3.11で思い出す事柄:
今から14年前のこの日に「地震とはこれ程物凄いものか」と生まれて初めて経験した。あの時は新宿区百人町の大久保通にある風月堂の2回の喫茶室で、在職中には最大の取引先だった大手メーカーのグループ企業の社長を引退されたお二方と、楽しく歓談していたところだった。
その最中に、当然だが何の前触れもなしに、かなりきつい揺れ方が来たので、居合わせたお客一同が「地震だ」と叫んだのだった。次にはいきなり店ごと崩壊するのではないかと思ったほどの、未だ且つ経験したことがない揺れが来た。怖かった。身の処し方が解らなかった。
皆が申し合わせたようにテーブルの下に身を隠そうとした。その時は既に店内の装飾だった背が高い大型の花瓶が棚から落ちて大きな音を立てて割れてしまった。テーブルの上のコーヒーも他の飲み物もカップ・ソーサーとともに落下して、中の液体が飛び散った。本当に恐怖だった。揺れ方が横なのか上下動かも分からなかったが、生命の危機かも知れないことは十分に思い知った。
何秒続いたのか、何分だったかも分からないままに、揺れが収まったと思ったので、未だ壊れていなかった階段を駆け下りようとした。その時に最も若かったTM氏(実は、この集まりは偶然にも主催者のSM氏と私もMMと3Mだったのだ)が「窓ガラスは後から割れる恐れがあるので、慌てて下りない方が」と落ち着いて警告された。そこで、暫く間をおいてから降りることにした。
大久保通に降りて直ぐそこの山手線のガードを見れば、電車は止まっていた。異常はそれだけで見渡す限りの店舗は無事なようだった。風月堂のガラスは割れ落ちてはこなかった。言うなれば動悸は収まっていなかったが、精神状態は落ち着きを取り戻せていた。
そこで、流石は我が国を代表するメーカーのグループ会社の社長さんだと感動させられたことがあった。SM氏はテーブルの上にあった喫茶部の伝票を握っておられて「ちゃんと、これを払ってから帰ろう」と提案されたのだった。
風月堂に戻って支払いを終えると、店長と思しき人に「お支払いに来て下さったのはこちら様だけ」と感謝された。風月堂は地震のある程度の状況を把握できていて「地震は7だった」と教えてくれた。凄いことだったとは分かったが、その地震が東北地方であれほどの大ごとになっていたとは想像もできなかった。
SM氏は鶴見、TM氏は八王子に戻られるのだが、交通の事情がどうなっているのか分からなかったし、直ぐそこの我が家にも携帯電話は通じなかった模様なので、兎に角向かってみようとなって歩き出した。家内は下に降りていて鉄道網はかなり破壊されている模様であることは把握できていた。お二方には我が家で一休みをと提案したが「何ほどもことやある」とばかりに帰路につかれた。
所謂「タワマン」の半ばである13階の我が家は幸運にも何ら被害はなかったが、初めて13階まで階段で上がらざるを得なかった。これが被害と言えば被害だった。だが、SM氏はタクシーを拾えたものの、神奈川県までは入れてもそこまでで降ろされて、県境から歩いて帰られたとか。TM氏は都内にあったお嬢さんの嫁ぎ先まで何とかたどり着いて一泊して凌がれたとのことだった。
福島の原子力発電所の被害状況を知ったのは翌日くらいだったと思う。あれほど離れた東京都内で恐ろしくも物凄い揺れ方をしたのだから、東北地方がどれほどだったかは、少しは想像できた。だが、あの津波の報道はCGを見せられているかのようで、現実とは理解できなかった。犠牲になられた方々を思うときに胸が痛んだ。
終わりに犠牲者のご冥福を今更ながらお祈り申し上げたいと思うし、東北地方の復興と復旧が今後とも恙なく進行し続けていくこと、原子力発電所の後処理も進行していくことも併せて祈念して締め括りたい。