第14部「今村昌平の物語」~第4章~
前回までのあらすじ
「惜しくない。俺の一生、こげなもの」(映画『復讐するは我にあり』より、主人公・榎津巌の台詞)
「(中略)いわゆる映像美ほど、今村から程遠いものもあるまい。思わせ振りな抒情とも関わりがない。あくまで論理的であり、実証的であり、散文詩的である。今村昌平は、甚だしく古めかしく、反時代的ですらあるが、そこがまたわれわれにはこたえられぬ魅力と映るわけである」(石堂淑朗)
…………………………………………
殺人を扱った映画は多い。
多過ぎるといっていいくらいだろう。
「なんらかの形で」殺人を扱っているのは、すべての映画のうち(だいたい)7割くらいにのぼると思われる。
そのなかで刑事(侍、保安官、、、この際、兵士をも含めてしまおう)を主人公としたものが6~7割を占め、残りが殺人者を主人公にしている。
あくまでも、おおよその内訳である。
「そっち系」の物語を紡いできた、これからも紡いでいく―という筆者の志向・嗜好もあって、殺人者を主人公にした映画を積極的に観るようにしている。
楽しむために観るというより、勉強のために観るといったほうがいい。
以下は、たいへん参考になった作品である。
『М』(31)
『白昼の通り魔』(66)
『青春の殺人者』(76)
『復讐するは我にあり』(79)
『ヘンリー』(86)
『アメリカン・サイコ』(2000)
『モンスター』(2003)
異様な展開が待っている『М』にも、消費主義を笑ってみせる『アメリカン・サイコ』にも衝撃を受けたが、
殺人者の解釈として最も納得がいったのは、オオシマの『白昼の通り魔』と、イマヘイの『復讐するは我にあり』だった。
ふたりの日本人監督は「殺人に、たいした理由などない」と結論づけ、あらゆる事象に理由・原因を見つけようとする我々を突き放してみせる。
高校生だった筆者は、『白昼の通り魔』の佐藤慶が「どこでどう過ごそうが、結局、俺はひとごろしになった」という告白を聞いて、あぁそういうものかもしれないな、、、と思った。
『復讐するは我にあり』には主人公の幼少期が描かれるが、だからといってそこに殺人者としての萌芽を確かめることは出来ない。つまり幼少期の描写は単に幼少期を描いただけであり、それ以上でも以下でもない。(はずである)
…………………………………………
『青春の殺人者』では製作を担当したイマヘイの『復讐するは我にあり』は、佐木隆三の同名小説を原作としている。
凶悪犯として名高い西口彰をモデルとした小説で、佐木は本作で直木賞を受賞した。
黒木和雄や深作欣二と映画化権取得を争ったイマヘイは、佐木からサインをもらうと、小説を読み込んで脚色化する、、、のではなく、事件関係者の取材を重ね、小説とは異なる主人公像を構築していった。
「なんか、ちがう気がした」からだそうだが、
黒木は小説の流れに沿って脚本化するつもりだった/深作はアクション調で映画化を目指していた・・・
ということを考えると、結果論でいえば、イマヘイが映画化権を手に入れて「吉」だったのかもしれない。
イマヘイ版で主人公は、詐欺とセックスを繰り返しながら「邪魔になったものを殺す」男として描かれる。
こだわったのは「血=血縁」で、背景を貧困や社会に求めないところがイマヘイらしい。
主人公・榎津は、父親に向かって「ひとごろしをするなら、あんたを殺すべきだった」という。
エンディングは死刑に処せられた榎津の骨を、父親が海に放る―散骨―のシーンだが、つまりこれが榎津の暴言に対する父親の応えだった。
強引な結びであることを承知していえば、ひとごろしの物語を子ごろしの物語として完結させる意地の悪さに、筆者はイマヘイの真骨頂を見た。
なぜそのよう―子ごろしの物語―に捉えたかというと、これほど怨念のこもった散骨の描写に、触れたことがないから、、、である。
…………………………………………
「怖いものみたさ」という欲望に訴えた『復讐するは我にあり』は、イマヘイ映画では異例のヒットを記録する。
批評的にも概ね好評で、とくに父親を演じた三國連太郎は国内の演技賞を「ほとんど」独占した。
50を過ぎたイマヘイは、映画監督でいえば脂が乗るころだろう。
ヒット作が生まれたことによって次回作が撮り易くなったはずで、実際、2年後に『ええじゃないか』(81)を発表している。(『復讐~』の前作は、なんと9年も遡ることになるのだ!)
