世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

ハノイの博物館・美術館・その3:国立歴史博物館#2

2016-08-24 08:55:33 | 博物館・ベトナム
<続き>

展示品の中で陶磁器を中心に紹介する。時代は中世であるが、年代は順不同である。先ず大型の陶磁である。
青花龍貼花文燭台 1580年紀年銘 莫朝

鉄絵牡丹文燭台 15世紀 黎朝初期

青花牡丹文燭台 15世紀 黎朝

青花龍文燭台 16世紀 莫朝

青花貼花文燭台 16世紀 莫朝

黄褐釉蓮花文広口壺 13-14世紀 陳朝
北タイでは燈明皿や動物肖形の燭台は見るが、このような大型の燭台は見ない。安南陶磁の影響を北タイでは見かけるが、このような燭台は写さなかったことになる。




                                <続く>

ハノイの博物館・美術館・その3:国立歴史博物館#1

2016-08-23 07:15:02 | 博物館・ベトナム
<続き>

国立歴史博物館所蔵のベトナム陶磁を見たく訪れた。外観は黄色が特徴の印象的な建物である。
先ず銅鼓の展示が素晴らしいと聞いていた。銅鼓はドンソン(東山)文化の代表的な青銅器である。ドンソン文化とは、ベトナム北部の紅河流域に成立した金属文化で、紀元前4世紀頃から紀元1世紀頃にかけて続いたと云われている。
その銅鼓が沢山展示されており、そのこと自体は圧巻である。写真撮影は入場料とは別料金を支払えば、撮影可能であるが、アクリライトのケースに入っており、光線が反射してきれいに写らない。しかし、その銅鼓文様は特に興味がある。
先ず入場券には銅鼓の打面文様が印刷されている。それをみると、光芒の先端が切れている。
この先端が途切れた光芒は、堺市博物館『タイの古陶磁』展で見た、サンカンペーンの印花文様(キャップション表示:実はナーン陶磁である)と同じである。
銅鼓以外の展示物で安南陶磁も圧巻である。それらについては次回紹介することにし、元寇に関する展示もあったので、それを紹介する。
ベトナムに対しての元寇は3次に及んだ。写真のパノラマは第3次の元寇の時、ベトナム(陳朝)が勝利を収めた白藤江(バクダンザン)の戦いを絵画にしたものである。ベトナムは王族の陳興道(チャンフォンダオ)が指揮をとり、元の軍船を白藤江の上流に誘い出し、潮が引いたとき身動きできないよう、白藤江の川底に写真の杭を打ち込んだのである。その杭は木造船の船底に、容易に穴をあけられると思われるほどである。
銅鼓、陶磁器以外に印象に残ったのは、上記の元寇関連展示物であった。

                                 <続く>


ハノイの美術館・博物館・その2:キムラン陶磁器・歴史博物館#3

2016-08-22 06:43:09 | 博物館・ベトナム
<続き>

<陳朝> 14世紀
以下は、パネル展示されていたが、写真に撮ることを忘れたため、西野範子氏の論文から写真を借用して掲載する。現物はキムラン陶磁器・歴史博物館には展示されておらず、貸出中か他の博物館で展示されているものと思われる・・・これは当該HP管理人の勝手な推測。

この2つは、展示パネルによると14世紀後半とあるが、時期的にはもう少し早く14世紀前半から14世紀中頃と考えている。上は鉄絵菊花文大碗で交易陶磁の奔りである。従来ハイズゥオン省チューダウ(Chu Dau)窯で交易陶磁が焼造されていたと云われていたが、キムランがそれに加わることになる。
下の青花鳳凰文盤の見込の主文様は鳳凰文で、内壁の従属文は菊唐草文である。これらの文様は、中世の安南陶磁ではよく使われた文様である。展示パネルでみた染付の発色は、残念ながらよく覚えていない。運筆は精作という程ではないが、上手の部類に入るものであり、この古窯址を発掘した故・西村昌也氏によれば、官窯であったとされている。つまりチューダウと並ぶ代表的な窯場であったことになる。この意義は大きく従来、交易陶磁はチューダウ一辺倒であったが、それ以外にも交易陶磁を焼造した窯や官窯があったことになり、膨大な交易陶磁を焼成した背景が、考古学的にも裏付けられたことになる。

