大学時代の女ともだちの墓参りに行った。
多磨霊園。
今年で6回目になる。
彼女は大学時代の同級生・長谷川の妹だった。
一学年下の妹で、大学も学部も同じだった。
笑顔のキラキラした子で、我々のアイドル的存在だった。
名前をクニコと言った。
長谷川は、大学を卒業すると、父親の経営する400人規模の会社に入った。
クニコは、大学を卒業したのち、大学院に進学し、そのあと父親の会社に入った。
その後、仙台支社ができたときに、責任者として仙台市に移った。
そして、東日本大震災。
仙台支社は、仙台市と石巻市に倉庫を持っていたが、石巻市の倉庫は壊滅。
仙台市の倉庫も半分以上の商品が被害を受けた。
仙台支社長だったクニコは、東京と仙台を何度も往復して、商品の調達に走り回った。
「少しは休め」という長谷川の忠告を無視して、ほとんど不眠不休で働いた。
その激務がじわじわと体を痛めつけたのか、その年の6月に死んだ。
心不全だった。
クニコは結婚していなかったが、当時20歳の養女がいた。
遠い親戚の七番目の子だった。
名前を七恵と言った。
クニコの葬式で養女の顔を初めて見たとき、血の繋がりが薄いのに、似ている部分が多いことに驚いた。
その顔を見て、七恵を養女にした理由が、少しだけわかった気がした。
葬式には、大学時代の友人が数多く参列した。
その中の一人、野中に、「おまえのレースに、クニコはよく来て、デカい声を上げてたよな」と懐かしむように言われた。
確かに、そうだった。
大学陸上部で短距離選手だった私が参加する大会に、クニコは必ず来てくれて、「マツー、飛ぶように走れ!」といつもデカい声で声援を送ってくれた。
その通りに、飛ぶように走ったが、思わしい結果は出なかった。
東京都の大会、関東大会で、決勝に残ったのは、たった二度だけだ。
飛ぶように走るだけではダメなのかな、才能がないのかな、と思ったが、クニコは「まあ、マツのすごいところは怪我をしないところだよな」と、少しピントのずれた褒め方をしてくれた。
そう言えば、中学、高校、大学にわたって、私は一度も怪我をしたことがなかった。
それは、小さい意味で「才能」と言えたかもしれない。
だが、大学3年の11月に、左膝を痛めた。
私は、走りながら治すつもりだったから、練習は休まなかった。
だが、悪化した。
そんな私を見て、クニコが何度も「マツ、医者に行けよ。気合いで治るわけないだろ」と言って、私を叱った。
膝を痛めてから3か月後に、意を決して医者に行ってみたら、「膝内側側副じん帯損傷」と言われた。
全治4か月とも言われた。
4か月後は4年生になっている。
その頃治っても、あまり意味はない。
だから、陸上部をやめた。
大学キャンパスで、陸上部をやめてから、初めてクニコに会った。
そのとき、言われた。
「マツは思い切りがいつもいいよな。そこが、あたしにはできないところだよ。でも、もう少し続けてほしかったな」
隣には、兄の長谷川がいた。
そんなことを言うクニコを見ながら、長谷川が「こいつが、こんな口の聞き方をするのは、マツだけだよ。他の先輩には敬語を使うのに」と言った。
どういう意味だよ、と聞くと「そういう意味だよ」と長谷川が答えた。
なぜか、クニコのパンチが私の腹に飛んできた。
痛さにもだえている間に、2人はいなくなった。
あれから、30年後に、クニコが死んだ。
自分によく似た養女を残して、一人で死んだ。
墓参りを一緒にしたのは、今年25歳になったクニコの養女・七恵だ。
友人の長谷川は、昨年社長を辞めてしまったが、七恵はその会社で業務部に所属していた。
そして、今年の10月からは、クニコのいた仙台支社の管理部に移るという。
自分から望んだのか、と言ったら、「当たり前でしょ。私が母のやり残したことをやるんだから」とけんか腰で言われた。
その口調を聞いて、似ていると思った。
東京には、もう帰らないつもりだな、と私が言うと、七恵が小さく息を吸った。
そのすきに、当たり前でしょ、と私が七恵の言い方を真似て先手を取った。
腹にパンチが飛んできた。
クニコのときと違ったのは、「バーカ」と勝ち誇ったように言われたことだ。
クニコはきっと、成長した七恵を、空の上から頼もしそうに見ているにちがいない。
そのとき、セミが、私の右頬に強く当たって、何ごともなかったかのように、空に勢いよく飛んでいった。
七恵と一緒に、セミが飛ぶ姿を追いかけた。
七恵が「母さん、またいっちゃったね」と呟いた。
それを聞いて、私の中で、6回目の夏が終わったと思った。
