苗族は長江文明の担い手
城壁内で検出された木材は楓香樹(フウの木:ココ参照)が大半であった。その出現率は80%以上に達した。当時もっとも多く存在した常緑カシ類やシイ類などの樹木片や炭片は、ほとんど発見されなかった。花粉分析の結果は、常緑カシ類を中心とし、これにシイノキ属、フウ属、マツ属などが混生する森林が生育していたことを明らかにしている。
当時多く存在したはずの常緑カシ類などの樹木片や炭片はほとんど発見されなかった。楓香樹の花粉の出現率は10%以下にすぎず、周辺の森の中での優先度はそれほど大きくはなかった。ところが城壁内で発見された木片は大半が楓香樹だったのである。
さらに大型植物遺体を分析すると、楓香樹の葉や実を発見することはできなかった。城頭山遺跡周辺に楓香樹が生育していれば、花粉や大型遺体が検出されるはずである。このことは遺跡の人びとは楓香樹を選択して伐採し、遠隔地から運び込んだとみなされる。
楓香樹の生木は柔らかく、当時の石器を使用する技術では伐採が容易であり、建築材としても加工がしやすかった。そして乾燥すると楓香樹は強く頑丈になる。それに対し常緑カシ類やシイ類の生木は硬く、石器で伐採することは容易ではなかった。
(縄文時代の石斧の手頃な写真がなかったので弥生時代の石斧を掲載)
城頭山遺跡の人びとは楓香樹を多用した。その樹木を民族の生命樹として崇拝し、自らを楓香樹の子孫であるという神話をもつ民族が存在した。それは苗族である。苗族は集落の中心に楓香樹で作った蘆笙柱(ろしょうばしら)を立て、楓香樹で作った木鼓で、祭りの日には鳥の羽で着飾った衣装で踊る。
(蘆笙柱 出典・中国新華網)
司馬遷の「史記」には、長江流域に「三苗」と呼ばれる民族が存在し、たびたび漢族と争ったと記されている①。そして苗族自らも、かつて長江流域に生活し、追われて山岳地帯に逃れたとの伝承をもっている。
城頭山遺跡から出土した人骨を計測した結果、身長160cm以下と小柄であった。長江流域に存在する人々は、苗族をはじめ中原の人びとより小柄であった。こうしたことから城頭山遺跡の住人が苗族をは含め、雲南や貴州の山岳地帯の住人であるトン族・イ族などの非漢族の人びとであった可能性が強い。彼らは森の文化を継承する森の民であり、森の文明である長江文明の担い手としてふさわしい人々である。つまり百越と呼ばれた人々が長江文明の担い手であったことになる。神樹(2):柱と鳥と太陽信仰も参考に願いたい。
注:① 史記五帝本紀・帝舜 『遷三苗於三危以変西戎』三苗の子孫たちが西方に棲む西戎になった・・・と記載されている。
それにしても文中の『楓香樹の生木は柔らかく、当時の石器を使用する技術では伐採が容易であり、建築材としても加工がしやすかった。そして乾燥すると楓香樹は強く頑丈になる。それに対し常緑カシ類やシイ類の生木は硬く、石器で伐採することは容易ではなかった。』・・・は初めて知った次第である。先史時代の人々は木材の性質を知り抜いていたことになる。
<続く>