
身近な出来事が多い、勘違い、行き違い、誤解、早合点、何もかも思い当たる、エッセイにするとこうなるのか。
講談社のエッセイ賞を受賞した岸本さんに、今更だけれど。
読んで暫くして、不意にぽかっと浮かんでくる、ほんと不思議だなぁと言う感じが好きだ。
これからも何か見るたびに、あれ、これ何所かで読んだ感じだと思う。そんな身近な話題に思わずクスッと笑ってしまう話題が満載。
* 物言う物 トイレが喋った「自動水洗です」。だからどうだって言うのだ。
車が喋った「ガソリンがなくなりそうです」メーターを見れば分かる、それになぜみんな女なのか。
状況次第で切羽詰まっていたり懇願するようだったり厳しくトガメダテする調子が籠っていた方が訴求度も高い気がする。
(我が家でも風呂が喋る。ガステーブルがものを言う。温度が高くなっています、自動調節に切り替えます、鍋を置いてください、、設定温度になりました。賢いけどまだそんなにお世話にならないでもダイジョウブ)
物言わぬ臓器、肝臓など「もう堪忍してください」と言う風にコンディションを訴えたら無茶をしなくなって病気が減る。
でもお満員電車はうるさくて仕方がないだろう。「胃に穴があいています」「動脈が硬いです」・・・。
* 家の近くにあった旧式のポストを応援している。
* 日記
×月×日 エリツィンが死んだ。
「同志ポリス・エリツィンに私は非情な親愛の情を感じておりました。何となればエリツィンの”ツィン”にプーチンの”チン””ツィン”と”チン”二つの間にはなんと響きあうものがあることでしょう!」
頭の中でプーチンが私の差し出した原稿をびりびりに破いて捨てる。
×月×日
「同志ポリス・エリツィンと私は無二の親友でありました。何となれば、二人の間には”髪型が木彫りっぽい”と言う共通点があり」
プチンが、私の原稿を読まずに捨てる。
何と何とわはは そうきました。
* アロマテラピーの話で、アロマオイルを買おうとしたら頭の中で
アロマでごわす
と声がした。その瞬間、目に入る全てのものがごわす化した。「ごわす様」はそのごもたびたび現れては、私の素敵生活(アロマ生活のこと)を一瞬にして無効化した。
「ごわす様」には「ごんす」「がんす」「やんす」「でげす」ナドの仲間がいることもわかった。
* 気がつくと「イカどっくり」について考えている自分がいる。
* 「読書体験」大きい本を広げて読んでいると、抑えている両方の親指が二つの肉球に見えてきて気になる。
* 「海ほたる」古いカーナビなので友人は指示に従わない「いいのいいの、コレ古いから。こちらが早いの」
アクアラインでは走っていても「海です」「海です」
「そうねぇ確かに海だわ」
江戸時代のナビだったら「三里先、関所です」「この先の首塚を右方向へ」と言うだろうか。
* 「やぼう」 ひらがなの「め」と「ぬ」はよく似ている。もしかして「め」は「ぬ」のことを自分を土台にして先っぽにちょろりと飾りをつけただけの紛い物、言うなれば自分の亜種である、などと苦々しく思っているだろうか。そして「ぬ」は「ぬ」で自分こそは完成形、末尾の優雅な丸まりのない「め」のごときは憐れな欠陥品よ。と蔑んでいるだろうか。両者は口も利かぬほどの犬猿の仲で、たまに、たとえば<ぬめり>などという言葉で一緒に仕事をしなければならぬ時などはお互い目もあわせず、険悪な空気が<ぬめり>じゅうに満ち満ち、板ばさみになった「い」がひとり対応に苦慮して居たりするだろうか。
同じような反目が生じるらしい文字が沢山ある、等々。井上やすしのキーボードの記号の話を思いだす。