前回の続きです。
ユナちゃんが、土曜日夕方の便で、韓国から日本にやってきた。
日本の病院に、就職するためだ。
ここに至るまでには、いくつかの山を越えなければならなかった。ユナちゃんのご両親がガチガチの反日だったからだ。
ユナちゃんは、12歳頃からJ-POPを聴くようになった。韓国の歌とは違うメロディアスな歌が、心地よかったのだという。
その中でも、デビューしたての「嵐」がお気に入りだった。
「若いエネルギーが、まっすぐ伸びているところに、日本の若者のひたむきさを感じたの」
嵐を気に入ったユナちゃんは、嵐の歌を理解したくて、日本語を独学で勉強し始めた。17年前のことだった。
「好き」というのは、人に、特に若い人には、大きなエネルギーを与えるようだ。高校を卒業する頃には、ユナちゃんは、日本語の会話、読み書きをほぼ完璧にこなせるようになった。
その頃、我が娘はネットの世界で、ユナちゃんと遭遇した。7歳年上のユナちゃんとメール友だちになったのだ。
娘は、東方神起を聴いて、KPOPに興味を持った。最初聴いたとき、日本語で歌っているから、彼らが韓国人だとは分からなかった。日本人が歌っていると思った。
しかし、私が、彼らは韓国の歌手なんだ、と教えると、「こんなに日本語上手いのに、韓国の人なんだ!」と素直な驚きを顔全体で表した。
その驚きは、大きな興味に変わった。
彼らが、こんなにも上手に日本語を話せるのなら、自分だって、勉強すればハングル語を話せるのではないか。
我が家では、反韓教育はしていない。在日韓国人の友だちがいたし、親が中国人の友だちもいた。トルコ人もいた。
彼らは、私たちと同じような考えを持つ「同じ人間」だった。
娘が言う。
「ユナちゃんは、努力家だ。絶えず日本のことを研究している。そして、日本と日本人を尊敬している。ボクも韓国のことを尊敬したいが、それは悪いことか」
悪くはない。ただ、大っぴらに言うと波風が立つ場合もある。お互いの国の複雑な関係も勉強しておいたほうがいい。
「わかったぞい」
娘は、それから少女時代が好きになった。
「こんなに、ワクワクさせてくれるグループは、久しぶりだよ。椎名林檎を初めて聴いたとき以来かな」
娘は、小学2年のとき、椎名林檎の「勝訴ストリップ」を聴いて、椎名林檎の世界にハマったおかしな子だった。
それから、陰陽座を経て、東方神起、そして、少女時代へと興味が移る。
少女時代にハマったとき、娘が言った。
「ボクは、ハングル語をマスターしたいな。いいよな? 間違ってないよな。ユナちゃんといういい師匠もいるんだから。ユナちゃんは、ボクにとって、最高のお手本だ」
そんな風に、7歳年上のユナちゃんと友情を育みながら、娘は成長していった。
そして、大学3年の後期に、娘はユナちゃんのいる韓国に半年間留学した。
そのとき、娘は、ユナちゃんにお願いされたのだ。
「私は、日本で働くのが夢なの。でも、私の両親は、典型的な反日だから、絶対に許してくれない。だから、夏帆にお願い。私の両親と仲良くなって、少しでも日本の印象を良くして欲しいの」
そんなユナちゃんの夢を叶えるために、娘は韓国留学後、2週間に一度の割合で、ユナちゃんの家を訪れた。
最初の訪問では、完全に無視された。一家は茶を飲んでいたが、娘には何も出されなかった。ユナちゃんが、気を使ってくれて、ペットボトルのミネラルウォーターを出してくれた。それを飲みながらユナちゃんとだけ話をした。
娘は、反感を買うと思ったので、ユナちゃんの家では、絶対に日本語を使わないように気を配った。娘は、それなりにハングル語が話せたが、完璧ではなかった。しかし、使える範囲内で、懸命に話した。
「それでも、ユナちゃんの両親は、そっぽを向いていたけどな」
2回目に訪問したとき、40歳くらいの男の人がいた。ユナちゃんの遠い親戚だった。
その人は、何度か日本に来たことがあるらしく、東京のことは、ある程度詳しかった。そして、簡単な日本語が話せた。要するに、ユナちゃんが気を利かせて、その人を呼んだらしいのだ。
家族関係を重んじる韓国人だから、たとえ反日の両親でも、親日の親戚の来訪は拒まないだろうと、ユナちゃんは思った。それは、賢い選択だった。
親戚の人は、日本語で「こんにちは、はじめまして」と挨拶をした。しかし、娘は、この家では、絶対に日本語は話さないと決めていたから、ハングル語で答えた。
その後も、その人は、たまに日本語で話しかけてきたが、娘はかたくなにハングル語で答えを返した。
期待はしていなかったが、その姿勢が少しだけ、ユナちゃんの両親の心を動かしたようだ。
3回目に訪問したとき、初めてお茶を出された。そして、ユナちゃんのお母さんが、話しかけてきた。
「韓国の好きなところと嫌いなところは、なに?」
取り繕うことが嫌いな娘は、ハッキリと答えた。
「嫌いなところは、すぐ感情的になるところ。外人に対して、態度を変えるところ」
娘は、大学に留学してすぐ、健康診断に行くように言われ、病院に行った。しかし、看護師は娘が日本人だとわかると、あからさまに態度を変え、コイツは言葉が通じないと思ったのか、言葉を発することをせず、身振りだけで応対し、最後に娘の背中を強く押した。娘の順番だったのに、列の最後まで娘を無理やり押し込んだのである。
それって、差別ではないのか。
とは思ったが、自分が好きで選んだ道だから、文句は言わないことにした。
好きなところ?
