万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

‘指導力’という名の呪縛

2023年09月21日 11時31分06秒 | 統治制度論
 政治の世界では、日常的に‘指導力’という言葉が高い頻度で使用されています。政治関連の新聞記事やニュース番組でも、首相が国際会議等に出席した際や、国内において新たな政策を打ち出したり、所信表明演説を行なう時には、必ずと言ってよいほど最後は‘○○首相の指導力が問われています’、あるいは、‘○○首相の指導力が期待されます’といった言葉で締めくくられます。あたかも結語の定型句と化しているかのようなのです。

内閣支持率を調査する世論調査にあっても、政権を支持する理由として「指導力があるから」という選択肢が準備されており、政治家の指導力は、肯定的な要素として扱われています。しかしながら、指導力とは、かくも手放しで評価すべき能力なのでしょうか。自らの‘超人的な指導力’をもって独裁体制の樹立と自らへの絶対忠誠を要求したヒトラーの事例のみならず、平等という価値をもって革命を起こした共産主義国家にあっても、毛沢東は、‘人民には指導者が必要である’として‘独裁’を正当化しました。今日の北朝鮮にあっても‘偉大なる指導者’は、独裁者の枕詞ともなっています。指導力は、しばしば人々を理想とは正反対の方向に連れて行ってしまう、詐術的な効果を発揮してしまうのです。

指導力と独裁者との関係を述べるまでもなく、学校での光景を想像すれば、‘指導力’の問題性は容易に理解できます。学校でもリーダー的な生徒が出現しますと、段々と教室の空気は息苦しくなってゆきます。他の生徒達は、このリーダーの生徒の顔色を伺うようになり、周囲に‘取り巻き’ができてゆきます。文化祭や運動会といった学校行事などに際しても、リーダーの意向を無視できなくなるかもしれません。ダークサイドのリーダーは‘番長’とも呼ばれるのでしょうが、この現象は、必ずしも所謂不良的なリーダーに限ったことではありません。リーダーという存在そのものが、自由な空気を失わせてしまうのです。中には、同リーダーが醸し出すカラーに馴染まず、登校拒否となる生徒も現れるかもしれません。

もちろん、良い意味でのリーダーが必要とされる場面もないわけではありません。それは、メンバーの全員が重大な危機に直面した時です。誰かが、危機から脱するための賢明な方法を提案し、皆の協力の下でこれを実行しなければ、全員が大きな損害を被ることになるからです。最悪の場合には、誰一人として生き残れなくなります。古今東西を問わず、リーダーを要する主たる場面が戦争であったことは言うまでもありません。こうした危機的状況にあってこそ、リーダーシップはプラスの能力として評価されるのであり、政治家の能力としてリーダーシップが強調されるのも、今日に至るまで戦争が頻発してきたからなのでしょう。もっとも、戦争にあっては、リーダー達の半分は‘敗軍の将’となりますので、能力の低い人物がリーダーとなることは、最大のリスクであることも偽らざる事実です。言い換えますと、必要とされるのは‘優れたリーダー’であって、しかもそれは、有事に限定されているのです。

有事は時代の転換点ともなる重大事件ではあっても、人類史の大半を占めているのは平時です。となりますと、指導力の必要性は必ずしも高くはなく、民主主義の本質からしますと、統率型や牽引型、ましてや独断専行型のリーダーよりも、多くの人々の意見や利害関係を調整する合意形成のための‘まとめ役’の方がまだ‘まし’です。誰もが誰気兼ねなく自由に自らの意見を述べることができ、自由闊達な議論ができる空間が維持される方が、余程、大切なことなのですから。そしてそれは、誰か一人に依存するのではなく、皆が協力して自由な空間を護るべきと言えましょう。

‘指導者願望’、あるいは、‘政治には指導力が必要’とする固定概念が自らを苦しめ、民主主義の成立条件とも言える自由な言論空間を萎縮させるのであれば、現代という時代にあっては‘百害あって一利なし’となりましょう。‘指導力’という言葉が自らをも縛る呪縛であったことに気がつくとき、未来に向けた政治の方向性も見えてくるように思えるのです。

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AIはウクライナ紛争を解決できるのか?

2023年07月19日 12時08分42秒 | 統治制度論
 先日、スイスのジュネーブで開かれたAI for Good Global Summitにあって、ヒューマノイドロボットの‘ソフィア’は、自らの指導者としての能力を高く評価し、「人間よりもうまく運営できる」と発言しています。人間を上回る能力を自負しているのですが、それでは、‘ソフィア’、あるいは、AIは、ウクライナ紛争を解決することができるのでしょうか?

 人間に優る根拠として、‘ソフィア’は、大量の情報処理能力に加えて、人間のように感情に流されたり、偏見をもたない故の公平性を挙げています。AIであるからこそ、全ての人々から超越的な立場から物事を判断し、中立・公平な決定を下せると述べているのです。仮に、この自己申告が正しいとすれば、‘ソフィア’の能力は、人々を政治的に‘指導(lead)’する能力と言うよりは、争い事に判定を下す(judge)能力に長けていることとなりましょう。中立・公平性とは、司法部門においてこそ求められる資質であるからです。しかも、裁判所では、裁判官は、日々、膨大な数の証言、証拠、資料等を精査し、これらの情報を分析・解析した上で判決を下します。データ処理能力に優れ、かつ、公平なAIにとりましては、裁判官はうってつけのポストと言うことになりましょう。もっとも、‘ソフィア’は絶対君主制を敷くサウジアラビアの国籍を保有していますので、政治的に中立と言えるかどうかは疑問のあるところです。

 ‘ソフィア’が裁判官として資質に優れているとすれば、ウクライナ紛争についても、中立・公平な立場から判断することができるはずです。生成AIを用いれば、ウクライナ並びにロシア双方から聴取した膨大なデータを瞬時に解析し、流麗な‘判決文’を書き上げることでしょう。法源となる現行の国際諸法のみならず、紛争に至るまでのマイダン革命やミンスク合意を含む全経緯の詳細やロシア側の主張をもデータ化して入力するのですから、今日、ウクライナ側を支援するNATO陣営が主張するようには、‘国際法に違反したロシアによる一方的な侵略’とする判断は下さないかもしれません。実際に、ネオナチ系ともされるアゾフ連隊等によるロシア系住民に対する迫害行為もありましたので、ウクライナ側に全く非がなかったとは言えない状況にあるからです。

 そして、仮に‘ソフィア’が、厳正なる事実確認を経た上でロシア=侵略国=絶対悪の立場を取らないとしますと、同裁判官は、両国に対して和解を勧告するかもしれません。そして、同ヒューマノイドロボットが真に人類の知能を越える優れた知恵者であるならば、当事国のみならず、全世界の諸国が納得するような和解案を提案してくれることでしょう。もっとも、ウクライナ紛争を長期化あるいは第三次世界大戦に拡大させたい世界権力という‘抵抗勢力’にぶつかるかもしれませんが・・・。

 あるいは、得意の知力を発揮して、‘ソフィア’はウクライナ紛争が陰謀であることを見抜いてしまうかもしれません。バイデン大統領、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領、ルカシェンコ大統領、及びプリゴジンといった主要人物達の言動、並びに、大手マスコミの報道には余りにも矛盾が多く、合理的に考えれば辻褄が合わない、あるいは、不自然な出来事の連続であるからです。‘ソフィア’より知性の劣る人間でさえ、同紛争に対して懐疑的な人も少なくないのですから、より知能に優れた‘ソフィア’であれば、法廷にあって‘真犯人’の名を告げるかもしれません(法廷がどよめくことに・・・)。

 ‘ソフィア’が人間の能力を越えたと宣言するならば、実際に、その実力を証明する必要があるように思えます。そして、ウクライナ紛争をスマートに解決できないのであるならば、AIの能力には、自ずと限界があると言うことになりましょう。何れにせよ、AIの判断はデータに依存しますので(公平性を主張するならば入力データは全て公開すべき・・・)、AIに判断を委ねるに先立って、自己評価の通りに中立・公平性が確保されているのか、という問題から検証すべきかもしれません。

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ヒューマノイドロボットは開発の背景を探るべきでは

2023年07月17日 11時46分44秒 | 統治制度論
 先日、7月6日から7日にかけてスイスの首都ジュネーブで開催された国連のAI関連サミット(AI for Good Global Summit)において、AIが「人間よりもうまく運営できる」と発言したことがメディア等で話題となりました。同発言の主は‘ソフィア’という女性名のヒューマノイドロボットであり、2017年10月にはサウジアラビアから市民権も得ています。

 AIによる人間に対する勝利宣言とも言えるのですが、この発言、内容を詳しく精査してみますと、そら恐ろしくなります。何故ならば、‘ソフィア’は、「格段に効率的かつ効果的(with a great level of efficiency and effectiveness than human leaders)」に「指導(lead)」できる潜在的能力があると述べているからです。このことは、‘ソフィア’の認識では、統治とは人類を導く行為であり、その際に評価の基準となるのは、効率性と効果性ということになりましょう。

 しかしながら、どうした訳か、‘ソフィア’は、肝心の統治の目的や役割について何も語っていません。統治の基本的な役割とは、国家と国民を保護し、人々の生活を守るために存在しますので、必ずしも強大な指導者を必要としているわけではありません。また、比較の対象は人間のリーダーであって、そのリーダーが選出されてきたシステムについての言及もありません。このことは、民主主義国家であれは、民主的制度が全て不要なものとして見なされていることを意味します。それとも、‘ソフィア’は、大量に生産された自らのコピーを各国に派遣し、国籍を得た上で選挙に立候補しようとしているのでしょうか(あるいは、自らを絶対的指導者とする世界政府の設立を構想?)。因みに、市民権を保有してはいても、絶対王制かつ厳格なイスラム国家(ワッハーブ主義)であるサウジアラビアでは、女性でもある‘ソフィア’には選挙に出馬するチャンスはありません。また、‘ソフィア’は、自らの優越性を根拠としてサウジアラビア王家に対して統治権の移譲を要求しているとも推測されます(同国の体制を考慮すれば、’ソフィア’は大逆罪に問われることに・・・)?

