<続き>
タクシーは紅河に架かるチュオンズゥオン橋を渡り、紅河の左岸土手を下って一路キムラン村へ向かった。バッチャン方向へは右折せず、その前のHung Hai川橋を渡ってすぐに右折し道なりに進むとキムラン村にある目的の博物館に到着した。所在地はハノイ市内の南東方向約10kmの場所で、北隣はバッチャンである。


ハノイ市内・ロンビエン・バスターミナルから47番バスに乗車。バッチャン方向に右折するバス停で下車。そこからキムランへは、タクシーだが、ほとんど拾えない。従ってハノイ市内からタクシーとなる。片道約35万VND(1,600-1,700円)。
キムラン陶磁器歴史博物館は施錠されているので、東隣のキムラン社人民委員会にて開錠していただくよう依頼する。担当者は英語を解するので心配無用。
博物館の建物写真を掲げておく。この博物館は日本の考古学者故・西村昌也氏の奔走によるものである。氏の尽力に敬意を表したい。



字面が多く恐縮であるが、ことの発端は、2000年4月キムラン社の古老が、村の紅河沿いに位置するバイハムゾン地点で、多量の陶磁器片と銅銭を発見し、ベトナム考古学院に遺跡調査を依頼したのが始まりである。2001年と2003年の2次にわたり発掘調査されたという。その結果、キムラン社で李・陳朝期の上手の陶磁が出土した。先ず博物館に掲げられたボードよる、発掘品やキムランの由来について、以下に紹介しておく。
『キムランへの本格的な居住開始は、陶磁器が多く出土する8-9世紀頃からである。9世紀半ばには、唐の将軍・高駢(こうべん)が交州で総管経略使を務め、雲南の南詔軍を撃破し、その後、静海軍節度使も務めて都護府を囲む大羅城を造営している。
高駢は、キムラン社の廟、ミウカーの主神として祀られている。彼はベトナム風水思想成立に重要な役割を果たし、風水書『高駢地理書』には、キムラン(金蘭)も重要地点として登場するという。高駢伝承は、周囲のザーラム県やバクニン省トゥアンタイン県にも多く残されており、彼は当地域を重要視していたようだ。
キムランの発掘地点では、李朝期(1009-1225)の建築関係遺構、土地造成痕跡、炉址などが確認されている。
キムランには李朝期に、広西壮族自治区出身の阮石越(Nguyen Thach Viet)が妻と共にキムランに移住し、仏道に入っている。出土品には李朝期の菩薩像があることから、李朝期建築の中には仏教寺院もあったようだ。阮石越は、李高宗(1175-1210)期に三教試(科挙)に合格し、李朝に仕えており、本博物館に向かって右の廟、ミウバンに祀られている。』
阮石越が祀られているというミウバンの扁額には『最霊祠』とあり、中央左右の對聯には『千秋勝福顕霊祠』、『五色門徳明開地』とある。
菩薩像は雲南との関連も考えられるが、やはり中国様式の影響が大きいと思われる。これなどを見ているとなぜか、ついつい北タイと比較してみている。北タイでは見かけない仏像である。
『李朝期ベトナムの都、昇龍(タンロン)では非常に高級な陶磁器生産が始まり、中国宋代白磁や耀州窯系青磁に類似した陶磁器も多く生産されている。それらと同類品や珍しい緑釉陶器碗や龍文合子などの出土から、昇龍(タンロン)都城との関係も推測され、都城の衛星的集落の性格がこの時期にも継続していたようだ。陶磁器生産時の焼成失敗品などもあり、李朝期にはすでに陶磁器生産が行われていた可能性が高い。李朝期に高級陶磁をキムランが生産した背景には、阮石越の中国・広西からの移住に象徴されるような、広西からの窯業技術導入があったと考えられる。』
以上がキムラン陶磁器歴史博物館に掲げられている由来である。尚、残念ながら発掘現場には行っていない。それは窯体の概要を示す構造物が残っていないためである。
<参照文献>
ベトナムにおける考古遺跡発掘調査の活用例:西野範子国際文化資源学研究センター客員研究員
交州:古代中国において現在のベトナム北部を中心に置かれた行政区域。漢の武帝が設置し南海郡、交趾郡、日南郡等の9郡を管轄した。
総管経略使:辺境に配属された軍事関係の長官で、唐では節度使が兼任した。
節度使:各地方を防衛するために置かれた役職で行政権も掌握した。
大羅城:ハノイに築かれた城塞。
<続く>
タクシーは紅河に架かるチュオンズゥオン橋を渡り、紅河の左岸土手を下って一路キムラン村へ向かった。バッチャン方向へは右折せず、その前のHung Hai川橋を渡ってすぐに右折し道なりに進むとキムラン村にある目的の博物館に到着した。所在地はハノイ市内の南東方向約10kmの場所で、北隣はバッチャンである。


