リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

6回目の夏

2016-08-07 08:21:00 | オヤジの日記
大学時代の女ともだちの墓参りに行った。

多磨霊園。
今年で6回目になる。

彼女は大学時代の同級生・長谷川の妹だった。
一学年下の妹で、大学も学部も同じだった。

笑顔のキラキラした子で、我々のアイドル的存在だった。
名前をクニコと言った。

長谷川は、大学を卒業すると、父親の経営する400人規模の会社に入った。
クニコは、大学を卒業したのち、大学院に進学し、そのあと父親の会社に入った。

その後、仙台支社ができたときに、責任者として仙台市に移った。

そして、東日本大震災。

仙台支社は、仙台市と石巻市に倉庫を持っていたが、石巻市の倉庫は壊滅。
仙台市の倉庫も半分以上の商品が被害を受けた。

仙台支社長だったクニコは、東京と仙台を何度も往復して、商品の調達に走り回った。
「少しは休め」という長谷川の忠告を無視して、ほとんど不眠不休で働いた。

その激務がじわじわと体を痛めつけたのか、その年の6月に死んだ。
心不全だった。

クニコは結婚していなかったが、当時20歳の養女がいた。
遠い親戚の七番目の子だった。
名前を七恵と言った。

クニコの葬式で養女の顔を初めて見たとき、血の繋がりが薄いのに、似ている部分が多いことに驚いた。
その顔を見て、七恵を養女にした理由が、少しだけわかった気がした。

葬式には、大学時代の友人が数多く参列した。
その中の一人、野中に、「おまえのレースに、クニコはよく来て、デカい声を上げてたよな」と懐かしむように言われた。

確かに、そうだった。
大学陸上部で短距離選手だった私が参加する大会に、クニコは必ず来てくれて、「マツー、飛ぶように走れ!」といつもデカい声で声援を送ってくれた。

その通りに、飛ぶように走ったが、思わしい結果は出なかった。
東京都の大会、関東大会で、決勝に残ったのは、たった二度だけだ。

飛ぶように走るだけではダメなのかな、才能がないのかな、と思ったが、クニコは「まあ、マツのすごいところは怪我をしないところだよな」と、少しピントのずれた褒め方をしてくれた。

そう言えば、中学、高校、大学にわたって、私は一度も怪我をしたことがなかった。
それは、小さい意味で「才能」と言えたかもしれない。

だが、大学3年の11月に、左膝を痛めた。
私は、走りながら治すつもりだったから、練習は休まなかった。
だが、悪化した。

そんな私を見て、クニコが何度も「マツ、医者に行けよ。気合いで治るわけないだろ」と言って、私を叱った。
膝を痛めてから3か月後に、意を決して医者に行ってみたら、「膝内側側副じん帯損傷」と言われた。
全治4か月とも言われた。

4か月後は4年生になっている。
その頃治っても、あまり意味はない。

だから、陸上部をやめた。

大学キャンパスで、陸上部をやめてから、初めてクニコに会った。
そのとき、言われた。

「マツは思い切りがいつもいいよな。そこが、あたしにはできないところだよ。でも、もう少し続けてほしかったな」

隣には、兄の長谷川がいた。
そんなことを言うクニコを見ながら、長谷川が「こいつが、こんな口の聞き方をするのは、マツだけだよ。他の先輩には敬語を使うのに」と言った。

どういう意味だよ、と聞くと「そういう意味だよ」と長谷川が答えた。

なぜか、クニコのパンチが私の腹に飛んできた。

痛さにもだえている間に、2人はいなくなった。


あれから、30年後に、クニコが死んだ。
自分によく似た養女を残して、一人で死んだ。

墓参りを一緒にしたのは、今年25歳になったクニコの養女・七恵だ。
友人の長谷川は、昨年社長を辞めてしまったが、七恵はその会社で業務部に所属していた。

そして、今年の10月からは、クニコのいた仙台支社の管理部に移るという。

自分から望んだのか、と言ったら、「当たり前でしょ。私が母のやり残したことをやるんだから」とけんか腰で言われた。

その口調を聞いて、似ていると思った。

東京には、もう帰らないつもりだな、と私が言うと、七恵が小さく息を吸った。
そのすきに、当たり前でしょ、と私が七恵の言い方を真似て先手を取った。

腹にパンチが飛んできた。


クニコのときと違ったのは、「バーカ」と勝ち誇ったように言われたことだ。


クニコはきっと、成長した七恵を、空の上から頼もしそうに見ているにちがいない。


そのとき、セミが、私の右頬に強く当たって、何ごともなかったかのように、空に勢いよく飛んでいった。

七恵と一緒に、セミが飛ぶ姿を追いかけた。


七恵が「母さん、またいっちゃったね」と呟いた。


それを聞いて、私の中で、6回目の夏が終わったと思った。