 ‘ソフィア’は、自らを最善の判断をなし得るリーダーとしての資質を高く評価する根拠として、AIには人間のような感情も偏見もない公平性、並びに、大量の情報を瞬時に処理できる能力の2点を挙げています。しかしながら、上述したように、民主主義も法の支配も無視する態度からしますと、効率性や効果性の最大化を‘善’として判断してしまうリスクがあります。むしろ、‘ソフィア’の傲慢さが人々のAIに対する警戒心を強めてしまうのですが、AIが入力または学習したデータに依存している以上、‘ソフィア’の‘勝利宣言’については、同ヒューマノイドロボットを作成した‘人間’やそれを支援する組織に注目する必要がありましょう。

 ‘ソフィア’とは、香港を拠点とするハンソンロボティックスによって開発され、2016年3月にアメリカのテキサスでデビューしたヒューマノイドロボットです。専門家によれば、同ロボットは人の知能に達しているとは言いがたく、今般の発言も、正確に自己の能力を評価するレベルに至っていないことの現れであるのかもしれません。そして、ソフィア開発の経緯は、同ロボットの怪しさを倍増させます。

 本拠地の香港は、2014年の雨傘運動後にあっては一国二制度が形骸化し、北京政府による支配が及んでします。言い換えますと、最初に公開されたのがテキサスであったとは言え、‘ソフィア’は、一党独裁国家に生まれているのです。おそらく、香港は中国のシリコンバレーとも称される深圳市と隣接していますので、同国の先端的なITやAI技術をも吸収し開発されたのでしょう。言い換えますと、‘ソフィア’は、もとより独裁体制との親和性が高く、しかも、徹底した国民監視・管理を志向しているとも推測されるのです。サウジアラビアにあって市民権を付与されたのも、サウード家独裁体制を支える役割が期待されていたからかもしれません(統治能力不足という世襲制の欠点をカバー?)。日本国の岸田政権が、外相レベルの「戦略対話」を設置するなど、頓にサウジアラビアとの関係強化に動いているのも気にかかるところです。

 また、同サミットを主催したのは、情報通信分野における国際機関として国連に設置されているITU(国際電子通信連合)なのですが(第二次世界大戦後に万国電信連合と国際無線電信連合が統合・・・)、同サミットを見ますと、アントニオ・グテーレス事務総長、WHOのテドロス・アドノム事務局長、IT大手のCEO、研究者、スイス政府関係者などの他にも、ユヴァル・ノア・ハラリ氏やハンソンロボティックスの創設者であるデヴィッド・ハンソン氏などが顔を揃えています。そして、この顔ぶれ、否、思考傾向は、どこかかの世界経済フォーラムとも重なって見えてくるのです。グローバル企業の組織形態も、実のところ、絶対君主制に類似しているのかもしれません。

 一体、ヒューマノイドロボッとの開発目的がとこにあるのでしょうか。現実に、ハンソンロボティックスは、‘ソフィア’の量産体制に入っているそうです。ソフィアの発言に驚嘆するよりも、まずは、その背後関係を含めて究極の目的を見極める必要があるのではないかと思うのです。

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AIではなくAI利用による人類支配のリスクでは?

2023年07月11日 12時25分07秒 | 統治制度論
 ディープラーニングの出現により、長足の早さで進歩を遂げているAI。生成AI技術の実用化も手伝って実社会においてもその存在感が増しつつあるのですが、同テクノロジーについては懸念の声も上がっています。AIが人の能力を超えるシンギュラリティーに達すると、人類は、AIに支配されるのではないか、という・・・。しかしながら、この懸念、杞憂に過ぎないかもしれません。

 真剣に心配するに足りない理由とは、第一に、AIが人類を支配し始めたならば、即、電源を落とす、という単純明快な対処法があるからです。AIの唯一のエネルギー源は、人によって供給される電力なのですから、ボディーガードやSPなどに幾重にも囲まれた人間の暴君や独裁者を倒すよりも、ある意味で簡単です。安全対策として、人間がスイッチさえ握っていればよいのです。なお、より簡単な対応としては、AIから発せられた命令に対して、人類が無視を決め込むという方法もありましょう(人類には、AIに従う義務もなければ、AIにも強制力はない・・・)。

 第2に、AIには、人類を支配する‘欲望’という感情が存在しないことです。AIには、感情も身体もありません。欲望というものが、人の感情が引き起こすのであるならば、AIには、権力欲も、支配欲も、金銭欲も、名誉欲もないはずです。古今東西を問わず、悪しき為政者とは、自らの私的な欲望に駆られ、あるいは、これらを満たすために権力を濫用するのですが、AIの方が、むしろこの心配はないのです。自らの快楽にお金を浪費する必要もないのですから、AIは、贅沢を尽くした暮らしのために人類を搾取しようとはしないことでしょう。考えようによりましては、私利私欲に走り、個人的な利権や利益誘導に悪知恵を働かせている人間の政治家よりも、‘まし’ですらあるかもしれません。

 第3の理由は、人類支配は、AI単独ではあり得ないことです。このため、まずもって組織造りをしなければならないのですが、先ずもって、生きている人々を適格に評価し、自らの命令を忠実に実行する部下として採用・あるいは、登用する必要があります。現状にあっては、インプットされたデータに基づいて人事評価を行なう能力はあるのでしょうが、AIには、同データの真偽を見抜くことできないようです(AIは簡単に騙される存在でもある・・・)。もちろん、ロボットを部下にすればよい、とする反論もありましょうが、AIが自らの手でロボットを設計し、それを製造し得るとは思えません。

 そして第4に、永続的な人類支配のための制度設計を自発的に行なう能力に欠けている点です。真にAIが賢ければ、自らが誤りをおかす存在であること自覚し(人間が入力したデータに誤があるリスクを認識・・・)、チェック・アンド・バランスが働くように権力分立を制度設計に組み込むのでしょう。つまり、ここに、AIは、神の如くに全知全能ではなく、あくまでも不完全な人間によるヒューマン・エラー、あるいは、フェイク・データを入力する人間の意思の存在という不可避的な制約があり、全ての権力を独占する独裁者にはなり得ないとする結論に至ってしまうのです(仮に、ヒューマン・エラーをAIが認識せず、自らを無誤謬と見なすならば、AIは、認知能力や判断能力としては人には及ばないと言うことに・・・)。

 以上に、AIによる人類支配の可能性について述べてきたのですが、AIによって人類が支配される可能性はそれ程には高くないように思えます。もっとも、AIを利用した人類支配という形態はあり得るかもしれません。テクノロジーとは、それを使う人によって善にも悪にも貢献するからです。AIを操って全人類を支配下に置こうとする人物が、AIに冷酷で強欲な独裁者のパーソナリティー、あるいは、自らの性格をデータとして入力すれば、‘人類を支配するAI’が出現する可能性も否定はできないのです。このように考えますと、AIについては、それを利用しようとしている欲望の亡者にこそ警戒すべきではないかと思うのです。

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マイノリティー救済は‘罠’なのでは?

