作詞:吉丸一昌、作曲:中田 章
1 春は名のみの風の寒さや
谷の鴬歌は思えど
時にあらずと声も立てず
時にあらずと声も立てず
2 氷解け去り 葦(あし)は角(つの)ぐむ
さては時ぞと思うあやにく
今日もきのうも雪の空
今日もきのうも雪の空
3 春と聞かねば知らでありしを
聞けば急(せ)かるる胸の思いを
いかにせよとのこの頃か
いかにせよとのこの頃か
《蛇足》 作詞の吉丸一昌は、明治6年(1873)に大分県臼杵(うすき)で生まれ、東京帝国大学を卒業したのち、明治41年(1908)に東京音楽学校(現在の東京芸大音楽学部)教授になりました。
「尋常小学唱歌」編纂の作詞委員長として、作曲委員長の島崎赤太郎らとともに日本の唱歌成立に重要な役割を果たしました。
この仕事が一段落したのち、それとは別に『早春賦』『故郷を離るる歌』『木の葉』『四つ葉のクローバー』『お玉じゃくし』『浦のあけくれ』『蜜蜂』『蛍狩り』などを作詞しました。また、『日の丸』『桃太郎』『池の鯉』『かたつむり』も、吉丸の作品ではないかといわれています。
大正5年(1916)に43歳の若さで没。臼杵市に吉丸一昌記念館「早春賦の館」が建っています。
吉丸は、明治の末に安曇野を訪れ、その雪解け風景に感動して、大正2年(1913)11月にこの歌を作ったと伝えられています。ただし、彼が安曇野を訪れたとする文献は見当たらず、疑問視する向きもあります。
穂高町(現在安曇野市穂高)にある大王わさび農場の近くを流れる穂高川の土手には、『早春賦』の歌碑が建っており(写真)、毎年4月に「早春賦音楽祭」が開かれます。
歌の舞台は大町市の木崎湖付近だという説もあり、そこにも歌碑が建っています。
安曇野の住人たちは、この歌が安曇野を歌ったものであることに喜びと誇りを感じています。
私が生まれ育った村では、彼の子息が歯医者を開業しており、子どものころ(昭和20年代)、何度か診てもらった記憶があります。東京育ちのはずの子息が安曇野に居を構えたのは、やはり父君の影響だったのかもしれません。
作曲を担当した中田章は、『夏の思い出』『ちいさい秋みつけた』『雪の降る街を』などを作曲した中田喜直の父。
ある人が中田喜直に、「あなたは夏・秋・冬の定番曲は作っているのに、なぜ春の曲を作らないのですか」と訊いたところ、「春の定番曲には『早春賦』があり、父を尊敬している私としては、あえて作ろうとは思いません」と答えたという話が伝わっています。
2番の「角ぐむ」は、葦、荻、薄、真菰などの芽が角のように出始めること。「あやにく」はあいにくと同じで、折悪しくの意。
なお、テレビや旅行ガイドブックで安曇野として紹介されるのは、現在は安曇野市に含まれている旧穂高町がほとんどのため、安曇野イコール安曇野市と思っている人が多いようですが、これは違います。
安曇野は、旧南安曇郡と北安曇郡のうち、北アルプスから流れ下る川によって形成されたいくつかの扇状地の連なりを指します。
具体的には、南側は旧梓川村(現在は松本市)の北端、北側は大町市の中程、木崎湖に近い信濃木崎あたり、東側は梓川・犀川の西岸、西側は北アルプスの麓ということになります。
大町は安曇野に含まれないという人もいますが、大町市の南部は北アルプスから流れ出し、北西から南東へと流れる高瀬川や、その支流の鹿島川によって形成された扇状地ですから、安曇野から外す理由がありません。
高瀬川は南大町の先で南に向きを変え、再び南東に流れを変えて、安曇野市の南東部で穂高川、および梓川下流の犀川と合流します。
安曇野の範囲についての認識は、長年にわたるテレビや雑誌の旅行番組の影響でしょうか、現在では地元の人びとの間でも曖昧になっているようです。というより、平成の大合併で安曇野市が誕生したことにより、安曇野=安曇野市が固定してしまった感があります。
(二木紘三)
大王わさび農場も昔は風情がありましたが
大きくなって観光バスが駐車場まで入るようになり
ただの観光スポットになってしまいました
良き日本の風景は少なくなるばかりです
人が減っているのでどうしようもない面もあります。