ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

人気小説家の澤田瞳子さんが上梓した単行本「若冲」を拝読しました

2015年09月09日 | 
 人気小説家の澤田瞳子(さわだとうこ)さんが上梓した単行本「若冲」を拝読しました。

 この単行本は2015年4月25日に、文藝春秋社から発行され、今年前半の直木賞候補となった作品です。



 表紙を飾った「紫陽花双鶏図」を見ると、主人公の伊藤若冲が江戸時代の日本画家(絵師)だったことが個人的には(単なるミーハーの素人ですが)信じられません。

 だいぶ昔に、伊藤若冲の作品を見て、明治時代ぐらいの西洋絵画の影響を受けた画家と直感的に思いました。これまでの狩野派などの代表的な日本画家集団が描いた日本画とはかなり異なる印象を受けたからです。

 特に大学などで日本美術の授業を受けたことはないのですが、伊藤若冲が日本画の従来の系統からは離れた独特の存在だと漠然と感じていました。

 こうした伊藤若冲とはどんな人物だったかを描いたのが、本書「若冲」という小説です。

 この小説は、京都の錦高倉(にしきたかくら)市場の老舗青物問屋の枡源(ますげん)の長男として生まれながら、弟に店の経営を任せ、好きな絵を描いて過ごす源左衛門(げんざえもん、後の伊藤若冲)の日常生活から始まります。

 老舗青物問屋の長男として、跡継ぎを得るために結婚しながら、その妻と姑の不仲から、妻が自殺し、その自殺を止められなかったことを悔いて、絵を描き始める生活に入った経緯を伝えます(源左衛門が実際に結婚したかどうかは、史実的には諸説あるそうです)。

 源左衛門(伊藤若冲)は親しい相国寺慈雲院(しょうこくじじうんいん)の院主に、普通には拝見することができない、京都にある日本画の名画を見せてもらい、絵の勉強を続けます。
 
 この小説では初めは部分的に、そしての終わりの方では、源左衛門(伊藤若冲)が妻と姑(あるいはお店を経営する弟たち)の不仲を調整できなかった、そしてその妻が自殺したことに対して、なにもできなかったことから、妻への供養として絵を描くという内心を伝えます。
 
 源左衛門(伊藤若冲)は高価が画材を惜しげもなく使って、自分が納得する日本画を描きます。そして絵を他人に売るつもりはなく、ただ好きで絵を描きます。「花鳥のあるがままを写す狂逸の絵」を、人(他の絵師)とは交わらずに描き続けます。
 
 その内に、源左衛門(伊藤若冲)が描く日本画の出来から、相国寺の末寺である鹿苑寺(ろくおんじ、金閣寺)の大書院の障壁画の制作を依頼される。源左衛門(伊藤若冲)は最初は固持しますが、友人の絵師の池大雅(人文画の名人)から諭され、結局、引き受けます。そして、この大書院の障壁画に描いた作品は名画として評判を呼びます。

 源左衛門(伊藤若冲)が亡き妻への供養として、日本画を描き、極めていく物語です。
この小説には、無名に近い若い時の円山応挙、与謝蕪村、谷文晁、市川君圭などが登場し、日本画を描く絵師としての名画を極める修行の話などがでてきます。

 本人の意思には関係なく、源左衛門(伊藤若冲)は1716年から1800年までと80歳を超す長老として生き延びます。その間に、池大雅、円山応挙、与謝蕪村は亡くなり、話し相手がいなくなります。
 
 この小説は日本画の基本知識がないとよく分からない部分もありますが、あの日本画の流れからは飛び離れた日本画を描いた伊藤若冲の一生を知ることができます。ただし、本書は小説なので、フィクションです。

 8月末からの雨模様のが多い日々に、本書を読む時間がたくさんあり、何回か読み直しました。“晴耕雨読”でした。