2023年07月07日 11時05分55秒 | 統治制度論
 社会・経済的に不利な立場にあるマイノリティーの救済は、現代国家にあって政治が解決すべき課題とされています。とりわけリベラリズムを掲げるアメリカの民主党政権は、アファーマティブ・アクションにも象徴されるように、歴代、人種差別や社会的格差是正に積極的に取り組んできました。そして、今日では、救済されるべきマイノリティーとされる対象は、従来の人種や民族に留まらず、LGBTQといった他の領域にまで広がっています。

 貧困や病気に苦しむ弱者の救済事業は、現代国家に始まったわけではなく、日本国の歴史を振り返りましても、今からおよそ1300年を遡る奈良時代には悲田院や施薬院等が設けられたとする記録があります。こうした救済事業は、その対象となった助けを必要とする人々のみならず、為政者が国民に対して慈悲深さをアピールする効果もあったのかもしれません。何れにしましても、国民の多くは、弱者を救済しようとする為政者の姿を好意的に受け止めていたことでしょう。

 過去の歴史にあっては稀であった弱者救済事業は、今日の国家では凡そ社会福祉政策として実施されており、誰もが弱者となり得る故に、国民に物心両面において安心感をもたらしています。その一方で、リベラリズムが推進しているマイノリティー救済政策には、その真の目的を慎重に見極める必要があるように思えます。弱者救済は、道徳や倫理に照らして多くの人々の支持を得やすい、否、異議を唱えるのが憚られる政策故に、悪用されやすい側面をも持つからです。それでは、マイノリティー救済には、どのような弱点が潜んでいるのでしょうか。

 第1に指摘し得るのは、必ずしもマイノリティー=弱者とは限らない点です。例えば、ユダヤ系の人々は、その厳格な宗教的戒律のために独自の閉鎖的なコミュニティーを形成してきたため、ゲットーなどに居住させられたり、ナチス政権から迫害を受けるといった歴史を背負っています。その一方で、金融界を制する故にマネー・パワーを全世界に対して存分に発揮していますので、弱者とは言いがたい存在です(世界権力の主要勢力・・・)。アメリカでは民主党の支持母体でもあり、マイノリティーの優遇は、強者の特別扱いに転じかねないのです。日本国内でも、ソフトバンクの孫正義氏やパチンコの事業者など、韓国朝鮮系の人々には富裕層に属する人々が少なくなく、また、最近増加している中国系の人々の中にも、起業家であったり、日本国内で不動産などを買い漁る資産家も見受けられます。こうした現実からしますと、マイノリティー=弱者の定式を利用した、マイノリティー富裕者による特権の保持という目的が推測されるのです(世界権力は、外部のスポンサーとしてマイノリティーの一部に富や権力を与えることで、代理支配並びに圧力団体の育成を目論んでいるのかもしれない・・・)。

 第2の問題点は、政策の対象がマイノリティーであるために、民主主義のシステムとの間に不整合が生じることです。民主主義とは、自由な議論を前提としつつも、最終的には多数決を是とします。極端な言い方をすれば‘マジョリティーによる政治’とも言え、国民世論に沿った政治がその理想とされるのです。ところが、マイノリティーは数としては少数ですので、政治を動かす力に欠けています。自らの声が政治に届かず、その要望が政策化され難いという問題を抱えているのです。そしてこの側面こそ、民主主義国家の政治システムにあって、弱者の代弁者として政府が‘上からの救済’として自らの政策を実施する口実を与えることにもなるのです。

 そして、第2の問題に関連して第3点として挙げられるのは、マイノリティーの救済が政治の中心課題として位置づけられた場合、政府がマジョリティーに対する政策を疎かにする、あるいは、その声を無視する傾向が強まる点です。行きすぎたマイノリティー救済政策は、民主主義の中核となるマジョリティー(世論)の軽視を正当化してしまうのです。しかも、財政面に注目しますと、少数者であるマイノリティーを対象とした政策の方が、対象者が限られますので予算は低レベルに抑えることもできます。このことは、マジョリティーである一般納税者は税負担に苦しむ一方で、給付金、補助金、サービスなど、税負担に見合った形で還元されないことを意味します。民主的国家体制が、国民搾取型のシステムへと変貌してしまいかねないのです。実際に、日本国政府を見ましても、リベラルなバイデン政権、否、世界権力の政策方針に追随しているため、同傾向が強まっているように見えます。

 このように考えますと、マイノリティー救済政策には、民主主義を体よく封じてしまう手段ともなり得るリスクがあるように思えます。そして、この手法が、世界権力による上下挟み撃ち戦略の一環であるとするならば(マイノリティー強者によるマイノリティー弱者の利用・・・)、中間層の破壊と民主主義の喪失が同時進行することともなりましょう。世界権力が描く人類の未来像が、同作戦の末に等しく貧困化した人類のデジタル全体主義に基づく画一的な管理であるとするならば、マイノリティー保護政策の背景をも注意深く観察し、日本国民をはじめ各国の国民は、自らに仕掛けられた罠から逃れる方法を真剣に考えるべきではないかと思うのです。

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権力分立が人類を救う?-バイデン大統領次男の訴追

2023年06月21日 10時03分23秒 | 統治制度論
 ジョー・バイデン米大統領の次男であるハンター・バイデン氏については、かねてより黒い噂が付きまとっておりました。その始まりは、同氏が修理に出していたノート型パソコンの受け取りを忘れた2019年4月のことなのですが、パソコンに保存されていたデータの内容が明らかになりますと、アメリカのみならず全人類を巻き込む大スキャンダルに発展しかねないとして、全世界が一時騒然となりました。何故ならば、流出したデータは、公職にあるアメリカの大物政治家が権力を私物化し、親族総出で海外にて利権を漁っていた姿を明るみにしたからです。しかも、疑惑の舞台がウクライナ並びに中国であったのですから事は重大です。

 もっとも、ハンター氏のウクライナ疑惑並びに中国疑惑につきましては、リベラル系大手メディアのみならずFacebookやTwitterといったSNSも火消しに奔走したために有耶無耶にされ、父バイデン氏も、不正選挙疑惑に起因する混乱の末に大統領に就任しています。いわば、火種が燻る状態が続いてきたのですが、今般、ハンター氏が自らの罪を認めたことで、少なくとも同氏が違法行為に関わっていたことだけは事実として確認されることとなりました。疑惑の段階から事実へと移行したことにより、バイデン政権時代にウクライナ紛争がロシアの軍事介入により激化し、中国による台湾有事のリスクが高まったのも、単なる偶然とは思えなくなってきます。

 それでは、ハンター氏のウクライナ疑惑とはどのようなものであったのでしょうか。同疑惑は、単なる政治家親族によるコネ就職や利権漁りに留まりません。ハンター氏は、2014年にウクライナの国営天然ガス会社ブリスマの取締役に就任し、コンサルタントとして年間100万ドルの報酬を得ていたとされます。ここまでは、国民の誰もが眉をひそめる政治家一般に見られる‘悪しき習性’です。ところが、同社に対して汚職の嫌疑で同国の検察の調査が及ぶと、父バイデン氏はアメリカ合衆国副大統領の地位を利用して外部から圧力をかけ、疑惑をもみ消すために同社の調査を担当していた検察官を辞任させてしまったというのです。

 ハンター氏がブリスマ社の幹部となった背景には、ウクライナのシェールガス開発計画があったとも指摘されています。ドイツをはじめEU諸国は、エネルギー資源の供給をロシアからの輸入に依存していたのですが、ウクライナにあってシェールガスの大量採掘に成功しますと対ロ依存の構図は一変します。ここに高いシェールガス採掘技術を有するアメリカとウクライナが結びつく理由が見出せるのです。そして、同開発計画に際して両国間の仲介に当たった両国の政治家の懐にも多額の利益が転がり込む仕組みが用意されていたことでしょう。有望なガス田は、目下、ロシア軍の占領下にある東南部地域にあるとされていますので、ウクライナ紛争には、エネルギー資源の争奪戦という側面が見えてくるのです。

 あるいは、世界権力がアメリカとロシアの両国を操っているとしますと、同権力は、どちら側が勝利しても同地のガス田に関して一定の利権を確保すると共に、自らの資金源となるエネルギー資源の価格をつり上げるために同紛争を利用しているのかもしれません。さらには、激しい戦闘やミサイル等による破壊を演出することで、兵器や復興資金を含めた巨額の支援を各国から引き出すと共に、第三次世界大戦へと紛争を拡大させることで(中国には、戦略物資となる石油等を経済制裁中のロシアから安価で入手させ、台湾侵攻を準備させる・・・)、有事体制、すなわち全世界の諸国における全体主義体制への転換による人類支配を目論んでいるとする推測も、あり得ないわけではありません。

 かくしてハンター氏の訴追は陰謀の実在性を証明し、人類支配の計画を頓挫させるチャンスとなるのですが、この展開を可能としたのは、アメリカ合衆国憲法に定められた権力分立体制であった点は注目されます。仮に、共産党一党独裁体制の中国であったならば、トップの座にある習近平国家主席の家族や親族が訴追されるという事態は到底あり得ないことでしょう。司法の独立性が保障される体制であればこそ、政治家による権力の濫用や私物化が阻止され、アメリカ国民のみならず、全人類が救われるかもしれないのですから。皮肉なことに、ウクライナにおいて権力分立の原則を破壊した行為が、バイデン大統領にブーメランの如くに返ってきているのかもしれません。

