私がオーストラリアにやってきたときは、バブル絶頂期で、私の遊び場は、伝説のマハラジャだったw
京都のマハラジャは、三条と四条にあった気がするんだけど、個人的には四条の方が楽しかった気がする。
一回、六本木のマハラジャへ行ったんだけど、東京の人たちは、ドレスアップすることなく、Tシャツとジーンズで踊っていて、びっくりした記憶が。。。
なぜなら、ディスコは、ボディコンでスーツで行くのが当たり前の時代だったから。
歳をとって、ディスコ引退したら、ジュリアナ東京ができて、日本中脱ぐようになったんですなぁ。
ボディコンミニスカートでお立ち台に登って踊っていた時代で引退でしたなぁ。。。
あの頃は、母が「男に借りを作るな!」って言ってて、よく意味がわからなかったんだけど、言うこと聞いてたら間違いなかろうと思ってたんだけど、なんせ、時代はバブル。
若い女の子は、大抵、男が数人くっついていて、彼らは、アッシー、メッシー、貢くんと呼ばれ、一緒にご飯食べにいったり、ドライブ行ったり、そんな感じで、「呼んでくれ」と言われるし、呼ばれるし。
今思えば、残業したら、残業代ががっぽがっぽ入るし、接待交際費も自由に使えるから、余裕で女の子誘えたってのもあるし、ススキノの女たちは目が肥えてるから、若いサラリーマンなんて相手にされない。だったら素人で若い女の子を連れて歩いた方が、感謝されるし、自分も楽しめるし、面倒臭くない(結婚とか言いださない)上に、安上がりだったのだろうと。
それを、母は「借り」って言ってて、あちこちの車に乗って歩かないように、新車を買ってくれたんだった。
ディスコも女性半額とか、女性がやたら優遇されてて、夜の街は女性に優しかった記憶がある〜
ススキノ、良い思い出しかないわw
なのに、なーんか、窮屈で不自由で、息苦しかったんですよねぇ。
それで、オーストラリアまで来ちゃったんですけど、なんなんですかね、この閉塞感は。
札幌、良い街なのに、なんなんだろうと思っていたら、北海道ってどこまで行っても北海道で、ここから何か夢の国みたいなところへ行こうとしたら、東北を超えなくちゃいけなくてw
一生に一度か?ってくらいの家族旅行になっちゃいますよね。
珍しいもの、華やかな歴史的なもの、戦国武将のなんちゃら、平家物語、天孫降臨とか、そんな古いものを楽しもうと思ったら、やっぱり海を超えなくちゃいけないんですよねぇ。
なんとも、道民でいることは、非常に悩ましいのであります。
だから、そこで、その環境で、自分たちが最高に幸せなんだ!と思うためには、他の良きところを「ドウデモイイ」カテゴリーに入れて、無いものにしないといけないんですよね。
何を話しても、最後は「北海道が一番だね」ってところに落ち着かないと、どうも、話が合わない感じがします。
それが、なんとも不自由でねぇ。
不自由だったら、心を自由に解き放てばよかったのだけど、その方法がわからなくて、自分の中にエネルギーが溜まっちゃって、不自由がさらに窮屈になって、言葉がわからない国へ飛び出しちゃったんですな。
京都へ行ったのも、とにかく地元がうざすぎて、逃げたようなものだった。
高校の就職の時に、先生が東京をイメージしていたのに、私が「京都」って言ったから、「遠すぎる!」って説得してくれたくらいw
「行ったらなんとかなる!」って楽観的すぎたと言いましょうか、考えないから行けたのかなぁ。
今思えば、ちょーブラックだったから、18歳のお子ちゃまな私には耐えられず、1年で戻ってしまいましたですw
不自由だったから飛び出したのに、さらに不自由になってたと言う、大馬鹿やろうな感じでしたなぁ。
ススキノ徘徊は、その後だったんですが、私の青春は、ススキノと札幌の大通公園界隈です。
子供の頃から、テレビ塔と鳩ととうきびは、私の一部です。
こんな遠くに来ちゃってるけど、なんだかなぁ。
武士が家を買ってくれたら、私が居なくてもなんとかなる気がするんだけどなぁ。
お義父さんの遺産は、どうなってるんだろうなぁw
義妹もお金がなくて、子供達二人、私立から公立へ学校を変えなくちゃいけないって言うし。
500万円くらいで足りるのに、それすらないとは。。。
お義母さんも、ドナルドも、自分たちが困らないからってねぇ。
人でなしも、あそこまで来たら、ある種の公害なんじゃないかと思いますわ。