高校の国語教科書に載っている「コミュニケーションとしきり」について何度か書いてきました。その際、福澤一𠮷氏の「根拠・論拠・主張」の論理で整理してみようと考えてきました。しかし、福澤氏の本をもう一度よく読んでみると、「根拠・論拠・主張」についての「根拠」と「論拠」について私の解釈に誤りがあることが分かってきました。もう一度振り返ってみる必要があります。
「主張」には「根拠」が必要です。そして「根拠」と「主張」をつなげる「論拠」が必要になる。ここまでの考え方に問題はありません。問題は「論拠」はおもてに出ない場合が多いということです。
そのことを受けて「コミュニケーションとしきり」についてもう一度整理しなおします。
《根拠1》
子供は小さいころ母親との間には言葉がなくとも通じ合えるという思い込みがあるが、ある時、理解しあえていないことに気付く瞬間が訪れる。こどものころの幸福は消え、暗黒が訪れる。そして「わたし」と「わたし以外の存在」との間は〈透明〉ではなく〈しきり(障害)〉があることを発見する。
《根拠2(あるいは根拠1の具体例)》
ルソーのエピソード。
ルソーが幼いころ母親のような存在だったランベルシエ嬢の櫛を壊したという疑いをかけられ、親しい間柄でも理解し合えない経験をした。そして50年後再び事件を回想し「あの櫛を壊したのはぼくではない。」と言う。
《主張(意見)》
わたしたちは、どこまでもコミュニケーション不能の部分(障害)を抱えているからこそ、コミュニケーションし続けるのである。
さて、ここにどのような論拠が考えられるでしょうか。
《論拠案》
人はだれもが心を通じ合いたいという願望をもっている。
《根拠1》から《主張》にいたるまでの論拠としては上記でいいのではないでしょうか。しかし、《論拠2》のルソーのエピソードに関してはやはりおかしい。ルソーは50年間このことを言い続けたわけではあるまい。50年後に再び言うということは、コミュニケーションがなりたたないショックから立ち直れず、コミュニケーションを一時あきらめたと考えるのが自然である。
あるいはルソーが親しい人と心が通じないことにショックを受け、自分の人生をかけ50年間コミュニケーションが成立するための努力をつづけたというのならば論理が成立する可能性はある。しかし、われわれにとってそれほどジャンジャックルソーと言う人がなじみのある人ではない。だからそう読み取るのは無理があろう。ジャンジャックルソーについて軽く調べてみたが、彼の人生からそこまで言うことも難しいと思われた。
わたしとしては「根拠」「論拠」「主張」をもとに日本型「パラグラフ」を考えたたいという思いがある。このような試行錯誤を続けながら、いつか成果を出し、国語教育に小さな貢献ができたらと考えている。
「主張」には「根拠」が必要です。そして「根拠」と「主張」をつなげる「論拠」が必要になる。ここまでの考え方に問題はありません。問題は「論拠」はおもてに出ない場合が多いということです。
そのことを受けて「コミュニケーションとしきり」についてもう一度整理しなおします。
《根拠1》
子供は小さいころ母親との間には言葉がなくとも通じ合えるという思い込みがあるが、ある時、理解しあえていないことに気付く瞬間が訪れる。こどものころの幸福は消え、暗黒が訪れる。そして「わたし」と「わたし以外の存在」との間は〈透明〉ではなく〈しきり(障害)〉があることを発見する。
《根拠2(あるいは根拠1の具体例)》
ルソーのエピソード。
ルソーが幼いころ母親のような存在だったランベルシエ嬢の櫛を壊したという疑いをかけられ、親しい間柄でも理解し合えない経験をした。そして50年後再び事件を回想し「あの櫛を壊したのはぼくではない。」と言う。
《主張(意見)》
わたしたちは、どこまでもコミュニケーション不能の部分(障害)を抱えているからこそ、コミュニケーションし続けるのである。
さて、ここにどのような論拠が考えられるでしょうか。
《論拠案》
人はだれもが心を通じ合いたいという願望をもっている。
《根拠1》から《主張》にいたるまでの論拠としては上記でいいのではないでしょうか。しかし、《論拠2》のルソーのエピソードに関してはやはりおかしい。ルソーは50年間このことを言い続けたわけではあるまい。50年後に再び言うということは、コミュニケーションがなりたたないショックから立ち直れず、コミュニケーションを一時あきらめたと考えるのが自然である。
あるいはルソーが親しい人と心が通じないことにショックを受け、自分の人生をかけ50年間コミュニケーションが成立するための努力をつづけたというのならば論理が成立する可能性はある。しかし、われわれにとってそれほどジャンジャックルソーと言う人がなじみのある人ではない。だからそう読み取るのは無理があろう。ジャンジャックルソーについて軽く調べてみたが、彼の人生からそこまで言うことも難しいと思われた。
わたしとしては「根拠」「論拠」「主張」をもとに日本型「パラグラフ」を考えたたいという思いがある。このような試行錯誤を続けながら、いつか成果を出し、国語教育に小さな貢献ができたらと考えている。