<属明期-後黎朝前期> 15世紀
白磁『官窯』印字盤
蛇の目と呼ぶ、やや太めの釉剥ぎは、耀州窯青磁にみることができ、それに倣っているかと思われるが、何よりも注目したいのは、その見込中央に『官窯』と刻まれている(写真では見辛いが・・・)ことである。これがキムランのバイハムゾン遺跡の窯址で出土したことは、官窯が存在したとする証拠たりうると考えられる。
青花碗
 
青花 及び 藍釉合子類
上の写真2点は、ホイアン沖の沈船から引き揚げられた陶磁で、参考に展示されていた。キムランで出土した青花陶磁と比較して、見学するには良い企画である。
青花竹葉文仙盞瓶
玉壺春瓶に取っ手と注ぎ口をつけた仙盞瓶で、主文様は岩山から伸びる竹葉文で、裾にはラマ式連弁文が描かれている。。染付の発色は濁りのない、明るく発色した藍色で上手な作行きである。

<黎朝> 16-17世紀
青花碗
 
青花碗
キャップションには、いずれも青花碗とのみ記されており、何の文様かについては表示がない。上左は円内に雑宝であろうか? 染付は所謂絞り手と呼ぶ滲みをみせ、発色は濁って薄く、文様がはっきりしない。安南青花の絞り手は16-17世紀に編年されているが、時代感は合致している。
青花碗
反転して展示してあるので、見込文様が何なのかわからないが、外側面は菊花に蔓唐草文である。発色は濁りは少ないようだが、やや鮮明さに欠けている。尚、運筆には手慣れさを感じ、手早く描きこまれたものと思われる。キャップションには16世紀と表示されている。
鉄絵正字碗

鉄絵花文盤
上の2点はいずれも17世紀と表示され、左の碗は見込中央に『正』の字が鉄絵により描かれている。この『正』字については、チューダウ窯でも見ることができ、何か意味がありそうである。右は花文としたが、見込中央の二重円圏から七方向に花弁と思われる、突起が描かれている。何を意味するか・・・安南陶磁の素人には意図が読み取れない。
キムランは17世紀に至り、廃窯したようであるが、15世紀までの陶磁に比較し16-17世紀の陶磁は、染付の質は落ち、文様も簡便になり弛緩そのものにみえる。
北タイ陶磁との関連を感じ取れるのか・・・との命題で見学したが、幾つかに関連を認めることができた。それについてはPageを改めて考察したい。

<参照文献>
ベトナムにおける考古遺跡発掘調査の活用例:西野範子国際文化資源学研究センター客員研究員
甦る安南染付・岸良鉄英 里文出版
ベトナムの皇帝陶磁・関千里 めこん
世界陶磁全集16南海 小学館『ベトナムの陶磁』・ジョンガイ
陶説 2001年4月号
ベトナム青花研究ノート・矢島律子
ベトナムの交易陶磁で年代を明らかにできるのは、鉄絵菊花文碗や鉢である。見込に菊花文を釉下鉄絵で描き、底に鉄銹を塗った鉢の破片が、大宰府の観世音寺境内から出土した。出土品は1330年に比定される年紀を有する卒塔婆を共伴しているという。これによって遅くとも14世紀初めに焼造されていることが明らかになっている。
白化粧を施して文様を描き、透明釉をかけるが釉中の不純物のため、淡黄土色のような発色となる。
ジョンガイ氏によると、鉄絵菊花文に様式的に先行する、中国陶磁はみないという。従って安南独自の様式ということになる。
<注>
キムラン社バイ・ハムゾン遺跡は、その下限年代を李朝期(1009-1225)に比定できると云う。
上の写真(金沢大学)は2003年の発掘調査時点の川床遺跡の様子と説明されているが、その後、紅河に流されて、今日では見ることができないと云う。

                                 <続く>

ハノイの博物館・美術館・その2:キムラン陶磁器・歴史博物館・美術館#2

2016-08-20 07:19:09 | 博物館・ベトナム
<続き>

博物館に展示されている陶片や陶磁器を年代順に紹介する。尚、展示ケースの外側からの写真であり、光が反射して見づらい点をお断りしておく。尚、以下の陶磁片につけられた名称は、キップション記載の名称による。

<李朝前期> 11-12世紀

緑釉陶片
中国や安南陶磁について語るには、あまりにも素人である点、お許し願いたい。緑釉陶については、唐三彩や遼三彩の緑釉の流れを汲んでいるのではないかと、思っている。