 もっとも、今般の訴追については、ハンター氏が司法取引に応じたためとされており、直接に有罪を認めたのは、故意の納税怠慢や薬物依存状態における違法な銃所持など、ウクライナ並びに中国疑惑との直接的な関連性は薄いとされています。この点については、共和党からも手ぬるいとする批判が上がっており、同氏に関連する疑惑の解明がどこまで進むのかは今後の展開を見てゆくしかありません。ロシア発とは言え、ハンター氏は、ウクライナにおける生物化学兵器開発の資金提供にも関わったとする情報もあり、ハンター氏の闇は底なしに深いようにも思えます。そして、政界の闇が深いからこそ、人類の危機を前にして、建国に際して世界に先駆けて権力分立の原則を導入したアメリカの統治制度の真価が問われているとも言えましょう。

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株式会社の起源から考える資本主義の問題-例外の標準化

2023年06月13日 12時35分20秒 | 統治制度論
 今日、株式会社の形態は、企業の典型的なモデルとして全世界の諸国において採用されています。誰もが同形態に疑いを抱くこともなく、あたかも空気の如くの当然の存在と見なしていると言っても過言ではありません。しかしながら、よく考えてみますと、経済に採りまして、必ずしも株式会社が最適の形態であるとは言えないはずです。何故ならば、経済活動を行なう主体性としての権利が十分に保護されておらず、株主という存在によって完全なる所有とまでは行かないまでも、そのコントロール下に置かれてしまうからです。言い換えますと、株式会社とは、他者から拘束を受ける極めて不自由な境遇にあるのです。

 それでは、何故、このような不自由なモデルが誕生し、かつ、全世界に広がってしまったのでしょうか。株式会社の起源は、1602年に設立されたオランダ東インド会社にあるとされています。アジア地域での貿易を独占的に担う東インド会社とは、まさしく大航海時代の申し子であり、17世紀初頭より、オランダのみならず、イギリス、フランス、スウェーデンといった西欧諸国は、競うようにして東インド会社を設立しています。もっとも、国王から特許状を下付された勅許会社ではあっても、政府の直営ではなく、会社自体は富裕な商人達によって設立・運営されていました。当時のオランダには、異端審問から逃れるためにスペインやオランダからユダヤ人が多数移住してきており、東インド会社とは、その誕生の時からユダヤ金融との繋がりが認められるのです(1597年には、アムステルダムの市当局はシナゴークの建設を許可する・・・)。

 さて、大航海時代における貿易には、嵐で船が難破したり、海賊に襲われる可能性もあり、如何に富裕であったとしても、一人の商人や資産家が背負うにはリスクが高すぎました。そこで考案されたのが、貿易事業を小分けに債権化し、リスクを分散・分有するという方式です。ここに、事業が失敗した際には責任を負う一方で、株主が事業権を有すると共に、利益に預かる、すなわち、配当金を受け取る権利を有するとする、株式会社の原型を見出すことができます。

 しかしながら、株式会社の誕生の経緯を見ますと、現代という時代にあって、同形態が、果たして今日そして未来の経済活動組織のモデルに相応しいのか、あるいは、経済において最適の形態なのか、疑問も沸いてきます。何故ならば、東インド会社とは、極めて例外的な存在であったからです。

 第1に、海洋を航行して行なわれる遠隔貿易という事業は、出資者&経営者と実際に事業を行なう人々が分離しがちです。小規模の沿岸貿易であれば、船主が自己資金で回船業などを営み、自ら船に乗り込むこともあるのでしょうが、大海原を航行するには高い造船技術を以て建造されたガレオン船等の大型船舶を要するからです。また、船長を始め航海士、機関士、通信士といった船に乗り込む人々にも、高い専門的な知識や技術が求められます(ジョブ型雇用の起源・・・)。グローバルに事業を展開する貿易事業であるからこそ、出資者&経営者は、自らは働かず、具体的な事業計画を策定し、それを実行組織に対して指図する立場となるのです。

 第2に、出資の対象が高リスクの貿易事業であったことから、出資者は、単なる‘お金貸し’ではなくなります。他者にお金を貸す場合、債権者の側は、一般的には債務者から利息を受け取ります。しかしながら、高リスク事業、しかも、全世界を対象とした事業であったために、株主は、経営権にも介入し得る存在となったのです。資本主義を論じるに際しては、キリスト教やイスラム教にあって利息を取る行為が戒められているため、利息の是非が問題とされる傾向にありますが、資本主義の本質的な問題は、お金を貸す行為に配当を受ける権利のみならず、企業の所有権や経営権が付随してしまうことにあるように思えます。

 第3に、貿易事業のリスクの高さが債権の小口化、即ち、株式の発行という手法が誕生した背景にあるのですが、このことは、債権の譲渡や売買により、創業や起業とは全く関わらなかった人であっても株主の権利を行使し得ることを意味します。ここに、出資者と経営者の分離という二つ目の分離を見出すことができます。その一方で、後に証券市場が発展しますと、起業や事業拡大のための資金調達の手段であった株式の発行は、やがて配当金や売買益を追求する人々にとりましてはビジネスチャンスともなります。言い換えますと、企業に関わる諸権利が企業外にも広く分散し、新たな利害関係者(ステークホルダー)も出現する形で金融業も発展するのです。この結果、一人の私人がお金さえあれば国境を越えて複数の企業に対して権利を有し、かつ、ジョージ・ソロス氏のように財力を有する私人が通貨危機を仕組んだり、バブルや恐慌を引き起こすこともできるようになりました。

 以上に企業形態の視点から主要な問題点について述べてきましたが、株式会社をめぐっては、株主、経営者、そして、そこで働く社員という3つのグループの関係性に注目しますと、三者は凡そ分離しています。こうした分離は、世界大に貿易ネットワークの構築された大航海時代を背景に登場した東インド会社に起源を遡るからなのでしょう。そして、‘グローバル・スタンダード’と‘村落共同体’あるいは’村社会’とも揶揄されてきた日本型企業形態との間の摩擦も、この側面から理解されるのです(’村’は自治の場ではあっても売買の対象とはなり得ない・・・)。岸田首相は‘新しい資本主義’を提唱しておりますが、資本主義に内在する様々な問題が極めて例外的な組織形態を標準化させた結果であるとしますと、全人類にとりましてより善き企業形態、並びに、安定した経済を実現するためには、株主の権利の妥当性を含めた株式会社の形態の問題について原点に返った議論が必要なように思えるのです。

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資本主義は自由主義ではない-企業に‘物権’は設定できるのか?

2023年06月12日 12時11分18秒 | 統治制度論
 今日、多くの人々が、資本主義とは自由主義であると信じ切っていることでしょう。確かに、共産主義諸国に見られた統制経済や計画経済と見比べますと、資本主義には様々な自由が認められています。契約の自由、職業選択の自由、営業の自由など、その多くはフランス革命の成果ともされていますが、個人の経済活動の自由は広範囲に認められており、資本主義は自由主義とする印象を強めています。しかしながら、この図式、本当に正しいのでしょうか。

 昨日、6月11日付けの『日経新聞』朝刊2面の社説には、「企業の成長支える買収制度を整えよう」、とする記事が掲載されておりました。同社説を簡単に要約すれば、‘日本の経済規模や成熟度からすれば、日本企業は成長志向の企業買収を増し、政府も買収制度の整備を急ぐべきである’というものです。実際に、経済産業省も、今月8日に「企業買収における行動指針案」を公表し、パブリックコメントの募集を開始しているそうです。しかしながら、より根源的な問題として、企業買収という行為の正当性については、これまで真剣に議論されてきたことが殆どなかったように思えます。

 企業買収とは、企業が発行している株式の取得を手段とした企業の買取行為です。このことから、(1)企業は売買の対象となり得るのか、(2)株主は企業に対してどのような権利を持つのが妥当なのか、(3)買収が正当な行為であるならば、企業の合意なき買収は許されるのか、そして(4)株式会社という形態は人類社会にとって望ましいのか、といった基本的な諸問題が提起されてきます。これらの問題は、何れも資本主義の根幹に関わることであり、人類にとりましての望ましい経済システムのあり方を根底から問うとも言えましょう。そして、この問題は、今日、深刻さを増している世界経済フォーラムと言った‘巨大な株主達’による世界支配の行方とも関連しているのです。

 それでは最初に、(1)の企業は売買の対象となり得るのか、という問題について考えてみることとします。法の役割の一つに、各自の独立的な存在としての‘人格’を護るというものがあります。ここで言う法による保護の対象となる‘人格’には、人である‘自然人’に限られているわけではなく、国家や企業を含む‘法人’も含まれます。人格の尊重とは、自己決定権を有する主体性の尊重をも意味しますので、近現代にあっては、とりわけ倫理、道徳、人道等に照らしてその重要性が認識されています。

