世界の街角

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稲作漁撈文明(八)

2021-08-11 07:07:59 | 日本文化の源流

最古の焼成煉瓦による祭場神殿と祭政殿

以下、安田教授の著述内容である。やや長文だが御勘弁願いたい。”2000年に祭壇背後を拡張して発掘した結果、赤色の焼成煉瓦が祭祀坑の底部に敷き詰められていた。これは黄土(レス)をあらかじめ焼成し、建築材として利用するために造った焼成煉瓦であった。赤色をだすため大量の二酸化鉄が含有されていた。付近からは道路に敷かれた焼成煉瓦も出土し、世界最古の事例となった。遺跡内の花粉分析の結果、城頭山遺跡から遠くないところにはカシ類とシイ類を中心とした森が存在していた。その森林は煉瓦を焼くための燃料を提供した。

一方、プラントオパールの分析の結果、大量の稲籾が城壁内の堆積物から検出された。これは脱穀を終えた大量の稲籾が城壁内に持ち込まれたことを物語る。焼成煉瓦を稲籾で焼くことができるのかを実験した結果、稲籾の中で24時間焼成したところ、出土した焼成煉瓦と同じ硬度のものができた。稲籾が焼成煉瓦を焼く燃料として使用された可能性が高い。現在のカンボジアでは、籾殻を使用して土器や煉瓦を焼いている。その最古の煉瓦を用いた建物跡が城頭山遺跡から発見されたことにより、都市文明の痕跡が出土したことになる。

城頭山遺跡の城壁が6300年前に出現していたこと、場内から小さな水田とその傍らから祭壇が発見され、稲作農耕儀礼が行われていたことから都市とかんがえられている。しかし長江文明の都市であるからには、王宮と神殿の発見が必要である。

西暦2000年の調査で、それらが発見された。遺跡の最も高い部分に位置する遺跡中央部の西よりのG地点から、焼成煉瓦を敷き詰めた5300年前の屈家嶺文化時代前期の建物跡が発見された。焼成煉瓦を使用した建築物の基壇として、世界最古のものであろう。

宮本長二郎氏の調査によって、建物の平面形式が正殿、前殿、脇殿の配列形式をもっていた。このことからこの建築遺構が祖霊を祀り、儀礼を行う祭場神殿としての性格を持っているとの見解が示されている。

この祭場神殿の西側から大型住居が発見された。東西9.7m、南北8.7mの方形に布堀形を巡らせ、南・西・北面に屋根軒先を支持する軒支柱穴があり、屋内には建物側壁にそって四辺にベッド状遺構と、屋内の北三分の一を間仕切る柱穴列がある。この間仕切りは固定した壁ではなく、布製カーテンなどで間仕切ったものと考えられた。天皇が謁見する御簾のようなものが存在していたであろう。この建物は城内の首長級の館と考えられている。住居として使用されていたが、日常の煮炊きする炉跡がなく、かつ規模が大きいこと、開放的な間仕切りが存在し、奥室を首長の仰座としていることから、首長儀礼を行う祭政殿であったと考えられている。

このように城頭山遺跡からは神殿とみなされる祭場殿と、宮殿とみなされる祭政殿がセットになって発見された。これまでの発見とあわせて、ここは長江文明最古の都市であったと云うことができる。”・・・以上である。

著述にあるような祭場神殿の西側の大型住居、これを祭政殿とか王宮と記されているが、その規模は上掲のように9.7m×8.7mである。この建物跡の時代は5300年前に相当する。青森・三内丸山遺跡については別途記すが、それは5900-4200年前の遺跡であり、城頭山遺跡の建物跡(祭政殿)と同時代に、長さ32m奥行10mの大型竪穴式建物が三内丸山遺跡に存在していた。縄文の建物が大きかったことになる。この一点のみを捉えても、縄文人は世界の先端を行っていたであろうと思われる。

(三内丸山遺跡・想定復元建物 出典:Wikipedia)

(想定復元建物内部)

尚、建物側壁にそったベッド状遺構は、古墳時代の家形埴輪にもみることができる。

写真は大阪府立近つ飛鳥博物館展示の八尾市・美園遺跡出土の家形埴輪である。時代は4世紀であるが、御覧のように側壁にそってベッド状遺構を見ることができる。城頭山遺跡の時代からはるかに後世となるが、建物に関する考え方に共通の何某かを感じることができるが、確証があっての所感ではない。

<続く>