「死神」のような陰気な顔をした親友がいる。
姓を尾崎という。
30年以上の付き合いだ。
今は、ほとんど兄弟のような付き合いをしていた。
高校を一か月足らずで退学したあと、24歳までのほぼ10年を危険な世界で生きてきた男。
犯罪歴はないが、瀬戸際で無駄な時間を過ごした男。
その男が、24歳で叔母が経営するコスメショップを継ぐという転換期を経て、尾崎は脱線した人生から本線に戻ってきた。
それと同時期に、尾崎と私は出会った。
新潟長岡駅の待合室で、突然話しかけられたのだ。
「東京に帰る金が不足している。だから、これを買ってくれないか」
差し出されたペリカンの万年筆を見たとき、面白いな、と思った。
風貌は、どこから見ても「筋もん」だったが、目の奥に言いようのない一途さがあって、私は笑いながら頷いてしまったのだ。
俺も貧乏旅だから、三千円しか出せないが・・・。
「俺の思っていた額と同じだ。ありがたいな」と尾崎が笑った(私には笑ったように見えた)。
それからの付き合いだった。
その尾崎は、中野でコスメショップを続けながら、輸入酒の卸、販売を手がけ、スタンドバーも経営していた。
成功した「死神」と言っていいだろう。
15歳からの10年。
尾崎が、その時代について、多くを語ることはないが「喧嘩した記憶しかない」と言ったことがあった。
そして、「喧嘩では負けたことがない」とも豪語した。
170センチ、50キロの華奢な体だが、彼の喧嘩作法を私は2度体感したことがあった。
1度は、渋谷宇田川町で飲んだ帰りに、チンピラ6人に取り囲まれたときだ。
私は、完全に逃げる準備をしていたのだが、尾崎は躊躇なく6人に立ち向かって、そのうちの5人を一瞬で血祭りに上げた。
残りの一人は、戦意喪失して、腰が抜けた状態だった。
これは、本当に現実世界のことなのか、と肌が泡立つような感覚を味わった。
2回目は、中野の居酒屋で、酒を飲んでいるときだった。
ステレオタイプのチンピラ二人が、尾崎に絡んできたのだ。
それに対して、尾崎は、静かなトーンで「お前たち、俺を知っているのか? どこの組のもんだ?」と睨んだのである。
それだけで、チンピラ二人は怖じ気づき、高速で店を出ていった。
完全な貫禄勝ちだ。
役者が違う、と言っていい。
そんな尾崎が経営する中野のスタンドバーに、昨日行ってきた。
時刻は、開店30分前の5時過ぎだ。
尾崎は、経営者であるが、このバーを取り仕切っているのは、尾崎の妻の弟だった。
この義弟は、30代後半の歌舞いた男である。
何をやっても1年と続いたことがないという堪え性のない男だった。
それを見かねた尾崎の妻が、尾崎に「弟の根性を叩きなおしてほしい」と頼んだ。
尾崎は、人と関わるのが嫌いな男だったので、最初は拒んだが、妻の必死さに負けて引き受けることにした。
「俺は、拳でしか教えられないが、いいのか」と妻に念を押した尾崎は、明らかにブラックな方法で弟を支配した。
そして、義弟は、すぐに尾崎に心酔した。
義弟も少林寺拳法の使い手だったが、尾崎にはまったく適わなかったようだ。
スタンドバーは、洋酒が主流だが、ビールも出す。
ただ、外国製のビールばかりだが。
だが、そのバーで私がカウンターに立つと尾崎の義弟は、必ずクリアアサヒの缶を私の前に滑らすのだ。
つまり、特別待遇だ。
金も取らない。
毎日来たとしても、尾崎は私からは金を取らないだろうが、私は世界で2番目に気配りができる男なので、年に2、3回しかスタンドバーに行くことはない。
店で流れているのは、ジャズだけだ。
尾崎と私の共通の趣味がジャズだった。
尾崎は、バド・パウエルが好きで、私は、セロニアス・モンクが好きだった。
そして、尾崎はアルトサックスの経験があり、私はウッドベースの経験があった。
尾崎は、昔からジャズだけを流せる店をやりたいと言っていた。
だから、この店は、尾崎の夢と言ってよかった。
クリアアサヒを飲んだあとは、尾崎の義弟のお任せで、洋酒が出るのがいつもの習慣だった。
私の顔を見て、そのときに合った酒を出すのだ。
このとき出されたのは、バランタインの12年ものだった。
私には、洋酒に関して蘊蓄(ウンチク)を垂れる趣味はないので、美味いか不味いかしかわからない。
きっと、このときの私の体調が良かったのだろう。
酒が、とても美味く感じられた。
次に出されたのは、ブナハーバンだと言う。
知らない銘柄だ。
これも美味かった。
この日は、スコッチ・ウィスキーを出す日だったようだ。
店に流れているジャズは、ソニー・ロリンズのアルバム「サキソフォン・コロッサス」、次が、「テナー・マッドネス」だった。
骨太のロリンズのテナーサックスが、店の中を暴れ回っていた。
だが、次に突然、私にとって聞き慣れたイントロが流れてきた。
それは、ジャズではなかった。
ジャズだけを流す店に、2曲だけあるジャズではない曲。
その一曲であるZARDの「夏を待つセール(帆)のように」だった。
(ちなみに、残りの1曲は、クイーンの『ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン』だった。これも私の思い出に関連した曲だ)
この曲には、私の娘の名前が入っていた。
夏帆。
だから私は、この曲は、坂井泉水さんが娘のために書いてくれたものだと、今も確信していた。
娘のテーマソングだと思っていた。
歌詞を読めばわかるのだが、少しも泣かせる歌ではない。
だが、私は、この曲を聴くと、娘の赤ん坊のときからの記憶が瞬時に思い起こされて、号泣してしまうのである。
このバーには、年に2、3回足を運ぶが、毎回かかるわけではない。
尾崎の義弟が、私が油断をしていると見たときだけ流すのだ。
このときの私は油断していたことになる。
泣いている私の姿を無表情に見つめる尾崎の弟。
意地の悪い男だ。
曲が終わると、私の涙も止まる。
そして、曲も変わる。
ZARDのあとにかかるのは、決まってジョー・サンプルの「メロディーズ・オブ・ラブ」だった。
そのあとに出される酒も毎回決まっていた。
「チナーコ」というテキーラだ。
度数は、40°、テキーラの中では低めの度数だが、酒としての主張が強い。
喉が焼ける。
そして、それを飲み干したあとは、水道水を一杯飲んで、店をあとにする。
背中に「お気をつけてお帰りください」という尾崎の義弟の声を聞いてドアを押し、少し暗くなり始めた中野の街を駅に向かって歩いていく。
それから、妻と息子と娘と新しい息子の待つ国立に帰るのだ。
「夏を待つセール(帆)のように」の余韻に浸りながら。