歌って踊るヤケクソ精神がパワフルに描かれる『ええじゃないか』は、「にっぽん」の土着性を主題としてきたイマヘイらしい題材であり、沢山の女優の尻をいちどに拝める―という特典があった? にも関わらず、興行的に「大」惨敗してしまう。
それでもめげずに「にっぽん」を描き続けるイマヘイは、次回作として深沢七郎の『楢山節考』を選んだ。
83年、イマヘイ版『楢山節考』の完成。
わざわざ「イマヘイ版」と記すのは、『楢山節考』の正しい? 物語を知りたければ、58年の木下恵介版に触れるべきだから、、、である。
イマヘイ版のそれは、姥捨て山を主題としていない。黒澤の『羅生門』(50)が「名ばかり」であるのと同様、イマヘイはべつのことに興味があったのだ。
だが意外なことに、イマヘイ版『楢山節考』は、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞「してしまう」。
そのことにより、姥捨て山の映像作品といえばイマヘイ版である―という認識が一般的に広がり、
「左とん平が豚とセックスしますけど、そういう感じのシーン、小説でもあるんですか?」
などという質問を筆者にぶつけてくる若い映画小僧まで出現するようになるのである。
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※『復讐するは我にあり』予告編
つづく。
次回は、11月上旬を予定。
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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『パンツはパンツだ』
前回までのあらすじ
「惜しくない。俺の一生、こげなもの」(映画『復讐するは我にあり』より、主人公・榎津巌の台詞)
「(中略)いわゆる映像美ほど、今村から程遠いものもあるまい。思わせ振りな抒情とも関わりがない。あくまで論理的であり、実証的であり、散文詩的である。今村昌平は、甚だしく古めかしく、反時代的ですらあるが、そこがまたわれわれにはこたえられぬ魅力と映るわけである」(石堂淑朗)
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殺人を扱った映画は多い。
多過ぎるといっていいくらいだろう。
「なんらかの形で」殺人を扱っているのは、すべての映画のうち(だいたい)7割くらいにのぼると思われる。
そのなかで刑事(侍、保安官、、、この際、兵士をも含めてしまおう)を主人公としたものが6~7割を占め、残りが殺人者を主人公にしている。
あくまでも、おおよその内訳である。
「そっち系」の物語を紡いできた、これからも紡いでいく―という筆者の志向・嗜好もあって、殺人者を主人公にした映画を積極的に観るようにしている。
楽しむために観るというより、勉強のために観るといったほうがいい。
以下は、たいへん参考になった作品である。
『М』(31)
『白昼の通り魔』(66)
『青春の殺人者』(76)
『復讐するは我にあり』(79)
『ヘンリー』(86)
『アメリカン・サイコ』(2000)
『モンスター』(2003)
異様な展開が待っている『М』にも、消費主義を笑ってみせる『アメリカン・サイコ』にも衝撃を受けたが、
殺人者の解釈として最も納得がいったのは、オオシマの『白昼の通り魔』と、イマヘイの『復讐するは我にあり』だった。
ふたりの日本人監督は「殺人に、たいした理由などない」と結論づけ、あらゆる事象に理由・原因を見つけようとする我々を突き放してみせる。
高校生だった筆者は、『白昼の通り魔』の佐藤慶が「どこでどう過ごそうが、結局、俺はひとごろしになった」という告白を聞いて、あぁそういうものかもしれないな、、、と思った。
『復讐するは我にあり』には主人公の幼少期が描かれるが、だからといってそこに殺人者としての萌芽を確かめることは出来ない。つまり幼少期の描写は単に幼少期を描いただけであり、それ以上でも以下でもない。(はずである)
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『青春の殺人者』では製作を担当したイマヘイの『復讐するは我にあり』は、佐木隆三の同名小説を原作としている。
凶悪犯として名高い西口彰をモデルとした小説で、佐木は本作で直木賞を受賞した。
黒木和雄や深作欣二と映画化権取得を争ったイマヘイは、佐木からサインをもらうと、小説を読み込んで脚色化する、、、のではなく、事件関係者の取材を重ね、小説とは異なる主人公像を構築していった。
「なんか、ちがう気がした」からだそうだが、
黒木は小説の流れに沿って脚本化するつもりだった/深作はアクション調で映画化を目指していた・・・
ということを考えると、結果論でいえば、イマヘイが映画化権を手に入れて「吉」だったのかもしれない。
イマヘイ版で主人公は、詐欺とセックスを繰り返しながら「邪魔になったものを殺す」男として描かれる。
こだわったのは「血=血縁」で、背景を貧困や社会に求めないところがイマヘイらしい。
主人公・榎津は、父親に向かって「ひとごろしをするなら、あんたを殺すべきだった」という。
エンディングは死刑に処せられた榎津の骨を、父親が海に放る―散骨―のシーンだが、つまりこれが榎津の暴言に対する父親の応えだった。
強引な結びであることを承知していえば、ひとごろしの物語を子ごろしの物語として完結させる意地の悪さに、筆者はイマヘイの真骨頂を見た。
なぜそのよう―子ごろしの物語―に捉えたかというと、これほど怨念のこもった散骨の描写に、触れたことがないから、、、である。
…………………………………………
「怖いものみたさ」という欲望に訴えた『復讐するは我にあり』は、イマヘイ映画では異例のヒットを記録する。
批評的にも概ね好評で、とくに父親を演じた三國連太郎は国内の演技賞を「ほとんど」独占した。
50を過ぎたイマヘイは、映画監督でいえば脂が乗るころだろう。
ヒット作が生まれたことによって次回作が撮り易くなったはずで、実際、2年後に『ええじゃないか』(81)を発表している。(『復讐~』の前作は、なんと9年も遡ることになるのだ!)
歌って踊るヤケクソ精神がパワフルに描かれる『ええじゃないか』は、「にっぽん」の土着性を主題としてきたイマヘイらしい題材であり、沢山の女優の尻をいちどに拝める―という特典があった? にも関わらず、興行的に「大」惨敗してしまう。
それでもめげずに「にっぽん」を描き続けるイマヘイは、次回作として深沢七郎の『楢山節考』を選んだ。
83年、イマヘイ版『楢山節考』の完成。
わざわざ「イマヘイ版」と記すのは、『楢山節考』の正しい? 物語を知りたければ、58年の木下恵介版に触れるべきだから、、、である。
イマヘイ版のそれは、姥捨て山を主題としていない。黒澤の『羅生門』(50)が「名ばかり」であるのと同様、イマヘイはべつのことに興味があったのだ。
だが意外なことに、イマヘイ版『楢山節考』は、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞「してしまう」。
そのことにより、姥捨て山の映像作品といえばイマヘイ版である―という認識が一般的に広がり、
「左とん平が豚とセックスしますけど、そういう感じのシーン、小説でもあるんですか?」
などという質問を筆者にぶつけてくる若い映画小僧まで出現するようになるのである。
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※『復讐するは我にあり』予告編
つづく。
次回は、11月上旬を予定。
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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『パンツはパンツだ』