全6話を使い、チャーチル物語を語り終えた所で、”その1”に舞い戻ります。そこでは、「暗号名チューブ•アロイズ~原爆投下とチャーチルの戦略」の大まかな概略を述べました。因みに、写真は米英が日本への原爆投下に同意した「ケベック協定」文章です。
ポツダム会議(1945)での原爆をめぐる英米ソの思惑?その中でチャーチルを悩ませた”チューブ•アロイズ”とは一体?
でも、原爆の開発はアメリカが最初に行ったマンハッタン計画で、それで日本に落としたんだよね?って。
勉強不足の私もそう思ってた。原爆投下は全てアメリカのトルーマンとオッペンハイマーとバネバー・ブッシュの仕業だと思っていた。
勿論外れてはいないが。実は、このマンハッタン計画の前に、既に原爆開発計画が始まってたのだ。
原爆の開発はドイツやソ連も関わってた事は、誰もが知り得る事実だが。歴史を辿ると、実はフランスとドイツが最初なのだ。あらまビックリ仰天。
”チューブ•アロイズ(Tube Alloys)”とは、第二次世界大戦中のイギリスの核兵器開発計画のコードネーム。英米との間で、核兵器開発の可能性を高レベル機密として管理していた際に、この暗号名が使用された。
この”チューブ•アロイズ”こそが最初の核兵器開発プロジェクトで、その後アメリカのマンハッタン計画に引き継がれた。そしてこの計画の元は、実はフランスとドイツにあった。
つまり、原爆の仕組みとチューブアロイズ計画を知らずして、広島と長崎の悲劇は語れないとなる。
原爆計画の始まりと仏独との駆け引き
オットー•ハーン(独)と、スウェーデンに亡命していたリーゼ•マイトナー(墺)は、1938年にウラニウムにおける核分裂を報告する。
翌1939年には、パリの”コレージュ•ド•フランス”という科学者のグループが、核分裂を発表し、”減速材としての中性子の必要性”を示した。
この重要な発見は、”連鎖反応の可能性”を示唆した。これは多くの科学者に、原子爆弾が理論的に作成可能である事を想像させた。しかし殆どは、その様な原理的な爆弾は不可能であると考えていた。
パリのグループのフランシス•ペランは連鎖反応を維持する為に必要な、最小限度のウランの量である”臨界量”を定義した。その上、天然のウランでは、核分裂により生じた高速中性子を減速させる為の減速材なしには、連鎖反応を維持する事が、不可能な事をも発見する。
つまり、”減速材”さえあれば原爆は製造可能だ”と。
1940年、このグループは”重水”(比重の大きい水)が理想的な減速材であるという理論を固める。彼らは、ノルウェーにある大きな水力発電所から、どれだけの重水を得る事が可能か?問い合わせた。すると、何とノルウェーの重水の全在庫を、ドイツが購入する為に注文を行っていた事を知る。
つまりドイツも既に、原爆の開発を行っていたのだ。
フランスはノルウェーの政府に、”重水”の潜在的な軍事的重要性を説明した。
早速ノルウェー政府は、重水の全ての在庫をフランスの秘密任務組織に渡し、英国経由でフランスに密輸した。ドイツがノルウェーに侵攻する直前の、1940年4月の事である。
故にドイツは1940年5月にノルウェー侵攻を行ったが。165クォートの重水とパリのグループは、何とかイギリスのケンブリッジに逃れた。
”MAUD”とチューブ•アロイズ計画
当初イギリスの研究では、自然のウラン(238)を使用した高速中性子による原爆は不可能だと結論づけてた。”ウラン238”が、多くの中性子を捕獲するからだ。
しかし1940年2月、英国に亡命したフリッシュとパイエルスの2人のドイツ人科学者は、原爆は製造可能であり、同位体の質量の軽い”ウラン235”を数kgと高速中性子のみで爆発させる事が可能な事に気付いたのだ。
2人は、ウラン235がウラン238と完全に分離できれば、減速材は必要ないとの報告を行なう。つまり、”ウラン235のみで原爆が製造可能”だと。
