リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

夏を待つセール(帆)

2017-03-19 07:09:00 | オヤジの日記

「死神」のような陰気な顔をした親友がいる。

姓を尾崎という。

30年以上の付き合いだ。

今は、ほとんど兄弟のような付き合いをしていた。

高校を一か月足らずで退学したあと、24歳までのほぼ10年を危険な世界で生きてきた男。

犯罪歴はないが、瀬戸際で無駄な時間を過ごした男。

その男が、24歳で叔母が経営するコスメショップを継ぐという転換期を経て、尾崎は脱線した人生から本線に戻ってきた。

それと同時期に、尾崎と私は出会った。

新潟長岡駅の待合室で、突然話しかけられたのだ。

「東京に帰る金が不足している。だから、これを買ってくれないか」

差し出されたペリカンの万年筆を見たとき、面白いな、と思った。

風貌は、どこから見ても「筋もん」だったが、目の奥に言いようのない一途さがあって、私は笑いながら頷いてしまったのだ。

俺も貧乏旅だから、三千円しか出せないが・・・。

「俺の思っていた額と同じだ。ありがたいな」と尾崎が笑った(私には笑ったように見えた)。

それからの付き合いだった。

 

その尾崎は、中野でコスメショップを続けながら、輸入酒の卸、販売を手がけ、スタンドバーも経営していた。

成功した「死神」と言っていいだろう。

15歳からの10年。

尾崎が、その時代について、多くを語ることはないが「喧嘩した記憶しかない」と言ったことがあった。

そして、「喧嘩では負けたことがない」とも豪語した。

170センチ、50キロの華奢な体だが、彼の喧嘩作法を私は2度体感したことがあった。

1度は、渋谷宇田川町で飲んだ帰りに、チンピラ6人に取り囲まれたときだ。

私は、完全に逃げる準備をしていたのだが、尾崎は躊躇なく6人に立ち向かって、そのうちの5人を一瞬で血祭りに上げた。

残りの一人は、戦意喪失して、腰が抜けた状態だった。

これは、本当に現実世界のことなのか、と肌が泡立つような感覚を味わった。

2回目は、中野の居酒屋で、酒を飲んでいるときだった。

ステレオタイプのチンピラ二人が、尾崎に絡んできたのだ。

それに対して、尾崎は、静かなトーンで「お前たち、俺を知っているのか? どこの組のもんだ?」と睨んだのである。

それだけで、チンピラ二人は怖じ気づき、高速で店を出ていった。

完全な貫禄勝ちだ。

役者が違う、と言っていい。

 

そんな尾崎が経営する中野のスタンドバーに、昨日行ってきた。

時刻は、開店30分前の5時過ぎだ。

尾崎は、経営者であるが、このバーを取り仕切っているのは、尾崎の妻の弟だった。

この義弟は、30代後半の歌舞いた男である。

何をやっても1年と続いたことがないという堪え性のない男だった。

それを見かねた尾崎の妻が、尾崎に「弟の根性を叩きなおしてほしい」と頼んだ。

尾崎は、人と関わるのが嫌いな男だったので、最初は拒んだが、妻の必死さに負けて引き受けることにした。

「俺は、拳でしか教えられないが、いいのか」と妻に念を押した尾崎は、明らかにブラックな方法で弟を支配した。

そして、義弟は、すぐに尾崎に心酔した。

義弟も少林寺拳法の使い手だったが、尾崎にはまったく適わなかったようだ。

スタンドバーは、洋酒が主流だが、ビールも出す。

ただ、外国製のビールばかりだが。

だが、そのバーで私がカウンターに立つと尾崎の義弟は、必ずクリアアサヒの缶を私の前に滑らすのだ。

つまり、特別待遇だ。

金も取らない。

毎日来たとしても、尾崎は私からは金を取らないだろうが、私は世界で2番目に気配りができる男なので、年に2、3回しかスタンドバーに行くことはない。

店で流れているのは、ジャズだけだ。

尾崎と私の共通の趣味がジャズだった。

尾崎は、バド・パウエルが好きで、私は、セロニアス・モンクが好きだった。

そして、尾崎はアルトサックスの経験があり、私はウッドベースの経験があった。

尾崎は、昔からジャズだけを流せる店をやりたいと言っていた。

だから、この店は、尾崎の夢と言ってよかった。

クリアアサヒを飲んだあとは、尾崎の義弟のお任せで、洋酒が出るのがいつもの習慣だった。

私の顔を見て、そのときに合った酒を出すのだ。

このとき出されたのは、バランタインの12年ものだった。

私には、洋酒に関して蘊蓄(ウンチク)を垂れる趣味はないので、美味いか不味いかしかわからない。

きっと、このときの私の体調が良かったのだろう。

酒が、とても美味く感じられた。

次に出されたのは、ブナハーバンだと言う。

知らない銘柄だ。

これも美味かった。

この日は、スコッチ・ウィスキーを出す日だったようだ。

店に流れているジャズは、ソニー・ロリンズのアルバム「サキソフォン・コロッサス」、次が、「テナー・マッドネス」だった。

骨太のロリンズのテナーサックスが、店の中を暴れ回っていた。


だが、次に突然、私にとって聞き慣れたイントロが流れてきた。

それは、ジャズではなかった。

ジャズだけを流す店に、2曲だけあるジャズではない曲。

その一曲であるZARDの「夏を待つセール(帆)のように」だった。

(ちなみに、残りの1曲は、クイーンの『ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン』だった。これも私の思い出に関連した曲だ)

この曲には、私の娘の名前が入っていた。

夏帆。

だから私は、この曲は、坂井泉水さんが娘のために書いてくれたものだと、今も確信していた。

娘のテーマソングだと思っていた。

歌詞を読めばわかるのだが、少しも泣かせる歌ではない。

だが、私は、この曲を聴くと、娘の赤ん坊のときからの記憶が瞬時に思い起こされて、号泣してしまうのである。

このバーには、年に2、3回足を運ぶが、毎回かかるわけではない。

尾崎の義弟が、私が油断をしていると見たときだけ流すのだ。

このときの私は油断していたことになる。

泣いている私の姿を無表情に見つめる尾崎の弟。

意地の悪い男だ。

曲が終わると、私の涙も止まる。

そして、曲も変わる。

ZARDのあとにかかるのは、決まってジョー・サンプルの「メロディーズ・オブ・ラブ」だった。

そのあとに出される酒も毎回決まっていた。

「チナーコ」というテキーラだ。

度数は、40°、テキーラの中では低めの度数だが、酒としての主張が強い。

喉が焼ける。

そして、それを飲み干したあとは、水道水を一杯飲んで、店をあとにする。

背中に「お気をつけてお帰りください」という尾崎の義弟の声を聞いてドアを押し、少し暗くなり始めた中野の街を駅に向かって歩いていく。

 

それから、妻と息子と娘と新しい息子の待つ国立に帰るのだ。

 

「夏を待つセール(帆)のように」の余韻に浸りながら。