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「魅了する大壺の彷徨える焼成地論・その5」で、郡家美術館の青磁大壺はパーンではなく、産地不詳である。可能性として残るのはパヤオとナーンである・・・と紹介してきた。ナーンの可能性に言及したのは、下の三重の”おむすび”形状を横に倒したような印花文が、郡家美術館の6番目の壺文様に見られることによる。
この文様は、ナーンのボスアック窯でみられる文様であり、ボスアックの可能性が最も高いと考えるが、ランプーンのハリプンチャイ国博でみる壺にも、同様の文様が見られ、この壺は中国との表示(中国ではなく北タイと考えているが・・・)がされていることから、現時点では産地を特定する材料がない。
これらの謎の大壺を一堂に展観する機会を関係者に求めたい。一番正確であるのは窯跡から、これらの文様をもつ陶片が出土することが決め手となるが、その機会は訪れそうになく、過去のそのような機会を盗掘が奪ってしまったと考えている。
残る望みは先に記述した謎の大壺を一堂に展観することである。底の形状や糸切更には胎土の具合から、もう少し角度の高い検証が可能であろう。福岡市立美術館、富山市佐藤記念美術館、町田市立博物館などで企画されることを熱望する。
最後にラオスからフェーサイ、チェンコーン経由でもたらされた、これらの壺について地理的要件から探ってみたい。
先ずサンカンペーンの可能性であるが、タイ湾ランクェーン島沖合の沈没船から、数点のサンカンペーン窯の盤が発見されたと報告されているが、量的に僅かであること、さらに中部タイの遺跡での出土数も限られ、出土するのはオムコイ山中が中心で、タノン・トンチャイ山中がそれに続いている。
このサンカンペーン陶磁が幾多の山塊を越え、ラオスのルアンプラバーン及びその周辺に運び込まれたと考えるのは、少し難がありそうである。
(白抜きの矢印はメコンを表す)チェンマイからルアンプラバーンに至る場合、中世には山塊を横断する交易路は存在しなかった。チェンマイから北上しチェンコーンに至り(上グーグルアースの上から3番目の白抜き→)メコンの水運を使って行くことになる。
一方、パヤオからチェンコーンの船着き場へは、盆地の比較的平坦路を行くことになる。
ナーンから北上し現在の国境(白抜き矢印)の分水嶺を越れば、ラオスのMuang Ngeunである。そこはメコンの支流がながれ、そこに川船をうかべれば、ムアン・パークベンの下流でメコンに合流する。ナーンから北上するといっても、ナーン川の上流までは川船となる。
ドン・ハイン教授は、ムアン・パークベンで件の陶磁に出会ったとのことであるが、物流や交易を考えると、ナーン陶磁を北ラオスへ供給することが、最も効率的で物流コストも有利であろうと想定される。従って地理的要件から云えば、ナーン・ボスアック産の可能性が高い。今後ナーンについての情報収集に努めたい。
結局、結論の無い噺になってしまった。北タイ陶磁は奥が深すぎて、分からないことが多すぎるが、それが最大の魅力である。
<了>