彼らは、自分達の教授であるマーク•オリファント(豪)に報告し、オリファントは、ヘンリー•ティザードにその情報を伝えた。
このティザードこそが1940年4月に、原爆の実現可能性を調査する、有識者による英国の最高秘密委員会(MAUD)を作った人物だ。
報告は”MAUDレポート”と記載され、後にチューブ•アロイズ計画として推し進められる事になる。つまり、英国版原爆計画です。
このMAUDの使節団は、1940年9月に北アメリカに送られ、その代わり、レーダー•ジェットエンジン•核研究などの技術を手に入れた。彼らは英国の軍事研究施設を、ドイツの爆撃範囲外の北アメリカに移動させようした。
やがて使節団は、”遅い中性子(ウラン235)の研究”がケンブリッジ大のパリのグループだけでなく、既にコロンビア大のフェルミや、カナダのローレンスにより継続されてた事を報告する。
つまり、ドイツや英国にも負けず、アメリカも以前から原爆計画を着々と準備してたんです。
英国のプルトニウム抽出の発見
MAUD委員会が直面した最も大きな問題は、”99.3%を占めるウラン238から0.7%のウラン235を分離(抽出)”する方法であった。
化学的には不可能だとされたが、オックスフォードのフランシス•サイモン(英)は1940年12月、”気体拡散法”により実現可能であると報告。ここにてMAUDの委員会は、”原爆が実現可能ではなく、必ず作れる”事に気付いた。
この”気体拡散法”だが、ウランのガス化合物と純粋なウラン金属と、それにプルトニウムが必要だった。前者はバーミンガム大学やICIで研究された。
肝心のプルトニウムの抽出は、ブレッチャー(英)とフェザー(英)により、ケンブリッジ大所属の研究所で実現した。
彼らは、ウラン(238)を燃料とし、低速中性子(ウラン235)を用いる原子炉が、かなりの量のプルトニウム239を副産物として作り出す事に気付く。
仕組みはこうだ。まずウラン238が低速中性子であるウラン235を吸収し、新たな同位体であるウラン239を作る。この新しい同位体はすぐにベータ崩壊し、原子番号93で質量数239の新しい元素となる。
この元素の原子核は、同じく電子を放出し、原子番号が94で質量239の大きな半減期を持つ新しい元素(プルトニウム)となる。
つまりブレッチャーとフェザーは、この原子番号94の新たな元素が、低速中性子と高速中性子の両方で核反応を起こし、(ウランとは異なり)プルトニウムを簡単に分離ができるとの実現可能性を理論的に示した。
米国のプルトニウムの抽出の発見
プルトニウム抽出の発見は、1940年米国のバークレー放射線研究所のマクミラン(米)とアベルソン(米)による研究でも検証された。
一方でケンブリッジ大のケンマー博士は、これら新しい元素に太陽系の天王星(Uranus、原子番号92のウラン)より遠い惑星である海王星(Neptune)と冥王星(Pluto)の名に由来し、93番目の元素をネプツニウム(neptunium)、94番目をプルトニウム(plutonium)と名づけた。
そして1941年、最初のプルトニウムの最初のサンプルの作成と検証が、シーボーグ(米)により行われた。彼は原子炉でなく、サイクロトロンを使用した。
つまり低速中性子を分離する過程で、偶然にもプルトニウムを抽出できたと。これこそが”悪魔の元素”誕生の瞬間でした。
因みに、原子炉の中にウラン235とウラン238を一緒に入れると、ウランの燃えかすとプルトニウムに変化する。その上ウラン238とプルトニウムを一緒に入れると、これまたウラン238がプルトニウムに変わる。この仕組みを利用したのが高速増殖炉で、より多くのプルトニウムがリサイクルできる。