白磁蓮花貼花蓋
白磁蓮花貼花蓋は貼花とあるが、これは彫だしの連弁である。これはデコラティブな越州窯の流れを汲んでいると思われる。
白磁褐彩蓮弁寸胴壺透かし台陶片
白磁褐彩連弁寸胴壺の透かし台最下部の、高台に相当する部分は褐彩が施されている。これや、先の白磁蓮花貼花蓋などは、かなり高度な造形技法である。
11-12世紀に流行した陶磁に、連弁文を浮彫であらわした白釉炻器がある。この文様の多くは11-12世紀の北宋陶磁に祖形を求めることができ、連弁文を用いるのは李朝の宮中における仏教信仰の影響と考えられる・・・と云う。
李朝期にあたる11-12世紀に、キムランで焼造されていたことは、当地に高度な技術を持つ陶工集団がいたことになる。

<李朝-陳朝> 13世紀
白磁櫛描文碗
五筋の櫛描文で、何の文様なのか素人には分からない。見込には五つの目跡が残る。
李-陳朝は中国の軛からのがれ、独立したにもかかわらず、文化や物質的には中国の影響が大きかったことを覗わせている。それは見込の目跡と櫛歯文で、これは中国の影響である。
タイのシーサッチャナラーイや北タイのパーンにも、櫛歯文が存在する、それとの関係はどーなっているのか? ベトナム経由か、中国からダイレクトに伝播したであろうか?
中国陶磁の安南陶磁への影響という視点のみではなく、中国→安南→北タイという視点でも眺めているが、その影響は少なからず認められるが、決定的な要素は見いだせない。

<陳朝> 14世紀
白磁褐彩平形桶

青磁印花皿

青磁印花碗(青磁印花魚牡丹唐草文碗)
白磁褐彩平型桶陶片はよくみる文様である。その下写真の青磁印花皿は、ガラスケース越しなので型押し文様か、菊花弁状の鎬文様か判然としないが、キャップションでは印花文様としている。陳朝青磁印花文様の一つの完成した姿である。
写真上の青磁印花碗は、宋代(11-12世紀)耀州窯の型押し文様を踏襲しているのであろう、その特徴がよくあらわれている。耀州窯では、魚や牡丹唐草は多用された文様であり、上の碗もその文様を組み合わせている。尚、型押し文は定窯白磁にも存在し、それとの関連も考えられるがどうであろうか。見込に目跡をもっている碗である。
鍔口褐釉皿
キャップションには褐釉とあるが、発色は必ずしも均一ではないが、所謂陳朝の黒釉盤である。以下勝手な推測だが、見込には目跡以外に残渣が残っており、物原に廃棄された盤であろうか?
青磁印花碗

白磁刻花文陵花盤
印花文様が不鮮明で何の文様か判然としないが、これは型押し文様で五つの目跡を残している。下は陵花縁の白磁盤で、多くの貫入に覆われている、刻文はガラス越しでもあり、鮮明には見えないが牡丹唐草文ではないかと思われる。中経盤で陵花にも乱れはなく、それなりの気品を感ずる盤である。
当該Pageを御覧頂いてもわかるように、14世紀の安南青花以前の陶磁も、中国陶磁によく似ているのが分かる。中国との陸続き、安南山脈の障害・・・つまり地政学的な目でみると、陶磁ひとつとってもその影響ぶりが分かる。
以上、11-12世紀から陳朝の14世紀までの、発掘品の幾つかを紹介してきたが、お気付きのように優品が並んでいる印象である。

<参考文献>
甦る安南染付・岸良鉄英 里文出版
ベトナムの皇帝陶磁・関千里 めこん
世界陶磁全集16南海 小学館『ベトナムの陶磁』・ジョンガイ
陶説 2001年4月号
ベトナム青花研究ノート・矢島律子


                                   <続く>

ハノイの博物館・美術館・その2:キムラン陶磁器歴史博物館#1

2016-08-19 06:40:22 | 博物館・ベトナム
<続き>


タクシーは紅河に架かるチュオンズゥオン橋を渡り、紅河の左岸土手を下って一路キムラン村へ向かった。バッチャン方向へは右折せず、その前のHung Hai川橋を渡ってすぐに右折し道なりに進むとキムラン村にある目的の博物館に到着した。所在地はハノイ市内の南東方向約10kmの場所で、北隣はバッチャンである。