 例えば、個人レベルでは、他者から所有権を設定されて売買の対象ともなり、法的にも一個の独立した‘人格’としては認められない奴隷売買や人身売買などは、近代以降、撲滅すべき悪しき行為とされています。今日、基本的な自由と権利の保障が普遍的な価値とされているのも、過去の歴史にあって‘人格’を否定され、自由を奪われた奴隷的な境遇にあった人々が存在したからに他なりません。また、国家レベルで見ましても、現在の国民国家体系は、それを構成する各国の並立的な独立性を基礎としています。このため、国際法にあっては、各国は独立した法人格を有するとされ、国際社会において主権平等や内政不干渉といった国家の独立性を保障する原則が成立しているのです。近代以降の所謂“植民地支配”が厳しく批判されるに至ったのも、奴隷制と同様に、他国が主体性を奪いう行為を倫理、道徳、人道に照らして悪=利己的他害行為と見なしたからなのでしょう。この点は、村落と言った共同体でも同様であり、これらの様々な人々が活動の場とするコミュニティーや自治体には物権は成立しません。

 かくして、個人レベルであれ、国家レベルであれ、各々の‘人格’あるいは‘主体性’が法によって厚く保護されることとなったのですが、経済の世界だけは、全く逆の動きを見せているように思えます。何故ならば、企業は、法人格としては認められてはいても、実質的にはその独立性や自立性は、株主の存在によって常に脅かされているからです。‘企業は株主のもの’という概念は今日若干薄まってはいるものの、現実には、株券の発行は自らに所有権を設定するような行為となります。言い換えますと、個人レベルでの奴隷の立場と同様に、企業には、所有権が設定されてしまうのです。

 しかも、契約の自由は、株式の売買を介した買収には及びません。たとえ企業が買収に同意しなくとも、TOBであれ、何であれ、株式の一方的な取得による「敵対的買収」や「合意なき買収」が一先ずは可能なのです。言い換えますと、取得側の一方的な意思によって企業側は‘身売り’をしなければならなくなるのですから、株式会社とは、極論を言えば奴隷的な境遇にある、あるいは、物権が設定されている存在にあると言えましょう。そして、グローバルな金融財閥の配下と化した各国の政府とも、自国の企業の主体性を保護するよりも、今般の日本国政府と同様に、むしろ企業売買の活性化策を推進しているのです(つづく)。

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組織論から見れば‘縦割り行政の打破’は改悪では?

2023年06月08日 12時53分56秒 | 統治制度論
 組織の健全性と発展性を確保するためには、決定、実行、制御、人事、評価の各機能を分立させ、これらの役割を担う複数の機関が相互に自らの任務を独立的に遂行できるように制度設計する必要があります。この観点から見ますと、現在、‘縦割り行政の打破’を掲げて日本国政府が推進している行政改革の方針は、改悪となるリスクがありましょう。

 ‘縦割り行政’の批判点とは、現状にあっては、複数の省庁にわたって同様の権限を持つ機関や部署が分散しているため、政策の決定並びに執行に当たって混乱が生じたり、一貫性の欠如が起きやすく、また、迅速な対応を要する場面にあっても後手になりやすいというものです。諸機関の並列的な乱立に帰因する統治システムの機能不全を打開する策として、‘縦割り行政’の解消が主張されているのです。

 凡そ同様の権限を有する機関が併存しているのですから、これらを一つに統合し、政府に直結する形で統合するという案に対しては、多くの人々が思わず納得してしまうかもしれません。昨今、報じられている国立感染症研究所と国立国際医療研究センターを国立健康危機管理研究機構に統合するという日本版CDCの設置も同文脈から説明されましょう。もっとも、同機構の設立に先立って、内閣官房に内閣感染症危機管理統括庁が新設されますので、首相を頂点としながらも、内閣府系と厚労省系の二つの機関が並立する形となるようです(何故か、少なくとも日本版CDC法案には両者の関係が記されていない・・・)。何れにしましても、コロナ禍の教訓を根拠として、政府は、公衆衛生分野における集権化を目指しているのです。

 しかしながら、この方針には、重大な疑問があります。それは、平時にあって有事の体制を常態化しなければならないのか、という問いです。冒頭で述べたように、望ましい組織とは、決定⇒実行のトップ・ダウン方式ではなく、制御、人事、評価の各機能が適宜に働く仕組みを持ちます。複数の機関が関わるために、一瞬、煩雑に見えつつも、後者の方がより合理的で安全です。必ずしも優秀者とは限らないトップによる即断や情報不足等による判断の誤りを回避し、より賢明で国民にとりまして安全な政策決定が行なわれるためには、独裁リスクの高い集権化よりも、役割分担を軸とした高度で精緻な分権化の方が統治の役割を果たすには適しているのです。

 ましてや学問や科学技術の分野では、多様な研究機関が分立し、各機関が独自に研究を進められる体制の方が、新たな発見や発明へと繋がる裾野を広げます。すべての研究機関が同一系統に統合されたのでは、むしろ、学問や科学技術が政治目的に従属してしまい、軍事テクノロジーのみがいびつに突出して発展したソ連邦や中国の体制に近づくこととなりましょう。今日、デジタル技術といったムーンショット計画に資する研究のみが優遇される現状は、自由主義国にあっても同様の歪みがあることを示しているのです。

 個々の自由な研究と研究の独立性なくしてイノベーションも起こりえないのですから、公衆衛生のみならず、政府が選定した特定の研究分野ばかりに予算を集中的に配分する科学技術推進政策の方向性も、多様性と可能性の保持という観点からは間違っているのかもしれません(小惑星探査機「はやぶさ」やスパーコンピュータのプロジェクトのように、政府が当初は‘無駄’と判断した研究でも、後々成果を挙げる研究もある・・・)。そもそも学問の自由の保障も、国民から委ねられた政府の役割の一つであり、良き統治機構にあっては、自由な空間が確保されていなければならないのです。言い換えますと、政府の独断や恣意性に抗い得る独立的な立場からの制御機能が働く必要があると言えましょう(現行の制度では、民主的選挙も基本的には人事機能であるため、制御機能としては十分に働いていない・・・)。

 以上に述べてきました点に鑑みますと、‘縦割り行政の打破’という政府が掲げるスローガンには要注意なように思えます。迅速性と上意下達の徹底を求めるばかりに決定⇒実行という有事体制を平時に持ち込むよりも、制度設計は、平時を基準として行なうべきなのです。しかも、緊急的な措置を必要とする場合に備えるにしても、歴史を教訓とするならば、首相への権限集中は破滅を招きかねないリスクがあります。このように考えますと、改革の基本的な方向性は、むしろ、現行の制度にあって欠けている、あるいは、弱体化している制御、人事、評価の機能強化なのではないかと思うのです。

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組織論から見た‘女性枠’への疑問

2023年06月07日 14時00分14秒 | 統治制度論
 目下、アメリカ民主党政権、否、世界経済フォーラムを中心とする世界権力の強力な後押しの下で、日本国政府は、6月9日におけるLGBT法案の衆議院可決を目指して奔走中です。グローバリスト勢力による世界画一化の波は社会全体にも及んでおり、男女共同参画に向けた政策もその一つです。岸田政権も、6月5日には、改めて「女性版骨太の方針2023」の原案を公表し、(1)女性活躍と経済成長の好循環の実現に向けた取組の推進、(2)女性の所得向上・経済的自立に向けた取組の強化(3)女性が尊厳と誇りを持って生きられる社会の実現の三つの方針が示されました。

 内容そのものは、‘骨太’という‘新自由主義用語’が示すように既定路線の再確認、あるいは、焼き直しに過ぎず、‘新しい資本主義’と銘打つほどの新奇性にも乏しいのですが、とりわけ、グローバル企業における女性役員比率を上げるという方針は、世界権力から命じられている達成すべき至上命題のようです。今般の「女性版骨太の方針2013」には、具体的な達成目標年と比率も定められており、「2025年を目途に、女性役員を1名以上選任するよう努める。」「2030年までに、女性役員の比率を30%以上とすることを目指す」としています。

 しかしながら、冷静になって考えてみますと、双方とも世界権力が推進しながら、LGBTQ運動と女性枠の設定との間にはそもそも矛盾があります。性別によって‘枠’が設けられている場合、LGBTQの人々は、一体、どの枠に入るのか、という素朴な疑問があるからです。そして、こうした矛盾以上に女性枠において疑問に感じる点は、組織論から見た同制度の妥当性です。

 この問題は、女性枠に限らず、アメリカ民主党政権の政策手法であるアファーマティブ・アクションにも見られ、社会的に差別されてきたマイノリティーを優遇するために設けられる‘○○枠’一般に観察されるのかもしれません。もちろん、逆差別という法の前の平等原則に反する重大な問題も内包しているのですが、組織論からしますと、役員といった特定のポストに一定の枠を設ける方法は、一見、平等という価値を体現しているように見せながら、その実、人事権の所在や選任の仕組みを無視しているという問題があるのです。

