岐阜県中津川市の北西側の山中にある馬籠宿(まごめじゅく)に立ち寄りました。馬籠宿は、江戸時代の中山道の43番目の宿場町だったところです。江戸時代は江戸(東京)から83里(333キロメートル)きた山の中にある宿場町でした。
中津川市の市街地から幹線道路の国道19号線から北西に向かう県道に入ると、山村を通る、静かな山道(県道7号)になります。この県道7号は旧中山道と微妙に並走したり、交差したりしているようです。
曲がりくねった山道をいくらか上った山麓にある馬籠宿は、山麓の斜面に石畳を設けて坂道の街道にした街並みです。現在は、江戸時代の宿場町を模した(保存された)観光地です。

画像の手前が斜面の下側で、奥が斜面の上側です。11月中旬の平日ですが、多くの観光客が散策しています。
標高約600メートルの山麓の斜面にある馬籠宿は、江戸時代当時の雰囲気を漂わす旧家の感じのお土産屋や蕎麦屋・うどん屋、宿屋などのお店が並んでいます。


観光地らしく、街道の宿場町らしさを醸し出す、キクの花などの花や木が石畳沿いに手入れされて飾られています。カリンの実がなっています。

馬籠宿の真ん中を通る石畳の小道を上った宿場町の端にある蕎麦屋には、干しカキをつくるためのカキが吊してあります。

馬籠宿の下側にある水車です。現在は発電用に水車は回されているそうです。

馬籠宿は、中山道の中の“木曽11宿”の中の一番南にある宿場町です。
1895年(明治28年)と1915年(大正4年)の2回の火災によって、馬籠宿の古い街並みは石畳と枡形以外はすべて消失したそうです。現在の街並みはその後、再建されたものです。以前の大火のためか、馬籠宿の各家の側には、消防用のコンクリート製の小さな防火用水がそれぞれ備えられています。
馬籠宿のほぼ真ん中に、旧本陣跡があり、現在は藤村記念館(島崎藤村生家跡)になっています。
江戸時代に主要街道の中山道として整備された馬籠宿は、山麓の斜面に石畳を築き、その両側に家を建てるという厳しい街づくりが施されたようです。街並みの背後には、段々畑などが広がっています。
江戸時代は、厳しい冬を過ごすために、自給自足の生活を基本に生活したと想像されます。このような山道の木曽路を歩く旅人も苦難の旅行だったことと思います。
現在、馬籠宿は県を超えた市町村合併によって、以前は長野県側でしたが、現在は岐阜県中津川市に所属しています。
中津川市の市街地から幹線道路の国道19号線から北西に向かう県道に入ると、山村を通る、静かな山道(県道7号)になります。この県道7号は旧中山道と微妙に並走したり、交差したりしているようです。
曲がりくねった山道をいくらか上った山麓にある馬籠宿は、山麓の斜面に石畳を設けて坂道の街道にした街並みです。現在は、江戸時代の宿場町を模した(保存された)観光地です。

画像の手前が斜面の下側で、奥が斜面の上側です。11月中旬の平日ですが、多くの観光客が散策しています。
標高約600メートルの山麓の斜面にある馬籠宿は、江戸時代当時の雰囲気を漂わす旧家の感じのお土産屋や蕎麦屋・うどん屋、宿屋などのお店が並んでいます。


観光地らしく、街道の宿場町らしさを醸し出す、キクの花などの花や木が石畳沿いに手入れされて飾られています。カリンの実がなっています。

馬籠宿の真ん中を通る石畳の小道を上った宿場町の端にある蕎麦屋には、干しカキをつくるためのカキが吊してあります。

馬籠宿の下側にある水車です。現在は発電用に水車は回されているそうです。

馬籠宿は、中山道の中の“木曽11宿”の中の一番南にある宿場町です。
1895年(明治28年)と1915年(大正4年)の2回の火災によって、馬籠宿の古い街並みは石畳と枡形以外はすべて消失したそうです。現在の街並みはその後、再建されたものです。以前の大火のためか、馬籠宿の各家の側には、消防用のコンクリート製の小さな防火用水がそれぞれ備えられています。
馬籠宿のほぼ真ん中に、旧本陣跡があり、現在は藤村記念館(島崎藤村生家跡)になっています。
江戸時代に主要街道の中山道として整備された馬籠宿は、山麓の斜面に石畳を築き、その両側に家を建てるという厳しい街づくりが施されたようです。街並みの背後には、段々畑などが広がっています。
江戸時代は、厳しい冬を過ごすために、自給自足の生活を基本に生活したと想像されます。このような山道の木曽路を歩く旅人も苦難の旅行だったことと思います。
現在、馬籠宿は県を超えた市町村合併によって、以前は長野県側でしたが、現在は岐阜県中津川市に所属しています。