世界の街角

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稲作漁撈文明(拾四)

2021-08-29 07:58:30 | 日本文化の源流

寒冷化と民族移動

以下、安田教授の著述内容である。“4200年前の寒冷化は、黄河流域を本拠地とする北方・畑作牧畜民の南下を引きおこした。彼らは馬に乗り青銅器の武器を手にしていた。怒涛のような畑作牧畜民の侵略によって、長江文明の担い手であった稲作漁撈民は、雲南や貴州の山岳地帯へと落ち延びたであろう。また海岸付近の百越の人びとはボート・ピープルとなって太平洋や東シナ海に漕ぎだした。東シナ海の先は日本列島である。その南への移動が台湾からミクロネシア・ポリネシアへの大航海による民族移動の契機となったであろう。”・・・以上である。

百越の人々が東シナ海へ漕ぎだし、日本列島へ渡海したとの裏付けは、今後紹介していくが、縄文人は呉越のみならず朝鮮半島と交易した形跡が存在する。

釜山博物館(釜山広域市立博物館)に東三洞貝塚で出土した、大量の縄文土器と九州産の黒曜石が展示されているという。過去の訪問時には残念ながら記憶にないのだが・・・。朝鮮半島には独自の土器が在り、そこで出土する縄文土器とのコントラストは明らかで、縄文人が遣って来た証左である。

(釜山広域市立博物館)

森浩一氏によると、長崎県多良見町伊木力(いきりき)の大村湾で、湖沼用とは異なる丸木舟が出土したと云う。復元すると長さ6.5m、幅1.2mで7-8人は乗れ、五島へ行ったり、朝鮮半島に行くことができたであろうと云う。その森浩一氏と対談した司馬遼太郎氏が記すのは、五島の若い衆が昭和の初年まで朝鮮半島へ小遣い稼ぎに、タワシとかタオルを売りに行った。それは手漕ぎ船であったと、対談集に記されている。縄文人は渡海したのである。

(於・兵庫県立考古博物館 これは湖沼用の丸木舟であろうが、森浩一氏の記事をみていると、これの一回り大きい丸木舟も存在していたようだ。)

<続く>