 今般の女性枠で言えば、具体的な人数やパーセンテージが設定されているのですから、結果だけを見ますと、男女共同参画と理念に近づいたようなイメージがあります。しかしながら、誰を選ぶのか、という人事権に注目した場合、選ぶ側の大多数が男性である、あるいは、世界権力のメンバーである、といった場合には、真の意味での平等が実現するわけではありません。‘男性’、あるいは、特定の人物が選んだ女性であるケースが多数を占めることが予測されるからです。

 実際に、最近、企業の社外取締役に女性の芸能人、タレント、スポーツ選手が就任したとするニュースが増えたように思います。おそらく、プライム企業の東証上場条件ともされるグローバル・スタンダードを満たそうとした数合わせの結果なのでしょうが、どこか違和感が漂っています。それは、同人事は役員としての知識や能力を基準として選定されたのではなく、男性であると思われる選任者がこれらの人々の個人的なファンであった、あるいは、ヤング・グローバル・リーダーのように世界権力が指導者として選んだと推測されるからです。しかも、最近では、女性社外取締を斡旋する人材紹介会社まで出現しており、落下傘的に知名度の高い内外の女性達によって役員枠が埋められるとしますと、企業内部にあって長年勤務してきた一般の働く女性にとりましては、女性枠の設定は、必ずしも歓迎できるものではなくなりましょう(執行役は社内の男性、取締役は外部の女性という一種の‘棲み分け’が成立するかもしれない・・・)。

 何れにしましても、平等の実現を根拠として○○枠を設ける場合には、組織全体のシステムの問題として制度設計しませんと(決定、実行、人事、制御、評価機能の適切な配置・・・)、むしろ、地味であっても仕事において優秀な女性達が昇進のチャンスから遠ざけられ、一般女性の大半が不利益を被るという本末転倒の結果を招きかねないように思えます。そして、システマティックな視点から企業組織を今一度見直してみますと、必ずしもグローバル・スタンダードが唯一かつ最適の企業組織形態ではないことに気がつかされることでしょう。外部の視点が必要ならば、むしろ、一般消費者やユーザーの視点から企業経営を評価してもらうほうが、余程、自らが気づかなかった問題点や改善点を知ることができるかもしれません。また、企業役員について適任者を選ぶに際して、そもそも性差は関係ないことにも思い至るかもしれません(客観的な人事評価を可能とする制度の方が重要・・・)。

このように考えますと、日本国政府、否、世界権力が進めている新自由主義を骨格とする‘骨太の方針’とは、‘平等’という誰もが否定し得ない価値を掲げつつ、企業を含めて自らがコントロールをしやすい社会・経済に誘導するための、一種のマインドコントロールなのではないかと疑うのです。

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権力分立が‘必然’である理由-組織論からみた独裁の致命的欠陥

2023年06月06日 10時17分58秒 | 統治制度論
 共産主義に基づく一党独裁体制のみならず、古今東西を問わず、人類史には独裁体制というものが散見されてきました。その殆どに悪評が付きまとっており、‘独裁は素晴らしい’あるいは、‘独裁者、万歳!’という声も殆ど聞こえてきません。古代アテネに至っては、独裁者(僭主)を忌み嫌い、その出現を未然に防止するために、陶片追放という制度まで設けたぐらいです。しかしながら、残念なことに、ヒトラーが民主的選挙制度を踏み台とし、共産主義がプロレタリアート独裁を以て権力集中を目指したように、近現代に至っても、独裁体制が消滅したわけではありません。

 今日なおも、習近平国家主席を頂点とするパーソナル独裁体制が強化されている中国を見ましても、権力分立論は政治的タブーでさえあります。全国人民代表会議という‘議会もどき’が設けられていても、それは、お飾りにしか過ぎません。否、国家よりも中国共産党が上位にあるのですから、国家機構において如何に多数の機関が設けられていたとしても、指揮命令系統を見る限り、必ずしも権力が分立されているわけではないのです。司法分野でさえ、司法の独立性は蔑ろにされており、その証拠に政治上の犯罪が存在し、独裁体制に反対する国民は政治犯として刑罰を受けてしまうのです(刑罰どころか、天安門事件では、人民解放軍が自国民を虐殺している・・・)。

 かくして独裁体制は今日に至るまで恐るべき‘耐久性’を示してきたのですが、同体制をこの世から消してしまう方法はあるのでしょうか。少なくとも一般的な組織論から統治機構を合理的に設計しようとすれば、あらゆる決定権を一人の人、または、一つの機関に集中させる独裁体制という選択肢が真っ先に除かれることは間違いありません。その単純明快なる理由は、特定の目的の実現、あるいは、特定の役割を担うために設けられる組織には、必ずや(1)決定、(2)実行、(3)制御、(4)人事、(5)評価の凡そ5つの基本的な機能を組み込まなければならないからです。

 組織に組み込むべき基本機能が複数存在するということは、それは即ち、組織において各機能を担う機関を分立させる必要性があることを示しています。実行機関の独立性については、軍隊のように上意下達の徹底が要求される場合を除いて、今日では、立法機関と行政機関との間の分立は権力分立論として近代政治学において理論化され、民主主義国家では既に統治機構において採用されています(詳細はここでの省略はお許しください・・・)。
制御機能は、決定機関による権限濫用、権限逸脱、権力の私物化などを防ぎ、組織の健全性を保ったり、正常化するために必要不可欠の機能です。いわば安全装置であり、修復装置でもあります。また、人事機能の独立性は、各々のポストについて適者を選択するに際して重要な意味を持ちます。人事における独立性が確保されていませんと、人事とは、得てして構成員間の権力闘争や派閥争いの結果に過ぎなくなるからです。そして、評価は、組織の発展には欠かせない機能となりましょう。決定の結果に対する客観的な評価こそ、改善点として組織に環流される経路となるからです。

 自己抑制や自己評価など、自らが自らの思考や行動を客観的な視点から見ることが難しいのは、誰もが認めるところです。独裁体制では、これらの分立させるべき諸機能が全て一つの決定機関に集中させていますので、安全装置なき暴走状態となるか、あるいは、発展なき停滞を招きやすいのです。最悪の場合には、独裁者、即ち、決定機関による‘暴走状態’が発生したとしても、如何なる外部的な機関もこれを止めたり、修正することはもはやあたわず、暴走車に同乗させられた全国民が‘重大事故’に巻き込まれることとなりましょう。

 権力が一カ所に集中させる独裁とは、人類の経験知や政治理論のみならず、組織論においても否定されていると言えましょう。そして、決定、実行、制御、人事、評価の諸機能の分立を制度設計の基礎に据える見方は、組織一般のみならず、統治機構を改善する上での指針となるのではないかと思うのです。

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‘有事の集権化’は正しいのか-第二次世界大戦の教訓

2023年06月02日 10時35分21秒 | 統治制度論
 コロナ禍を機に公衆衛生危機への対応も加わって、昨今、日本国政府は、緊急事態条項の新設を含む憲法改正を視野に入れながら、有事に際しての首相への権限集中を目指しています。しかしながら、‘有事の集権化’については、第二次世界大戦を教訓とするならば、よりクールなアプローチが必要なように思えます。

 有事ともなりますと、戦争当事国は、たとえ民主主義国家であったとしても戦時体制への転換を余儀なくされるものです。特に近代以降、戦争の形態が総力戦へと変化しますと、国家は全国民並びに自国の持てる資源を全て戦争での勝利に向けて投入する必要に迫られるからです。戦中戦後を通して連合国諸国は、枢軸国諸国の国家体制を独裁として批判してきましたが、議会制民主主義の母国であるイギリスにあっても、戦時には首相を首班とする挙国一致内閣を成立させ、戦時向けの政府主導体制へと転換しています。ドイツやイタリア等が殊更に批判されるのは、有事ではなく平時にあって独裁体制が成立したからなのでしょう。もっとも、ドイツであれ、イタリアであれ、未曾有の社会・経済的な混乱に見舞われた戦間期は‘有事’に等しく、ナチスのアドルフ・ヒトラーにせよ、ファシスタ等のベニート・ムッソリーニにせよ、‘救世主’としての国民からの熱狂的な支持なくして出現し得ませんでした。何れにしましても、危機的な状況は集権的な独裁体制を正当化する根拠となるのです。

 それでは、戦時における独裁体制は、戦争に勝利をもたらす決定的な要因となるのでしょうか。第二次世界大戦を見ますと、強固な独裁体制を敷いた国の側が敗北しています。ヒトラーは、『我が闘争』において超人の如き最優秀者による支配を主張し、自らこそこの‘指導者’に相応しいと自認していましたが、それがヒトラー自身の自己陶酔、もしくは、国民にかけた催眠術であったことは歴史が証明しています。結局は、ドイツ国民を救うどころか、奈落の底に突き落としてしまったのですから。第二次世界大戦の事例を引くまでもなく、平時にあっても一党独裁体制のイデオロギーの元で独裁体制が継続されている中国や北朝鮮をみても、トップに君臨する独裁者が必ずしも‘最優秀者’であるわけではないことは明白です。否、権力闘争に勝ち残った権謀術数に長けた人物や世襲によって独裁権力を引き継いだに過ぎないような人物が、得てして独裁者として国民に対して強権を振るうこととなるのです。

