広島や戦争のことが報道される8月になると思い出す人がいます。
先週、『駅の子』というテレビ番組で戦後駅で暮らしていた戦災孤児の子供たちのこと、今のふたりの方のことを放映していました。8月になると私が思い出す人は、原爆孤児だったとご自分で言ってました。
言葉を交わしたのは4,5回、いえ、もっと少なかったかもしれません。
初めて会ったのは今から7,8年前になるでしょうか。朝、マイを連れて散歩しているときでした。人通りのない道を駅方向から茶色の背広を着た70代くらいの男の人がこちらに向かって歩いてきます。ふつうなら、背広をきた人は駅に向かっていくのに反対だなって思った記憶があります。
私たちとの距離が2,3メートルになったとき、「おはようございます、美人さんふたり」と言ったんです。軽口ですが、マイと私を「ふたり」と言われたのに興味をひかれ、あいさつを返したのがきっかけでした。
そう何度も話したわけでもなく立ち話だったのですが、その人は広島で生まれて原爆孤児になり、やくざに入った、それしか生きる道はなかったというのです。いつかは分かりませんが、広島から大阪、そしてたしか新小岩へと移ってきたこと、体を壊して紹介してくれるひとがいて八王子にきたとのこと。
原爆孤児でやくざになったと聞いたとき、私は半信半疑で家に帰ってから夫に「ほんとかしら?」とききました。「そういうことはあったと思う」が夫の答えでした。広島のやくざは有名なのだそうですね。その人は、何といったらいいのか、私の中のやくざのイメージとはまるでちがっていたのですが、「奥さんの旦那さんなんかとはまるでちがう世界の人間だから」と言ってましたから、きっとほんとうの話なのでしょう。
最後に言葉を交わしたのは、夏でした。夕方、マイを連れて川原を散歩していたとき、その人に出会ったので、「お散歩ですか」と声をかけました。「お散歩ですか」は意外だったらしく笑ってしまって、またまた「奥さんの旦那さんなんかとはまるでちがう世界の人間だから」って言ってましたね。西武球場のあるあたりへ博打をしに行くので迎えの友人を待っているとのことでした。あそこいらには土地を売って大金をもっているひとがけっこういるんだそうで、勝負は明日の朝まで一晩中つづくのだそうです。
介護マンションのようなところで暮らされているのかなと私は想像していましたが、それから何度か街で後ろ姿を見かけてから、もう何年もずっと会っていません。亡くなったのかもしれません。
8月がくると原爆孤児だったと言っていたあの人のことを毎年思い出すようになりました。
親をなくして混乱した物のない社会に突然放り出された子供たちのことは想像を絶しますね。
佐野美津男の名前は知ってました。そういう過去をもつひとだったのですか。読んでみます。