稲作の豊穣を祈る祭祀
以下、安田教授の著述内容である。”祭壇から出土した稲籾は、翌年の稲籾を収穫し分配する儀礼の可能性が高い。ウシの下顎骨が人骨と同時に埋葬されていること、サイの骨には焼けたあとがあること、日本列島の弥生時代において聖獣とされたシカの仲間が人骨の上から発見されたことから、これらの動物は農耕儀礼に捧げられた生贄であったろう。人骨も副葬品がまったくなく、膝を曲げた屈葬であることから、供犠された生贄であった可能性が高い。
『播磨国風土記』には、生きたシカの血を稲の種籾にかけて豊穣を祈ることが書かれ、さらに東南アジアでは、現在でもこうした稲作儀礼が広く認められる。
発見された城頭山遺跡の祭壇は、最古の稲作の血の儀礼を行った祭壇であると見做されている。稲の種籾にシカやウシの血を塗ったり、あるいは血につけたりすることによって、豊穣を祈ったであろう。祭壇から発見された四体の屈葬の人骨の、供犠された人であろう。
これまで血の儀礼の起源は東南アジアとされていたが、やはり最古の稲作の起源地である長江中流域において6000年以上前から存在していたのである。それは後の漢代の雲南省昆明の滇池周辺に発達した滇王国の青銅貯貝器などに、ウシの生贄の儀礼の様子が描かれており、現在でも苗族によって水牛の生贄が行われている。
(出典:KK News 中国)
そのような血の儀礼の原形が、6000年前の城頭山遺跡で行われていたと思われる。それはまた、日本の新嘗祭の原形であろう。”・・・以上である。
上述の内容を受けて想うことがある。一つは、かつて奈良・唐子鍵考古学ミュージアムで見た弥生時代の鶏頭土製品である。
頭部のみの出土である。やや飛躍した当該ブロガーの見解と思えなくもないが、これは稲作儀礼において捧げられたものと思っている。血の儀礼を行うには鶏を生贄にする必要があるが、弥生社会において土製品で代用したかと思われる。頭部のみの鶏形土製品の使途を考えれば、代用品としか考えられない。
二つ目はドイ・カム寺でのプーセ、ヤーセを祀る儀式(プラペーニー・リヤンドン)が思い浮かぶ。ラワ族とはルワ族とも呼び、メンライ王がチェンマイ建都前の先住民である。
(出典:Chiangmai News)
それは、チェンマイのメーヒア地区にあるドイ・カム寺の鬼の精霊「プーセ・ヤーセ」を祀る儀式である。儀式ではドイ・カム寺の小山に住んでいたといわれる伝説の鬼の夫婦の精霊に、水牛の生贄を捧げ、1年の安全と幸福を祈願するというラワ族に伝わるものである。仏教伝承との習合もみられるようだが、本来はラワ族の農耕儀礼であったかと思われるものの、そのような伝承は伝わっていない。しかし、これは農耕儀礼以外の何物でもないと思われ、このような儀礼が城頭山遺跡でも執行されていたであろう。
<続く>