 ここに、特定の人物あるいはポストへの権力の集中は、最適者の選任という人事上の極めて困難な壁にぶつかるということに気付かされます。現実には、こうした完璧な人物は存在しないか、たとえ存在したとしても、トップの地位に就くことは殆ど不可能であるからです。このことは、単なる独裁者への権力集中の危険性を示しています。‘指導者’の政治的能力が低く、道徳心や常識にも欠け、国家や国民に対して不誠実であれば、集権化のリスクは戦争にも優るとも言えましょう。しかも、‘指導者’は、自らを最優秀者として振る舞おうとしますので、国民からの批判は一切許されず、誰もその暴走を止めることはできなくなります。超人的な最優秀者は、神の如くに無誤謬なはずですので、判断を誤るはずはないとされているからです。かくして、この建前に矛盾したり、反するような情報は隠蔽され、国民は、閉鎖的な空間に閉じ込められ、国民は地獄への道連れとなりかねないのです。

 この状況が、如何に救いがたいものであるかは、岸田首相に権力が集中した状態を想像してみれば容易に理解されます。日本国は、議院内閣制ですので国民の支持がなくとも、党内の多数派を制すれば首相に就任することができます。言い換えますと、現行の制度では、日本国の首相は、必ずしも決断力や知力に秀でた‘最優秀者’ではないことを意味します。しかも、軍事テクノロジーが急速に発展した時代にあって、首相に中国が仕掛ける超限戦に即応できるほどの豊富な知識や情報を期待することはできず、戦略立案の経験もほとんどないことでしょう。第二次世界大戦におけるドイツの敗北は、ヒトラーが軍事に関しては素人であった点が挙げられていますが、この点、岸田首相も同様の道を歩むかもしれません。

 また、岸田首相は、ウクライナをはじめとした諸外国に対しては大盤振る舞いをしながら自国民に対しては増税で臨んでいます。こうしたグローバリストに迎合した海外重視の首相の姿勢の背景には、世界経済フォーラムに象徴される世界権力の意向が強く働いているともされます。仮に首相が世界権力の傀儡や代理人である場合には、来る戦争そのものが同権力による戦争当事国のトップを介してコントロールされることとなりましょう。過去の二度の大戦についても、世界権力が暗躍した疑いは濃厚です。

 合理的に考えれば、首相もまた人である以上、国家の命運を左右する決定を首相一人に任せるのは危険極まりなく、統治制度としてもあまりにも杜撰です。現行の憲法下でさえ首相の暴走を抑えることは難しいのですから、法改正や憲法改正により集権化が進めば、首相は、国民の声に対してなお一層聞く耳を持たなくなることでしょう。‘有事には集権化’という図式は、本当のところは固定概念に過ぎず、有事に際して国民の連帯性や協力関係を強める必要はあっても、必ずしも権力を一人の人物、あるいは、ポストに集中させる必要はないのかもしれません。陰謀や謀略が渦巻く現代という時代にあっては、むしろ、国民の意向を反映した賢明な決定がなされ、かつ、軌道修正も容易となるような手続きこそ求められているのではないでしょうか。集権体制の構築に向けて猪突猛進する日本国政府の姿こそ、国民に忍び寄る危険を知らせる兆候なのではないかと危惧するのです。

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コロナ禍の教訓は権力集中の逆では?

2023年06月01日 11時29分51秒 | 統治制度論
 昨今、日本国政府は、コロナ禍への対応が不十分であったとして、危機管理体制の構築に邁進しています。4月21日には「内閣感染症危機管理統括庁を内閣官房に新設する改正内閣法」を成立させると共に、昨日5月31日には、日本版CDCとも称される国立健康危機管理研究機構を設立する法案が参議院において可決されました。政府の言い分は、‘過去にあって迅速かつ効果的な措置を執ることができなかった’という‘反省’に尽きるのですが、この説明、説得力があるのでしょうか。

 新型コロナパンデミックに対する諸外国の対応を見ますと、ロックダウンを実施したり、ワクチン接種の義務化を容認するなど、政府が強権を発動した事例が見られます。一党独裁国家として知られる中国のみならず、自由主義国でも強硬な措置が執られました。例えばフランスでは、憲法に基づいてマクロン大統領が緊急事態宣言を発令し、三度に亘ってロックダウンを実施しました。アメリカでも、医療従事者及び連邦政府や州政府等の職員に対してワクチン接種を義務づけるといった、踏み込んだ対応を行なっています。日本国政府からすれば、こうした諸国は見習うべき‘危機管理先進国’であり、日本は‘後進国’という認識があるのでしょう。否、欧米諸国の先例を国民を納得させることができる格好の説得材料’とみているのかもしれません。

 諸外国が疫病の蔓延を有事の一種とみなしたことから、日本国内では、コロナ禍は、憲法改正問題ともリンケージすることともなりました。憲法改正の論点とされてきた緊急事態条項については、当初は防衛上の有事が主たる発動の対象として想定されていたのですが、今日では、むしろ公衆衛生危機に主軸が移っています。戦争に帰因する国家的な危機と同様に、国民の命と健康が危機に直面する場合にも、首相に権限を集中し、迅速かつ強制的な措置をも行えるようにすべき、という主張です。

 感染力が強く致死率の高い感染症を放置しますと、かつてのペストのように人口の3分の1程が失われるほどの大災害となりますので、多くの国民は、政府の説明に納得してしまうかもしれません。しかしながら、今般のコロナ禍は、政府の説明とは真逆の教訓を残したように思えます。事実が、ロックダウンやワクチン接種の効果を否定するどころか、むしろ、拙速で浅慮な政府の判断が、国民の命も経済も損ないかねないことを証明しているからです。

 新型コロナウイルス感染症について、WHOはグローバルな危機としてパンデミックを宣言しましたが、厳格なロックダウンを実施した国のみが感染者数、重症者数、並びに、死亡者数を低いレベルに抑えたわけではありません。多くの諸国がロックダウンを実施した中、同措置を選択しなかったスウェーデンあっては、突出して死者数が激増したわけではありませんでした(一時的な死者数の増加は介護施設による高齢者の感染防止が不十分であったと札瞑されている・・・)。そもそもロックダウンの効果は短期的ですし、ロックダウンのレベルと感染状況との間に明確な相関関係が確認されているわけでもありません(むしろ、経済的な損失の方が深刻となる・・・)。

 ましてやmRNAワクチンの接種促進ともなりますと、政府による当時の判断は誤りであったとしか言いようがありません。‘有事’を根拠として最先端の遺伝子技術を用いた新型のワクチンを緊急承認し、国民に半ば強制的に接種させたものの、今では、ワクチンによる健康被害が深刻化しているのですから。しかも、ワクチンのメリット面のみを強調し、マスメディアをも総動員してマイナス情報を封印したのですから、政府が意図して国民を騙したに等しくなります。

 mRNAワクチンについては、たとえ体内における抗体の産生により一時的にコロナの感染や重症化を防いだとしても、長期的には不可逆的に免疫システムに害を与えるリスクが既に指摘されておりました。こうしたリスクに満ちたワクチンを、詳細に成分を分析することも、十分に安全性を確かめることも怠り(政府は、易々と製薬会社との契約条件を飲んでしまった・・・)、国民に接種させたのですから、トップによる‘即断’が望ましいとは限らないことを示す事例となります。仮に、コロナ禍がなければ、mRNAワクチンの承認には数十年の年月を要したことでしょう(あるいは、治験の段階で、その危険性の高さから実用化が断念された可能性も・・・)。

 防衛や安全保障上の危機に際して、仮に政府が国民に対して護身用の装備を配布したとしても、それが国民の命を奪うことはまずありません。一方、凡そ全ての薬がそうあるように、ワクチンといった医薬品には、身体に対して‘毒’となるリスクがあります。言い換えますと、国民を護るどころか、政府が国民の命や健康を奪いかねないのです(早まって自国民に‘生物化学兵器’を使うようなもの・・・)。しかも、グローバルなワクチン利権が絡んでいるとしますと、‘有事’を人為的に造り出した世界権力による謀略であったとする説も信憑性を帯びてくるのです。

 そもそも政治家は専門家でも科学者でもありませんので、政府主導の感染症対策が適切、かつ、科学的にも正しいとは限りません。コロナ禍を教訓とし、国民の命を護ると共に、政治的支配や利益追求の手段となるリスクを回避しようとすれば、首相の一存で強硬な措置が即座に実施し得る体制への転換を図るよりも、医科学的な見地を含め多方面から検証し、安全性を確認し得る体制の方が望ましいはずです。このように考えますと、公衆衛生危機あるいは健康危機の分野では、権力を政治家に集中させるのではなく、より客観的かつ賢明な政策形成、並びに、手法の選択が可能となるような、制御装置等を組み込んだ分権的な制度改革こそ急ぐべきではないかと思うのです。