キムラン陶磁器歴史博物館位置情報
北緯 20°57′49.04″
東経105°54′15.68″
北緯 20°57′49.04″
東経105°54′15.68″
ハノイ市内・ロンビエン・バスターミナルから47番バスに乗車。バッチャン方向に右折するバス停で下車。そこからキムランへは、タクシーだが、ほとんど拾えない。従ってハノイ市内からタクシーとなる。片道約35万VND(1,600-1,700円)。
キムラン陶磁器歴史博物館は施錠されているので、東隣のキムラン社人民委員会にて開錠していただくよう依頼する。担当者は英語を解するので心配無用。
博物館の建物写真を掲げておく。この博物館は日本の考古学者故・西村昌也氏の奔走によるものである。氏の尽力に敬意を表したい。

キムラン社(村)人民委員会

キムラン陶磁器歴史博物館

阮石越を祀るミウバン
字面が多く恐縮であるが、ことの発端は、2000年4月キムラン社の古老が、村の紅河沿いに位置するバイハムゾン地点で、多量の陶磁器片と銅銭を発見し、ベトナム考古学院に遺跡調査を依頼したのが始まりである。2001年と2003年の2次にわたり発掘調査されたという。その結果、キムラン社で李・陳朝期の上手の陶磁が出土した。先ず博物館に掲げられたボードよる、発掘品やキムランの由来について、以下に紹介しておく。
『キムランへの本格的な居住開始は、陶磁器が多く出土する8-9世紀頃からである。9世紀半ばには、唐の将軍・高駢(こうべん)が交州で総管経略使を務め、雲南の南詔軍を撃破し、その後、静海軍節度使も務めて都護府を囲む大羅城を造営している。
高駢は、キムラン社の廟、ミウカーの主神として祀られている。彼はベトナム風水思想成立に重要な役割を果たし、風水書『高駢地理書』には、キムラン(金蘭)も重要地点として登場するという。高駢伝承は、周囲のザーラム県やバクニン省トゥアンタイン県にも多く残されており、彼は当地域を重要視していたようだ。
キムランの発掘地点では、李朝期(1009-1225)の建築関係遺構、土地造成痕跡、炉址などが確認されている。
キムランには李朝期に、広西壮族自治区出身の阮石越(Nguyen Thach Viet)が妻と共にキムランに移住し、仏道に入っている。出土品には李朝期の菩薩像があることから、李朝期建築の中には仏教寺院もあったようだ。阮石越は、李高宗(1175-1210)期に三教試(科挙)に合格し、李朝に仕えており、本博物館に向かって右の廟、ミウバンに祀られている。』


『李朝期ベトナムの都、昇龍(タンロン)では非常に高級な陶磁器生産が始まり、中国宋代白磁や耀州窯系青磁に類似した陶磁器も多く生産されている。それらと同類品や珍しい緑釉陶器碗や龍文合子などの出土から、昇龍(タンロン)都城との関係も推測され、都城の衛星的集落の性格がこの時期にも継続していたようだ。陶磁器生産時の焼成失敗品などもあり、李朝期にはすでに陶磁器生産が行われていた可能性が高い。李朝期に高級陶磁をキムランが生産した背景には、阮石越の中国・広西からの移住に象徴されるような、広西からの窯業技術導入があったと考えられる。』
以上がキムラン陶磁器歴史博物館に掲げられている由来である。尚、残念ながら発掘現場には行っていない。それは窯体の概要を示す構造物が残っていないためである。
<参照文献>
ベトナムにおける考古遺跡発掘調査の活用例:西野範子国際文化資源学研究センター客員研究員
交州:古代中国において現在のベトナム北部を中心に置かれた行政区域。漢の武帝が設置し南海郡、交趾郡、日南郡等の9郡を管轄した。
総管経略使:辺境に配属された軍事関係の長官で、唐では節度使が兼任した。
節度使:各地方を防衛するために置かれた役職で行政権も掌握した。
大羅城:ハノイに築かれた城塞。
<続く>