とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「山月記」の授業6(「人虎伝」との比較)

2016-05-26 19:51:32 | 国語
 「山月記」は「人虎伝」を下敷きにしている。ではどういう点が違うのか。

 1点目。「人虎伝」での李徴は精神的な理由で虎になったとは思っていない。罪にあたる行為をしてしまったから虎になったと考えている。ある女性と不倫関係となり、その夫に殺意を感じたために、一家全員を焼きころしてしまったのである。なんとひどい男だ。これなら虎になってもしょうがないという理由である。また、李徴のセリフ以外のところからも李徴が乱暴者であったことがうかがわれる。乱暴であったから虎になったのである。「山月記」は心理面での弱さに焦点があてられているが、「人虎伝」ではそれはあまり感じられない。

 2点目。李徴は詩人になろうとはしていない。役人をやめたのは任期が終わったからである。そして衣食に窮したから再び役人になった。役人生活はそれほど苦しいものではなかった。

 3点目。李徴のセリフを信じるならば、李徴が気にかけているのは妻と子供のことである。だから「山月記」のように妻子のことを後回しにしていない。さらに、李徴の詩を書き残したのは、妻子に遺言として、自分の形見として残したかったというのが理由である。そして袁傪は「足りない」ところを感じていない。
 
 どのような芸術作品も必ず下敷きになるものがある。完全なオリジナルはありえない。完全なオリジナルなんてあったとしたら、それはだれにも理解できないものになるはずである。その下敷きになったものをどう変化させたのかに、筆者のオリジナリティーがある。

 さて中島敦のオリジナリティーはなんだったのか。
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