世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

稲作漁撈文明(九)

2021-08-12 07:32:54 | 日本文化の源流

長江の建築様式と日本の比較

以下、著述内容の抜粋である。”宮本長二郎氏は、城頭山遺跡の集落構成や建築様式が、日本の縄文時代前期から弥生~古墳時代にかけてのものと特徴がきわめてよく似ていると指摘する。なによりも城内に墓域や祭場をもつ集落の形式は、縄文時代前期以降の集落に共通して認められるものであり、縄文時代前期の栃木県根古谷遺跡、青森県三内丸山遺跡においても大形の祭祀遺構と墓地が、集落内に隣接して存在した。遺跡内の集落も首長級の館とみなされる大型の建物や祭祀遺構をともない、城頭山遺跡と同じく土塁や環濠をめぐらしている。

布堀と呼ばれる側壁の建築様式は縄文前期の根古谷遺跡更には、弥生時代の北九州・山陰・北陸地方の高床式建築でみられる。また主柱二本の棟持柱で建物の屋根を支える建築様式は、伊勢神宮と類似している。首長級の館とみなされた大型建物のベッド状遺構は、弥生時代中期の四国・九州地方にはじまり、古墳時代前期にかけて関東以南の日本で広く認められる。

こうしたことから、宮本長二郎氏は日本の建築様式には、縄文時代前期以降、長江流域から導入されたものがいくつもありうると指摘している。このことは両者の間に交流があったことを示しているであろう。水田稲作の伝播にともない建築様式も、長江から伝播したことを示す。なによりも祭政殿と云われる二本の大型の棟持柱の建物が、伊勢神宮の建築様式の源流になった可能性がある

縄文人がコメを取に行ったとも考えられるが、コメはもって来られても建築様式まで持って来られないであろう。やはり稲作の伝播とともに、長江流域の建築技術をたずさえた人々が、日本へ渡来したと考えるのが妥当であろう。

これらの長江文明の建物が高床式でないことが重要である。日本の弥生時代遺跡の大型建築物は、東南アジアの家屋に似せて大半が高床式として復元されている。しかし、長江流域の祭政殿や祭場神殿は高床式ではない。今後の日本の弥生時代の大型建物の復元に際して、この城頭山遺跡は参考にされる必要がある。”・・・以上である。

 

二本の大型の棟持柱の建物が、伊勢神宮の建築様式の源流になった可能性がある・・・と指摘されている。伊勢・内宮の創建が何時かハッキリしないが、倭姫命は天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をして各地を移動したと云われている。『日本書紀』によれば、垂仁天皇25年3月に倭姫命は伊勢に至った。すると、天照大御神から「この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ」との神託が降り、伊勢の地に鎮座することが決まったのである。垂仁天皇25年と云えば、4世紀頃が考えられる。その時代に内宮が存在したのかどうか・・・と考えられなくもないが、弥生時代には既に棟持柱を持つ高床式建物は存在していた。それは登呂遺跡に見ることができる。斜めに立ち上がり棟を支えるのが棟持柱である。そのようなことから伊勢神宮は創建当時から棟持柱を有していたと考えられる。

(出典:Wikipedia)

上掲のアンダーラインをつけた一節は、多少なりとも疑問に感じる。長江下流域の河姆渡遺跡では、多くの建築用材が出土しており、それを復元すると大型の高床式建物であった。さらに弥生時代の岡山・津島遺跡から出土した建築部材には、多くのほぞ穴などの木組みを持つ部材が出土している。これらを組み合わせると高床式建物となった。

(岡山・津島遺跡:多くの建築部材が出土した。ほぞやほぞ穴をもつ部材も存在した)

(それらの建築部材を復元すると高床式建物となった)

従って安田教授の指摘は、貴重な指摘乍らすべてではないことが分かる。しかしながらご指摘のように、復元に当たっては確たる証拠が必要であろう。弥生期の建物には土間式と高床式が混在していたのである。

<続く>