多磨霊園。
今年で6回目になる。
彼女は大学時代の同級生・長谷川の妹だった。
一学年下の妹で、大学も学部も同じだった。
笑顔のキラキラした子で、我々のアイドル的存在だった。
名前をクニコと言った。
長谷川は、大学を卒業すると、父親の経営する400人規模の会社に入った。
クニコは、大学を卒業したのち、大学院に進学し、そのあと父親の会社に入った。
その後、仙台支社ができたときに、責任者として仙台市に移った。
そして、東日本大震災。
仙台支社は、仙台市と石巻市に倉庫を持っていたが、石巻市の倉庫は壊滅。
仙台市の倉庫も半分以上の商品が被害を受けた。
仙台支社長だったクニコは、東京と仙台を何度も往復して、商品の調達に走り回った。
「少しは休め」という長谷川の忠告を無視して、ほとんど不眠不休で働いた。
その激務がじわじわと体を痛めつけたのか、その年の6月に死んだ。
心不全だった。
クニコは結婚していなかったが、当時20歳の養女がいた。
遠い親戚の七番目の子だった。
名前を七恵と言った。
クニコの葬式で養女の顔を初めて見たとき、血の繋がりが薄いのに、似ている部分が多いことに驚いた。
その顔を見て、七恵を養女にした理由が、少しだけわかった気がした。
葬式には、大学時代の友人が数多く参列した。
その中の一人、野中に、「おまえのレースに、クニコはよく来て、デカい声を上げてたよな」と懐かしむように言われた。
確かに、そうだった。
大学陸上部で短距離選手だった私が参加する大会に、クニコは必ず来てくれて、「マツー、飛ぶように走れ!」といつもデカい声で声援を送ってくれた。
その通りに、飛ぶように走ったが、思わしい結果は出なかった。
東京都の大会、関東大会で、決勝に残ったのは、たった二度だけだ。
飛ぶように走るだけではダメなのかな、才能がないのかな、と思ったが、クニコは「まあ、マツのすごいところは怪我をしないところだよな」と、少しピントのずれた褒め方をしてくれた。
そう言えば、中学、高校、大学にわたって、私は一度も怪我をしたことがなかった。
それは、小さい意味で「才能」と言えたかもしれない。
だが、大学3年の11月に、左膝を痛めた。
私は、走りながら治すつもりだったから、練習は休まなかった。
だが、悪化した。
そんな私を見て、クニコが何度も「マツ、医者に行けよ。気合いで治るわけないだろ」と言って、私を叱った。
膝を痛めてから3か月後に、意を決して医者に行ってみたら、「膝内側側副じん帯損傷」と言われた。
全治4か月とも言われた。
4か月後は4年生になっている。
その頃治っても、あまり意味はない。
だから、陸上部をやめた。
大学キャンパスで、陸上部をやめてから、初めてクニコに会った。
そのとき、言われた。
「マツは思い切りがいつもいいよな。そこが、あたしにはできないところだよ。でも、もう少し続けてほしかったな」
隣には、兄の長谷川がいた。
そんなことを言うクニコを見ながら、長谷川が「こいつが、こんな口の聞き方をするのは、マツだけだよ。他の先輩には敬語を使うのに」と言った。
どういう意味だよ、と聞くと「そういう意味だよ」と長谷川が答えた。
なぜか、クニコのパンチが私の腹に飛んできた。
痛さにもだえている間に、2人はいなくなった。
あれから、30年後に、クニコが死んだ。
自分によく似た養女を残して、一人で死んだ。
墓参りを一緒にしたのは、今年25歳になったクニコの養女・七恵だ。
友人の長谷川は、昨年社長を辞めてしまったが、七恵はその会社で業務部に所属していた。
そして、今年の10月からは、クニコのいた仙台支社の管理部に移るという。
自分から望んだのか、と言ったら、「当たり前でしょ。私が母のやり残したことをやるんだから」とけんか腰で言われた。
その口調を聞いて、似ていると思った。
東京には、もう帰らないつもりだな、と私が言うと、七恵が小さく息を吸った。
そのすきに、当たり前でしょ、と私が七恵の言い方を真似て先手を取った。
腹にパンチが飛んできた。
クニコのときと違ったのは、「バーカ」と勝ち誇ったように言われたことだ。
クニコはきっと、成長した七恵を、空の上から頼もしそうに見ているにちがいない。
そのとき、セミが、私の右頬に強く当たって、何ごともなかったかのように、空に勢いよく飛んでいった。
七恵と一緒に、セミが飛ぶ姿を追いかけた。
七恵が「母さん、またいっちゃったね」と呟いた。
それを聞いて、私の中で、6回目の夏が終わったと思った。