資源の少ない日本にとってプルトニウムは貴重なエネルギー源だが。この高速増殖炉は事故も多く、資金も掛かる為、世界は撤退する傾向にある。
アメリカでの原爆計画の進展
MAUD委員会のマーク•オリファントは、原爆計画の緊急性を訴える為に、1941年8月にアメリカへ向う。彼は、アメリカの研究者達にMAUDの報告書を見せた。
この報告書は大きな衝撃を与えた。一夜にしてアメリカは、原爆の実現可能性に関して考えを変えた。
アメリカは早速、英国と協力する事を提案したが、英国は受け入れず、アメリカの原爆計画は失効する。しかし、アメリカの原爆研究は、すぐにイギリスを追い越した。1942年初め、アメリカの原爆計画は予想以上に進んでいて、英国人研究者を驚かせた。
英国政府はケンブリッジのチームをシカゴに移動させた。シカゴはアメリカの”核研究”が行われてるメッカの地だったのだが。しかし今度はアメリカが英国を警戒し、このチームをカナダへ追いやった。
チームには、英国人はたった一人しかいなかった。その一人が後に英国版”原爆の父”と言われる、ウィリアム•ペニーである。
米国の躍進とチャーチルの思惑
1942年6月アメリカ陸軍は、全ての開発•設計•物資調達•試験工場の場所の選定に関し、原爆開発の独占権を得た。結果、イギリスへの情報の流れは減少する。
アメリカは、重水の製造やウランの製造、高速炉等の原爆製造に関する情報の共有を停止した。これは、重水の製造やその他協力を行ってる英国にとり、最悪の知らせだった。
お陰で、前述のカナダのチームは、アメリカに遮られ、1943年6月に完全に行き詰まる。士気は低下し、カナダ政府は計画の中止を提案する。
ここでようやくチャーチルの出番だ。彼は、イギリス独自の拡散炉や重水工場や、原子炉の国内への建設に対する情報を模索していたが。1943年7月、米国政府の英国のこの動きに対する大きな誤解を、何とか払拭する事に成功する。
その後、粘り強い交渉の結果、「ケベック協定」(1943年8月)がチャーチルとルーズベルトの間で結ばれた。別名”原爆投下”協定である。
お陰で英国は、全ての資源をアメリカに提供し、アメリカはその見返りに、研究報告のコピーを提供した。
英国はここにて最後の最後で何とか、マンハッタン計画に合流する事が出来たのだ。
結局、チャーチルの”雄弁”と”思惑”が、最後には彼を英国を救った。そして、皮肉にも、それは広島と長崎の原爆投下に繋がったのだ。
米英間の密約と協定文書
チューブ•アロイズに関する米英の共同管理に関する協定文章(写真)と名付けられたケベック協定には、両国は”チューブ•アロイ(原爆)投下を早期に実現する計画”の為に、以下の事に同意してる。
①我々はこの兵器をお互いに対し、決して使用しない。
②我々はこの兵器を、第三の勢力に対し、お互いの同意なく使用しない。
③我々はチューブ•アロイズに関する情報を第三者に対し、お互いの同意なく公表しない。
④これは、”戦後の工業的もしくは商業的なアドバンテージ”を、アメリカ大統領の裁量により決定される事に同意するものである。
戦争の後期、このチューブ•アロイはプルトニウムを指す様になった。そしてこの存在は、長崎への原爆投下まで秘密にされた。まさに米英の原爆投下に関する独占契約です。
因みに1945年8月11日、米国旧陸軍省により纏められた文章には、”英国の原爆への貢献”を記載してる。この報告書は、首相がチャーチルからアトリーに変わった後に発行され、これが”英国の15年間の貢献”に対する唯一の公式の書類となる。
戦後の英国の原爆計画
”チューブ•アロイズ”で仕事を行なった英国人の1人に、前述したウィリアム•ペニーがいた。彼は衝撃波のエキスパートで、1944年6月、マンハッタン計画にも参加した唯一のイギリス人でもあった。
