれない。
大和国にある桜本ではなく、近江国の古城山城の可能性の方が高そうである。
城郭探訪様記事によると
「 佐々木定綱(1142--1205・経方の曾孫)の5男・広定が野洲郡馬淵に住んで馬淵と名乗った佐々木氏の傍流で、後に佐々木氏の嫡流・六角氏(佐々木氏は定義の孫の代に六角氏・京極氏などに別れている)に仕え馬淵氏・岩倉城(野洲市大篠原小字岩倉)の城主だったという。」
なるほど、広定の末裔。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/fa/76893e34dd1402e81d99e10109c9adaa.jpg)
この長江氏は、近江国御家人井口中原系図の中に現れる「長江氏」ではないだろうか。
しかも、佐々木哲学校の記事によるとhttp://blog.sasakitoru.com/201312/article_2.html
「ところで沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、平安末期の「源行真申詞記」に登場する愛智家次の弟に長江権守家景がある。長江太郎義景により鎌倉平氏長江氏が成立したのとほぼ同時期であり、〈景〉の字を通字とする。平治の乱後の佐々木氏の東下と関係があるかもしれない。佐々木氏は鎌倉平氏の旧領のひとつ相模鎌倉郡長尾郷を領しており、鎌倉平氏を継承していた可能性はある。」
さらに
「また続群書類従所収中原系図によれば、愛智郡に勢力をもった江州中原氏(中原真人)にも長江氏があり、江州中原氏薩摩太夫仲平が愛智郡甲良に入婿し、その子八郎成家が長江氏を称したのに始まる。長江八郎成家―家定―盛定と続き、盛定の長男に「某(孫太郎)」、次男に「明智」と記されている。愛智流長江権守家景とは養子関係にあったと考えられ、続群書類従本佐々木系図(巻百三十三)では、長江権守家景の猶子長江三郎家経の系譜は家経―秀家―忠家―家成―家定とあり、中原系図と成家(家成)―家定の個所が重なる。」
中原氏と長江氏、そして佐々木(馬淵)氏・鎌倉氏との関り~~気になることがたくさん。どなたか解明して下さらないかなぁ。。。