お昼から春蘭の株分けをしました。
貴重な一鉢なので、気合いを入れて動画や記事で勉強して、わかったことは、根っこは綺麗に水洗いしてから、(消毒したハサミなどを使って)古い根を切り、植えこむこと。
いやいや、今まで混みあった鉢を一回り大きくして「どう、息苦しくなくなったでしょう」「今年こそ頑張って咲くのだよ」といささか高圧的だったのです。
古い土にわずかに鹿沼土などを混ぜて隙間を埋める簡易移植後にこういわれたら、けなげに咲きたいと思っていた芽も引っ込むというもの。
田舎の綺麗なせせらぎの脇で育って、おいしい腐葉土の中に根を伸ばして生き生きとここまで来たのが、なんの不幸か、狭い鉢に押し込められ、気が向いた時に少し息が楽になるくらいの、そこらにあった大きな鉢に引っ越して、こんな恩着せが無しく言われたら、私だって。
無理矢理誘拐したみたいに連れてきて、咲かない咲かないと溜息をついていた。申し訳ない。
花や木はこのくらい心を込めて育てるものなのだと初めて納得したのです。
子供の頃、5月の山に入ると春蘭の花が地味に咲き競ってかぐわしい香りに満ちていました。標高が少し高くて季節がゆっくりやってくるところです。
あれは山や小川や綺麗な空気が育てていたのです。
春蘭が好きなのに、植え替えて世話しても咲かないのです、とはもう口が裂けても言わないようにしようと、黒く腐ったような根や古いキューブ状の塊根を外しながら思ったのです。
白々とした生まれたてのような根を、丈の高い鉢にそれでも少したくし込みながらいれて、ソロリソロリと土を注ぎ入れ、とんとんと締めて終わりました。
雨模様で湿度は高そうですが、毎日の水やりと乾燥防止にしばらくは水道の下の水だまり(?)に並べてあります。
今回は全力投球で疲れましたが、好きということは「好き」を注ぎ込まないと応えてくれないものだと、密かに心の奥の院の、これまた入り口あたり程度ですが、気がつきました。
植物の不思議などといった本を読んでいても、育ててみると同じ種でも特徴があるものです。
(小声で)「無理は言わないけれど、来年はできたら咲いてくれないかなぁ」と低姿勢です。
ついでに剪定した山椒の枝を「はっぱ束」にしてお隣に持って行って喜ばれました。「暑くなったので冷ややっこがおいしいもんね」「山椒味噌もいいよ」「そうねぇ」
その後もコロナだのワクチンだのと、よもやま話に花が咲き夕方になったのですが、通りかかったどこかの小柄なおじさん(m(__)m)も参加して花話が盛り上がったのです、
「あれどこのご主人?」
「知らない」
で、写真は明日になりました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます