楓香樹とクリの木の民
楓香樹の民・苗族のように、日本列島の縄文人も『クリの木の民』であった。青森県三内丸山遺跡の巨木の柱を始め、遺跡から出土する木材片を分析すると、クリの木が圧倒的に多かった。
(クリと云われる6本柱:三内丸山遺跡 出典・Wikipedia)
クリの木と楓香樹は、生木の場合は石器で切り倒しやすい性質をもっている。縄文人や長江文明を担った苗族は、利用しやすい木の性質を知り尽くしていたのである。それは森の民のハイテク技術であった。
長江文明と縄文文明に共通しているのは、森の民がつくりだした森の文明であった。森を自らの存在の根幹におくことなく、森の神を殺す神話(『ギルガメッシュ叙事詩』など)をもつ家畜の民の畑作牧畜文明が拡大するなかで、「森の文明・米の文明」は歴史の闇の中に葬りさられた。
(出典:安田喜憲著『稲作漁撈文明』を参考に作図)
4200年前の気候の悪化は、黄河流域を本拠地とする北方の畑作牧畜民の南下を引き起こした。彼らは馬に乗り青銅製の武器を手にしていた。怒涛のような畑作牧畜民の侵略によって、長江文明の担い手だった稲作漁撈民は、雲南や貴州の山岳地帯へと逃避したであろう。
<続く>