キムラン陶磁器歴史博物館位置情報
北緯 20°57′49.04″
東経105°54′15.68″

ハノイ市内・ロンビエン・バスターミナルから47番バスに乗車。バッチャン方向に右折するバス停で下車。そこからキムランへは、タクシーだが、ほとんど拾えない。従ってハノイ市内からタクシーとなる。片道約35万VND(1,600-1,700円)。
キムラン陶磁器歴史博物館は施錠されているので、東隣のキムラン社人民委員会にて開錠していただくよう依頼する。担当者は英語を解するので心配無用。
博物館の建物写真を掲げておく。この博物館は日本の考古学者故・西村昌也氏の奔走によるものである。氏の尽力に敬意を表したい。
キムラン社(村)人民委員会

キムラン陶磁器歴史博物館

阮石越を祀るミウバン

字面が多く恐縮であるが、ことの発端は、2000年4月キムラン社の古老が、村の紅河沿いに位置するバイハムゾン地点で、多量の陶磁器片と銅銭を発見し、ベトナム考古学院に遺跡調査を依頼したのが始まりである。2001年と2003年の2次にわたり発掘調査されたという。その結果、キムラン社で李・陳朝期の上手の陶磁が出土した。先ず博物館に掲げられたボードよる、発掘品やキムランの由来について、以下に紹介しておく。
『キムランへの本格的な居住開始は、陶磁器が多く出土する8-9世紀頃からである。9世紀半ばには、唐の将軍・高駢(こうべん)が交州で総管経略使を務め、雲南の南詔軍を撃破し、その後、静海軍節度使も務めて都護府を囲む大羅城を造営している。
高駢は、キムラン社の廟、ミウカーの主神として祀られている。彼はベトナム風水思想成立に重要な役割を果たし、風水書『高駢地理書』には、キムラン(金蘭)も重要地点として登場するという。高駢伝承は、周囲のザーラム県やバクニン省トゥアンタイン県にも多く残されており、彼は当地域を重要視していたようだ。
キムランの発掘地点では、李朝期(1009-1225)の建築関係遺構、土地造成痕跡、炉址などが確認されている。
キムランには李朝期に、広西壮族自治区出身の阮石越(Nguyen Thach Viet)が妻と共にキムランに移住し、仏道に入っている。出土品には李朝期の菩薩像があることから、李朝期建築の中には仏教寺院もあったようだ。阮石越は、李高宗(1175-1210)期に三教試(科挙)に合格し、李朝に仕えており、本博物館に向かって右の廟、ミウバンに祀られている。』
阮石越が祀られているというミウバンの扁額には『最霊祠』とあり、中央左右の對聯には『千秋勝福顕霊祠』、『五色門徳明開地』とある。
菩薩像は雲南との関連も考えられるが、やはり中国様式の影響が大きいと思われる。これなどを見ているとなぜか、ついつい北タイと比較してみている。北タイでは見かけない仏像である。
『李朝期ベトナムの都、昇龍(タンロン)では非常に高級な陶磁器生産が始まり、中国宋代白磁や耀州窯系青磁に類似した陶磁器も多く生産されている。それらと同類品や珍しい緑釉陶器碗や龍文合子などの出土から、昇龍(タンロン)都城との関係も推測され、都城の衛星的集落の性格がこの時期にも継続していたようだ。陶磁器生産時の焼成失敗品などもあり、李朝期にはすでに陶磁器生産が行われていた可能性が高い。李朝期に高級陶磁をキムランが生産した背景には、阮石越の中国・広西からの移住に象徴されるような、広西からの窯業技術導入があったと考えられる。』
以上がキムラン陶磁器歴史博物館に掲げられている由来である。尚、残念ながら発掘現場には行っていない。それは窯体の概要を示す構造物が残っていないためである。

<参照文献>
ベトナムにおける考古遺跡発掘調査の活用例:西野範子国際文化資源学研究センター客員研究員
交州:古代中国において現在のベトナム北部を中心に置かれた行政区域。漢の武帝が設置し南海郡、交趾郡、日南郡等の9郡を管轄した。
総管経略使:辺境に配属された軍事関係の長官で、唐では節度使が兼任した。
節度使:各地方を防衛するために置かれた役職で行政権も掌握した。
大羅城:ハノイに築かれた城塞。

                              <続く>