戦争終了時、英国政府は米国と原爆の技術を共有出来ると信じていた。それらの技術は、米英が一緒に発明を行なったと信じていた。
しかし、1946年8月のトルーマン政権による”マクマホン法”により、英国はやアメリカの原子力研究にアクセス出来なくなった。
英国のアトリー政権は、英国の地位を維持する為には、原爆が必要であると結論つけた。ペニーはイギリスに戻り、原爆計画を開始する。
この英国版原爆計画は”高性能爆薬研究”(HER)のコードネームで、1947年5月に始まった。そして、ペニーが率いる研究チーム”AWRE”は、1952年10月、”ハリケーン作戦”の名の元、英国初の核兵器がオーストラリアのモンテベロ島で爆発し、世界第3の核保有国となった。
全く自国で実験すればいいのに、ここにても植民地意識が抜けないのだ💢💢
長々と、”チューブアロイズ”の全貌と原爆開発の仕組みについて述べましたが。第二次大戦が、実は水面下での原爆開発競争でもあった事が伺えます。
因みに、日本も原爆開発を行ってたという事ですが、最も進んだ所で基礎段階すら出てなかったとされる。
一部に核実験に成功してたとする、ソ•中•北朝鮮の”エセ”情報もありますが・・・
暇があったら纏めて編集しないんですが・・・
確かに当時のアメリカの予算と科学力と工業力があれば原爆開発なんて何手事なかったんでしょうね。
要はどこへ落とすかという事だけ。しかしここにてチャーチルの強欲とアメリカの無能が不可解な悲劇をもたらします。
日本も原爆開発してたという報告がありますが増殖炉の設計段階ですもんね。
チューブアロイズ(原爆投下)は米国単体で進められろうね。
それに、原爆投下の責任を問われたときの保険として、チャーチルを担いだんだろう。
結局、アメリカにもソ連にも弄ばれた醜い能なしの豚だったのかな。
結局、原爆開発とはお金の掛かりすぎる”最終兵器”で、私達が思ってる以上に約立たずかもしれません。全く大人の火遊びですかね。
一方、旧ソ連の情報ですが。直径1kmの火球が天空に燃え、巨大なキノコ雲が上ったという事ですが。これは広島原爆の10倍に相当し、考えられないとの事です。
どちらにしても、原爆製造には天文学的な資金が掛かり、当時では超大国アメリカしか出来ない実験だったんです。戦争末期の超貧乏な日本に出来るはずもない。
結局、アメリカが原爆投下の正当性を訴える為のデマみたいに思えます。
確かに、フランスと原爆開発とはミスマッチですね。
ただ、ゾラの『パリ』では、次世代の高性能の火薬を使った最終兵器の開発が示唆されてますが。これが原爆の開発と間接的に繋がったのかなと勝手に思ったりもしますが。
人類はいつの世も血よりも濃いモノを作りたがりますね。何だか答えになってませんが。
でもフランスってイメージと核というイメージが全く結び付かないんですが。
それにチャーチルが広島長崎の原爆投下に一役も二役も買ってたなんて、これも意外や意外です。独裁者というよりも意地悪なデブおやじって感じなんですが。
見た目やイメージでは判断できないのは、日常の世界と同じですが。
この瞬間にイギリスとロシアの力関係が逆転し、米ソの冷戦が始まり、そしてソ連は崩壊するんですが。第二次世界大戦は大英帝国を絶望させた戦争でもあったんですね。
でもその腹いせに、原爆を日本に落としたと。全くチャーチルにはムカつきますね。
スターリンは上手くチャーチルを利用し、原爆製造の技術と情報を盗んでたんですね。だから、トルーマンが原爆完成の事を暗に仄めかしても、動じなかったんです。
一方、日本はそんな事露知らず、ソ連との和解を探るんですが。時は既に遅しで、日本への原爆投下は決まってた。
南下政策以降、全ての打つ手が後々になるんです。
全く軍上層部の無能と無策がさらけ出た戦争だったんです。
転んだサン言うとうり、バカは戦争に加わっちゃアカンです。