非常停止ボタンは誰が為にある〜JR東日本のケース

　現場はJR山手線渋谷駅のホーム。多くの乗客が電車を利用する帰宅ラッシュの時間帯だった。駅員激怒のきっかけは､乗客が線路内に財布を落とした事だった。
　その乗客は(何を血迷ったか)非常停止ボタンを押してしまったのだ。乗客は4万円入った財布を線路内から拾ってほしいとお願いする。しかし､駅員の強い口調は止む筈もない。

　JR東日本によると､山手線など運行本数の多い列車のホームでの落とし物は”安全上､拾い上げるのが終電後となるケースもある”と。今回のトラブルについて専門家は”乗客が賠償責任を問われる可能性もある”と指摘する。
　”財布(の紛失)という運行に支障がないものによって電車の運行を止める事による損害については､賠償責任を課せられる可能性はある。駅員の行為は強い口調だが､これは不法な有形力行使には該当しない”との事だ。
　一方でJR東日本は､”駅員の言葉づかいは適切ではないと考えている。お詫びさせて頂きたい”とコメント(TBS NEWS DIGより)。

非常停止ボタンは誰が為に

　SNS上では､”常識を逸脱してる”とか”賠償請求は当り前”とか､様々な声が上がってはいるが､乗客からすれば4万の現金が入った財布を落とした事は死活問題だったのかもしれない。
　たかが4万円の為にって思われそうだが､乗客がある種のパニックに陷るのも理解でなくはない。その後のコメントを見る限り､男は自分なりの正義を主張してる様にも思える。
　勿論､駅員が怒り心頭になる気持ちも理解できるが､財布を拾うのが”(安全上)終電以降になる”という規定があるのなら､それを最初に言うべきだった。怒鳴りつけるのはその後で良かった。

　それに､運行を強制的に停止する事で多くの損害が出るのは解りきってるのだから､非常停止ボタンは駅員やその関係者だけが押せるシステムにすべきだった。一方で､乗客の緊急事態に対応する為の通報電話(ボタン)などを別途用意すべきだろう。
　大半が､”非常停止ボタンを押した男が悪い”という結論だが､私に言わせれば”非常停止ボタンを乗客が押せる様にしてるシステムが悪い”となる。
　せめて”押してはいけない”非常ボタンなら､乗客が簡単に押せる所に非常ボタンを用意すべきではない。
　線路内に財布を落とした事自体､責められるべき事かもしれないが､もし男が線路に降りて最悪のケースに至ってたら､賠償問題どころではなくなる。そういう意味では､駅員が咄嗟にとった行動は褒められるべきでもある。

　しかし､その後がいけない。
　”財布を探すのは(規定上)終電以降になるから､それまで待ってほしい。今ここで列車を止めたら賠償問題に問われる可能性がある”と､強い口調で諭せばいい。
　ただ不思議なのは､乗客がなぜ非常停止ボタンを押したのか？
　単にパニックに陥ったからか？それとも冷静な判断があったのか？いや､4万円が男にとっては死活問題でもあったのか？
　その後のやり取りを見てると､男には悪気や反省の色は全くない。とにかく”財布を探してくれ”の一点張りである。
　勿論､財布を落とした事は責められるべきでもないが､非常ボタンを押した事は責められるべきであり､反省に値する。
　しかし､誰でも何処でも押せる様な所に､(緊急時以外は)”押してはいけない”非常停止ボタンがある事自体､責められるべき問題でもある。

　非常時とは言っても､男にとって4万円が入った財布をなくした事は緊急事態と言えなくもない。
　結局､何を持って緊急(非常)事態とするかはコロナ渦でも大きな問題になったが､人は簡単にパニックに陥り､人の脳は混乱したまま正義を下す。勿論､その正義が万人にとって正しければ何ら問題はないが､往々にして個人の正義はその個人にしか通用しない。
　男は(落とした財布を拾う為に)非常停止ボタンを押すという正義を行使したつもりだったが､もし非常ボタンが目の前になかったら(いやどこでも押せる位置になかったら)､男はすぐに駅員の所に駆けつけたであろうか。
　つまり､非常ボタンは男の為にあったのであり､少なくとも男は咄嗟にそう判断した。もし非常ボタンが(乗客らの為にではなく)駅員の為にあったなら､今回の騒動は起きなかったかもしれない。

賠償責任とデップ裁判

　冒頭で紹介した様に､”財布(の紛失)という運行に支障がないもので電車の運行を止め事による損害”との専門家の言葉だが､男にとっては財布の紛失は明らかに支障であり､財布の紛失が列車を止めたのは(間接的だが)事実である。
　それに､”賠償責任を問う”のであれば､(誰もが押せる様な所にある)非常停止ボタンの存在も問うべきである。

　駅員の強い口調は”不法な有形力行使には該当しない”との事だが､強い口調や乱暴な言葉使いが問題ではなく､非常停止ボタンを押した事ばかりに論点が集中してる事も問題である。
　駅員の気持ちも理解できるが､財布をなくしてパニクってる乗客の気持ちを少しでも察する余裕があったら､ここまでの怒鳴り合いにはならなかったかもしれない。
　昨日記事にした｢デップ裁判｣を思い出すが､お互いの論点がズレすぎて､責任とお金の問題だけに話題と関心が集中する。

　今回も(これがアメリカなら)下手に賠償責任を追求するんであれば､”賠償責任を問うとの主張は名誉毀損にあたる”と､男がJR東日本を逆に訴えるかもしれない。　
　陪審員は､”JRは強い口調と荒々しい言葉で原告(乗客)の名誉を棄損する意図があった”との評決を下し､逆に多額の賠償金を請求するかもしれない。
　そういう意味では､”駅員の言葉づかいは適切ではなかった”と､JR側がすぐさまお詫びを入れたのは賢明でもある。

　とにかく今回の件は､”乗客の財布の紛失→非常停止ボタンの作動→駅員の怒り心頭→乗客の反発→SNS上での炎上”という結果で終わったが､(最悪)死傷者が出なかっただけでも良しとすべきであろう。
　それにしても､高く付きすぎた4万円だが､その財布は今頃何と叫んでるのだろうか。