去年、山形市のシベールアリーナであった『志の輔らくご』に行けなかったので、リベンジ。東京の新PARCO劇場の杮落としの『志の輔らくご』に行きました。
演目は「ぞろぞろ」「メルシーひなまつり」「八五郎出世」の3席。「メルシーひなまつり」は志の輔師匠の新作落語の代表的な演目のようです。さびれた商店街の人たちの人情とお高くとまる外務官僚が見事に描写されていて、そのの対比がおもしろい落語でした。一方「八五郎出世」は志の輔師匠が一番好きな古典落語だと紹介していました。口は悪いが人情家の江戸っ子の気持ちがよく伝わってきます。どちらも人物描写が上手くて堪能しました。
考えてみれば「落語」は描写の芸です。小説ならば登場人物の心理を語り手が説明するわけですが、落語の語りは心理描写をしません。しかし登場人物の心の中は直接感じることができます。当たり前のことですが、「語り」について考える際に一番最初に確認しておかなければなりません。
落語の近代演劇のとの違いは、登場人物の描写が戯画化しているということです。少し大げさで、とは言え誰もが自分でも経験したようなそんな姿を見事に描写します。リアルではないがリアリティがある、そんな描写が落語の描写です。
落語の芸を考えると様々なことが見えてきます。
志の輔師匠が豆知識を披露してくれました。「杮落とし」の「杮」は現在は「かき」の字を当てるが、本来は違う字だということです。「かき」は「なべぶた」の下に「巾」を書くのですが、「こけら」は「市」の縦棒が一本通すのだそうです。しかし、それが活字の都合だったのか、少なくとも活字の世界では使い分けがなくなったということなのです。そういえば「杮落とし」の「杮」は「かき」と書くなと漠然と思っていましたが、気にせずに使っていました。まあ「こけら」という言葉が死語に近づいているのでしょうがないのかもしれません。
山形に新しく県のホールがとうとう完成しました。しかし、「杮落とし」という言葉は一切使っていません。山形ではすでに「こけら」はありません。まもなく「こけし」もなくなるでしょう。
生で聴けるのはうらやましいです。