近江輿地志略 巻之十一
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950934
コマ115-116
(1159年)平治元年、三所権現遷座 導師 前大僧正行慶 役人法橋二人能智行勝 阿闍梨二人教智倫圓 先達二人長厳慶尹 本宮別当湛快と記載を見つけた。
第十八代熊野別当の湛快、次の代が「行範」である。
この三井寺との関りも次の代に受け継いでいたとすると、当然「行範」も近江の三井寺の熊野権現社に来ていたであろう。
巻之十三
三井寺の中の「常在寺」熊野権現社に関わる記載では「永久四年(1116年)に熊野三山第二の検校となり、次いで貫主に補せられる。…また老年に及び…両三山をこの地に移し…三所権現を勧請し、以って熊野三山に准ず。」とある。
どうやら平等院前大僧正行尊阿闍梨が建立した「熊野権現社」のようである。
この行尊とは、コトバンクによると
[1057~1135]平安後期の天台宗の僧。源基平(みなもとのもとひら)の子。諸国を行脚(あんぎゃ)。祈祷(きとう)に優れ、天台座主(ざす)となった。和歌にもすぐれ、金葉集・新古今集などに入集。平等院大僧正。
1055-1135 平安時代後期の僧,歌人。
天喜(てんぎ)3年生まれ。源基平(もとひら)の子。天台宗。近江(おうみ)(滋賀県)園城(おんじょう)寺で出家し,各地で修行。祈祷にすぐれ鳥羽天皇の護持僧となる。園城寺長吏,四天王寺別当,天台座主(ざす)をつとめた。大僧正。和歌が「金葉和歌集」以下の勅撰集に多数おさめられている。長承4年2月5日死去。81歳。通称は平等院大僧正。著作に「行尊大僧正集」など。
【格言など】もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし(「小倉百人一首」)
没年:保延1.2.5(1135.3.21)
生年:天喜3(1055)
平安時代の僧侶,歌人。三条天皇の曾孫。参議源基平の子。12歳で出家して 園城寺に入り,大峰山での修験の修行などを重ね,25歳で頼豪から阿闍梨灌頂を受けた。以後,加持祈祷の効験をうたわれ,鳥羽天皇の護持僧となるなど活躍。園城寺長吏,大僧正に任ぜられた。書や琵琶のほか和歌にもすぐれ,大峰修行中の作などは西行の先蹤として後代から高く評価された。「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」の一首は特に名高い。上流貴族出身の高僧として多くの霊験譚の主人公ともなっている。<参考文献>近藤潤一『行尊大僧正』
平安末期の僧。源基平の子で後三条天皇の孫にあたる。園城寺(おんじようじ)(三井寺)の明尊の弟子となり,17歳のときから大峰,真木尾,熊野など霊山をめぐって苦行し験力を讃えられ,鳥羽天皇皇后待賢門院璋子の病を加持して名声を得た。1116年(永久4)園城寺長吏,18年(元永1)四天王寺別当,23年(保安4)天台座主(ざす)に任じられたが延暦寺僧徒の反対で辞退。25年(天治2)大僧正となり,宇治平等院を本寺としたので平等院僧正とよばれた。
平安末期の天台宗の僧。通称を平等院(びょうどういん)大僧正という。参議源基平(みなもとのもとひら)(1026―1064)の子。12歳のとき園城寺(おんじょうじ)で出家し、17歳から諸国を遊歴、大峰(おおみね)山、葛城(かつらぎ)山などの修験(しゅげん)霊場で修行した。祈祷(きとう)に優れ天皇の病を祈り験(しるし)があったという。のち三井平等院に入り、1116年(永久4)園城寺長吏となって百座仁王講(にんのうこう)を始め、毎年修するのを例とした。1123年(保安4)44世天台座主(ざす)に任ぜられたが、6日で辞した。和歌に秀で、『金葉』『詞花』『千載(せんざい)』『新古今』などの勅撰(ちょくせん)集に多くの歌が収められている。また画もよくし、衣冠を着けて歌を詠んでいる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)像を夢にみて写したという画があり、人麻呂像の最初のものとされる。[塩入良道]
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…というすごい人物である。
ひとつ気になったのは、三井平等院の「三井」である。
三井寺のHPに「当時平等院は三井寺の末寺」とあるではないか。http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/145.html
平等院は1052年に出来ているので、ちょっとわからないなぁ?
ともかく、「行範」も近江国の三井寺には出入りしていた可能性は充分にありそうである。
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行慶も、コトバンクで調べてみると。
1101-1165 平安時代後期の僧。
康和3年生まれ。白河天皇の皇子。母は源政長の娘。大僧正行尊に天台をまなぶ。保延(ほうえん)元年摂津四天王寺(大阪府)の別当。権(ごんの)僧正となり,仁平(にんぴょう)2年近衛(このえ)天皇の護持僧。同年近江(おうみ)(滋賀県)園城寺(おんじょうじ)。永万元年7月16日死去。65歳。通称は桜井僧正,狛僧正。
行尊の弟子であった。
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長厳も。
1152-1228 平安後期-鎌倉時代の僧。
仁平(にんびょう)2年生まれ。真言宗。七条院の後鳥羽(ごとば)天皇出産の際祈祷をし,のち天皇の帰依(きえ)をうける。熊野三山検校(けんぎょう),新熊野(いまくまの)社検校,石山寺座主(ざす)をつとめ,大僧正となる。承久(じょうきゅう)の乱後討幕計画に加担したとして陸奥(むつ)へ流された。安貞2年7月16日死去。77歳。俗姓は紀。
没年:安貞2.7.16(1228.8.17)
生年:仁平2(1152)
平安末から鎌倉初期の天台宗園城寺の僧。尊真の弟子。刑部僧正と号した。有験第一といわれるほど密教修法に優れ,後鳥羽天皇の護持僧となる。天皇譲位後も,修明門院の安産祈願,七条院(後鳥羽天皇の母)への荘園寄進,水無瀬殿造進,そして皇子妙香院宮の師となるなど後鳥羽上皇と深い関係を保ち,大僧正となる。元久1(1204)年に熊野三山検校となり,承元1(1207)年に熊野詣での先達を勤め,上皇の代はそれを勤めるようにと院宣を下された。禅林寺,石山寺,神護寺,観心寺などの寺務も相承した。承久の乱(1221)に際し,討幕の謀議に加担したとして陸奥に流され,配所で憤怨のうちに77歳の生涯を閉じた。
【檜牧荘】より
…牧が荘園に発展した代表的な例。1198年(建久9)後鳥羽上皇の護持僧であった長厳が,開発以来11代目の伝領者平盛相から譲得し,七条院に寄進した。この時点で本家職が七条院,領家職が長厳,下司職は平盛相の子孫が伝承するという職の体系が成立,以後本家職は七条院領として伝領された。…
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この、「紀」姓というのが、佐々木氏に関係しているのだ。
佐々木宮の木村氏も「紀」であるように、佐々木行定・行実は、母親が「紀盛宗女」である。これに関してはまた明日書こうと思う。