午後になって時間が出来たので本を読んでいるとすぐに時間が過ぎていった。急いで夕食の支度をしたら、もう夕方だった。
相撲を見なければと思い出してテレビをつけると御嶽山の噴火のニュースだった、こんなことに出会う受難の人もいるのだ。不意の災難は避けようがない、まだ噴火は続いているようだし。何度か通ったことがある御嶽山を思い出して、早く鎮まることを祈った。
相撲は、どちらも負けてほしくない取り組みだったが、やはり横綱の貫禄か、入幕したばかりの逸ノ 城は立会いの眼も少し力負けしていた。遠藤に続く若い力士が出てこれからが楽しみ。
部屋の中は早々に薄暗くなって、窓から見える空も遠い山も輪郭だけになり、沈んで見え始めた。なんだか不安な気分で座っていたらふいに昔見た恐ろしい映画を思い出した。
「顔のない眼」という題だった。
誰と行ったのか覚えてないが心斎橋を歩いていて、映画でも見ようということになった。(誰だか知らないがよく見ようと思いついたものだと今思う)
映画を見る前に近所にあった「びっくり善哉」という店の暖簾をくぐって入った。大きなどんぶりに大きなお餅が入って、噂どおりびっくりするほど大きかった。変わったものは見てみよう、食べてみようと言うので、子供のころから変な経験を積んでいる。今はなん言う映画館だったか建物はぼんやり思い出すが、どこにあったかは分からなくなった。
おいしいおいしいと全部食べてしまった。暖簾が下がった地味な店だったような記憶があるが、細かいことは忘れてしまった。
「びっくりうどん」というお店もあったと思うが、それはその頃、歌手の実演を見る劇場のそばだったようだが、周りでは誰も関心がなくて連れて行ってもらったことがなく「びっくりうどん」は食べたことがなかった。歌手をじかに見たい歌を聴きたいという人はいなかったのだろう。
それで思い出した映画は、以前テレビ欄に出ていたが見逃してしまっていた。どこかにないかとPCを探してみたら、昔の映画なので無料視聴が出来た。
食事か終わって早速90分、パソコン部屋に座り続けて見てしまった。怖かったシーンはところどころ覚えていた。ただ秘書が運転して被害者を運ぶシーンは終わりのほうで見たと思っていたが最初の場面だった。
今でこそ残虐なシーンもカットなしで見せているが、皮膚移植の生々しいシーンは当時としては余り見ることがなく、ここが恐ろしかったのかな、と後々まで折りに触れて思い出した。ほんと怖かった、幼い子なら夜泣きでもするところ。今なら少しのことくらいで驚かなくなったが、その頃は暫く夜になると誰かのそばにいた。
今にすれば短い映画だが、余り古さを感じない。ホラー映画の王道を行くような恐怖映画で、見直しても、場面だけでなく、ストーリーも相まって忘れられないのも道理だと思った。
外科医は皮膚移植の研究をしているのだが、皮膚が新しい身体に適応できず成功していない。原因は他人の皮膚なので抗体ができる、それを防ぐには放射線を当てるのがいい。と研究発表をする。今の医学ではこの部分はどうなのだろう、放射線が抗体をやっつけると言うことになっている。顔にやけどをした娘のためなのだが成功しない。今は自分の皮膚を取って部分的に移植していくようだが、ここでは他人の顔の部分を丸ごと移植しようとしている。代わりの顔の皮膚を手に入れる手段は、誰かを誘拐するほかはない。後の始末もある。半世紀以上の古い映画だが、細かい部分は面白く出来ていた。
その頃の恐ろしい日本映画は、怪談や猫化けなどが主で、私は弟を連れてよく映画を見ていた。お殿様が将棋に負けた悔しさで、相手の坊さんを斬り殺して祟られる話などは、学校に行って、同級生を集めて休み時間に話をした。
「怖いねー」とみんなが首をすくめるので、先生が通りかかって「なにがそんなに怖いの」と聞いたりした。
中学校を卒業するくらいまでは周りにいる友達と丸く座っていろいろの出来事を話をしていたので、今でも覚えている人がいるが。本人はもっとよく覚えている不思議な出来事や映画がある。
今日も一日があっという間に過ぎた。
朝に大まかな予定をたてるのだが、予定なので、映画を見たりして終わることもあって、心残りのまま。
明日は日曜日、いつもの休日のようにのんびりに過ごせるだろうと思っている。
唐突に、こんなことを思い出した。
一般に情報は日々刻々変化しつづけ、それを受け止める人間の方は変化しない、と思われがちです。情報は日替わりだが、自分は変わらない、自分にはいつも「個性」がある、という考え方です。しかしこれもまた、実はあべこべの話です。
少し考えてみればわかりますが、私たちは日々変化しています。ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言いました。人間は寝ている間も含めて成長なり老化なりをしているのですから、変化しつづけています。
昨日の寝る前の「私」と起きた後の「私」は明らかに別人ですし、去年の「私」と今年の「私」も別人のはずです。しかし、起きるたびに、生まれ変わった、と言う実感は湧きません、それは脳の働きによるものです。
脳は「自己同一性」を追求するという作業が、私たちそれぞれの脳の中でも、毎日行われている、それが「私は私」と思い込むことです。
養老孟司 「バカの壁」より
明日は同じ明日ではないかも、流転しているんだから、、、、半世紀以上経っても恐ろしい映画は恐ろしい「私は私」で変化はない部分もあるし。
閑話休題、明日もいつもと同じ明日であればいいと願いながら今日もほぼ終りかけた。
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