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アメリカに見る政府による健康危機管理の危険性

2023年05月31日 11時57分18秒 | 統治制度論
 日本版CDCとされる「国立健康危機管理研究機構」については、科学技術分野における研究・開発機関ではなく、政府の政策を忠実に実行する政治機関化するリスクがあります。しかも、その名称が示すように、新型コロナウイルス感染症への対応が不十分であったことを踏まえ、迅速な公衆衛生危機への対応を実現することを目的としながら、政治家である厚生相が6年という中期目標を作成するという矛盾もあります。緊急時における厚労相の命令権に関する規定は見られるものの、予めパンデミックを起こすウイルスや細菌を知ることはできないはずですので、何故、中期目標を設定する必要があるのか、自ずと疑問も沸いてくるのです。突然に地球上に出現し、瞬く間に全世界にパンデミックを起こすような未知の病原体に対して、予め即応できるような予防や治療の研究開発ができるとは思えないからです。

 そこで推測されるのは、同機構は、政府が説明するように国民の健康危機管理を目的としているのではなく、隠された目的があるのではないか、ということです。おそらくそれは、日本国政府が掲げているムーンショット計画、あるいは、世界経済フォーラムが進めている「グレートリセット」なのかもしれません。‘長期目標’もしくは‘最終目標’が存在しているからこそ、中間地点としての‘中期目標’が設けられていると推測されるのです。

 この疑いは、日本版CDCの設立が、アメリカのバイデン民主党政権からの要請であった点において強まります。新型コロナウイルス(Covid19)については、武漢ウイルス研究所から流出したとする説が有力であり、同研究所には、オバマ政権下にあってアメリカから資金が提供されていました。資金提供の経路は、アンソニー・ファウチ氏が所長を勤めていた国立アレルギー感染症研究所(NIAID)が感染症研究を専門とする非営利団体「エコヘルス・アライアンス」に業務委託したところ、同団体が、武漢ウイルス研究所と共同でコウモリを宿主とするコロナウイルスの機能獲得実験を実施していたというものです。委託事業の研究成果についてはファウチ所長への報告は義務づけられていたでしょうから、同氏は武漢での研究内容を知っていたはずなのです(同氏は、2021年5月に開かれた公聴会で資金提供の事実を否定したため、偽証罪を問う声もある・・・)。

 就任早々、バイデン大統領は、巨額のワクチン利権を有するビル・ゲイツ氏が主要出資者であり、世界権力との癒着が指摘されているWHOとの関係を改善しています(トランプ前大統領はWHOからの脱退を表明・・・)。また、同大統領は、ファウチ氏を「首席医療顧問」に任命し、コロナ対策の陣頭指揮をとらせています。バイデン政権下の米国にあっては、ワクチン接種が推進され、国際的なワクチン供給の枠組みであるCOVAXへの参加も表明されました。

 それでは、日本国の「国立健康危機管理研究機構」はどうでしょうか。同法案の第一条にあって「予防及び医療に係る国際協力に関し、調査、研究、分析及び技術の開発並びにこれらの業務に密接に関連する高度かつ専門的な医療の提供、人材の養成等を行う」と記されると共に、第23条には、業務の一つとして「予防及び医療に係る国際協力に関し、研究開発を行うこと。」を挙げています。これらの条文から、同機構も海外の研究機関との共同研究を実施できるものと解されます。

 また、厚労相は、同機構の中期目標の作成に際して諮問が義務づけられている「研究開発審議会」に「公衆衛生その他の分野の研究開発に関して高い識見を有する外国人」を任命できるとしています。審議会の委員長に就任できないことや委員総数の5分の1を超えてはならいとする制約が付されつつも、外国人が「国立健康危機管理研究機構」の目標設定に関わることができるのです(バイデン政権、否、世界権力の狙いはここにあるのかもしれない・・・)。

 加えて、同機構は、民間企業との連携をも視野に入れています。何故ならば、同法案の第24条では、同機構が‘成果活用事業者’に対して無償で支援する場合には、同社の株式あるいは新株予約権を取得・保有できるとされているからです。同条文は、日本国の出遅れが指摘されている研究成果の製品化やバイオ分野における起業促進を目的としているのでしょうが、上述したアメリカの「エコヘルス・アライアンス」のような団体への業務委託を介した中国等への技術流出、あるいは、特定の医療・医薬品メーカーとの癒着や利益誘導が生じるリスクともなりましょう。そしてテクノロジーの官民を問わないグローバルな拡散や人材交流は、世界権力に対して人類支配のための基盤を与えるかもしれないのです。

 コロナ禍にあっては、ロックダウンを実施した諸国も多く、また、ワクチン・パスポート構想の下でのワクチン接種も半ば強制的に進められました。今日でも、マイナンバーと保険証との一元化の真の目的は、政府による国民の身体・健康に関するデジタル管理なのではないとする指摘があります。本日、同法案は参議院にて可決成立しましたが、点と点が繋がって線となるとき、そこに現れるのは、国民本位とはほど遠い人類支配のシステムなのかもしれないと危惧するのです。

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日本版CDCは政府の‘手下’?-「国立健康危機管理研究機構」に独立性を

2023年05月30日 12時20分20秒 | 統治制度論
 今般、日本版CDCとして設立が予定されている「国立健康危機管理研究機構」については、コロナ禍の経験から公衆衛生上の危機に際しての新たな‘司令塔’の設立として解説するメディアも少なくありません。同機構が国立感染症研究所と国立国際医療研究センターとの統合による設立が同見解の背景にあるのでしょうが、‘司令塔’については、既に本年4月21日に「内閣感染症危機管理統括庁を内閣官房に新設する改正内閣法」が成立しております。むしろ、同庁と国立健康危機管理研究機構との関係が不明な点が問題視されているのですが、両法案とも、政府への権限の集中が図られた点では共通しています。そして、ここに、政府主導の感染症対策は望ましいのか、という問題が提起されることとなりましょう。

 そもそも、モデルとされるアメリカのCDCに極めて政治色の強い機関です。同機構の所長は、議会の承認を得る必要のない大統領による任命であり、政治的任命であるために、大統領は何時でも職を解くこともできます。それでは、日本国の「国立健康危機管理研究機構」はどうでしょうか。同法の第11条には、「理事長及び監事は、厚生労働大臣が任命する。」とあります。また、副理事並びに理事は、厚生労働大臣の許可を受けて理事が任命しますので、同機構の人事の流れは、首相⇒厚生労働大臣⇒理事長・監事⇒副理事・理事となり、首相をトップとするトップ・ダウン型となることが予測されるのです。言い換えますと、人事権を見る限り、同機構は、政府(政治サイド)の下部組織として位置づけられていると言えましょう。

 また、任期についても、特別の措置もとられています。何故ならば、理事長の任期は「中期目標の期間の末日」、即ち、原則6年とはされているのですが、より適した人を任命するために厚労相が必要と認めた場合には、3年に短縮できるとしているからです。‘適任者’の判断は政府に任されますので、同規定も政府の人事権を強めているのです。こうした任期の延長や短縮に関する権限を用いた独立的組織の従属化は、凡そ3年前に問題となった検察法改正問題を思い起こさせます。検察法については任期の3年延長という‘飴’が問題視されたのですが、今般の法案では、任期短縮という‘鞭’を政府が握っているのです。

 こうした同機構の人事手続きを見る限り、理事長には、政府に対して批判的であったり、国民の生命や健康ために抵抗するような人が選任されるはずはありません。政府の方針や諸政策において、如何に医科学的な見地から合理的な疑問や倫理上の問題があったとしても、それに目を瞑ることができる人のみが任免されることでしょう。今般のコロナ禍にありましても、初期段階からコロナ・ワクチンには重大な健康被害の懸念が指摘されていながら、政府が注意を喚起すべきマイナス情報を国民に伏せたために、国民の命や健康が軽視されました。同法によってさらに権限が政府に集中しますと、国民が置かれている状況はさらに悪化することでしょう。

 かくして、新設される同機構は、政府が決定した政策を忠実に実行する下部組織に過ぎなくなることが予測されます。同法案に依れば、実際に、上述した中期目標を決定する権限も厚生労働大臣にあります(第27条)。言い換えますと、「国立健康危機管理研究機構」は、純粋に医科学的な観点から独自に調査や研究を行なうことはできず、常に政府の意向に従わざるを得なくなるのです。

 この状況は、極めて危険です。政府の暴走を止める制御装置もなく、科学的な客観性よりも政治的目的が優先されるのですから。コロナ禍に優るワクチン被害に鑑みれば、改正の方向性が逆であり、「国立健康危機管理研究機構」こそ、科学的な立場から政府に対する制御機能を担うべきなのではないでしょうか。つまり、公衆衛生の安全性の観点から、同機構の独立性こそ保障されるべきではないかと思うのです。

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