「街と人がバイタリティに溢れているところ。街を歩いていると、自分にも自然とエネルギーが注入される気がして元気になるところ」
そんな風に、ハッキリと意見を述べたら、意外なことに、ユナちゃんの父親が「面白いね。あなた、面白いね」と喜んでくれた。
留学して1ヶ月半が過ぎた頃、環境にも慣れて安心したのか、娘は油断して風邪をひいた。
38度以上の熱が4日続いた。
熱が出ても、娘と私の辞書には「休む」という文字はない。人に伝染さないように、マスクと手袋、消毒スプレーを装備して、大学に行った。
高熱の3日目にユナちゃんから電話があった。ユナちゃんは娘のガラガラ声を聞いて、「ちょっと、夏帆、大丈夫?」と大変心配してくれた。
「うちの病院に来なよ。診てもらった方がいいよ」ユナちゃんは、病院で働いていたのである。
しかし、娘は、大学の行き帰りだけで疲労困憊してしまって、病院に行く気力までは湧いてこなかった。「大丈夫、寝て治すから」。
その日の夕方、娘が寝ていたとき、娘が暮らす寮の寮長に起こされた。
「お客さんが来たよ」
お客さんといえば、ユナちゃんだろうと思った。ユナちゃんが、心配してきてくれたのだろうと。
ロビーに降りた。
そこには、ユナちゃんのお母さんがいた。
「夏帆、熱があるんだって? 薬持ってきたよ。ご飯食べてる? 栄養つけなくちゃダメだよ」
漢方薬と弁当を持ってきてくれたのだ。
ユナちゃんのお母さんは、娘を優しく抱きしめてくれた。
韓国に来て、初めて家庭を感じた気がした。
それからのユナちゃんのお父さんお母さんは、娘に対してフレンドリーだった。
だが、お父さんお母さんの考えは、変わらなかった。
「夏帆はいい子だけど、日本と日本人は、まだ好きになれないな」と日本に対して拒否反応を示すのは、今までと変わらなかった。
そんな状態のまま、娘の半年の留学が終わった。
結局、娘は気に入られたが、ユナちゃんの両親の日本嫌いは、そのままだった。
「ごめんね」と娘は、ユナちゃんに誤った。
「何を誤るの。うちの親が、日本人を気に入ったことだけでも、大きな進歩だよ。それは、夏帆のおかげだよ。ここからは、私がなんとかするから。どうも、ありがとうね、夏帆。本当に、ありがとう」
ユナちゃんは、それから、私の娘の近況を絶えず両親に告げた。
ユナちゃんの両親は、娘の話には積極的に興味を示した。
その地味な蓄積が、功を奏したのか、ユナちゃんのご両親も、娘のことをとても気にかけるようになった。
「あの子は、もう韓国には来ないのかねえ」
それを聞いた娘は、去年の8月、12月、今年の2月に韓国に行った。
その度に、ユナちゃんの両親は喜んで迎え入れてくれた。
「我が娘よ」とまで呼んでくれたという。
今年の2月に韓国に行ったとき、娘は、ユナちゃんの両親に東京ディズニーランドのガイドブックをプレゼントした。
それを見せながら、娘が言った。
「ディズニーランドは、日本の縮図なの。
勤勉でサービス精神旺盛な従業員。正確なシステム運営。驚くほど清潔な園内。
そして、規律を守るお客さん。彼らは、大きな声も出さず、文句も言わず、けっして列を乱さない。
そこに載っている日本人の笑顔を見てください。偽りに見えますか。こっちまで、笑顔になりませんか。
お父さんお母さん、それが日本なんです。日本は、笑顔の国です。あなたの娘さん、ユナを笑顔にさせる国です。
信じてください」
私の娘の説得が、どれほど効果があったのかは、わからない。
しかし、ユナちゃんの両親は、ユナちゃんが日本で働くことを許してくれた。
11月1日から、ユナちゃんは日本の病院で、事務員として働く。
昨日の土曜日の午後、ユナちゃんは、日本にやってきた。
ユナちゃんが成田空港の出国ゲートに姿を現したとき、娘は走ってユナちゃんに近づいた。ユナちゃんもバッグを投げ出して、娘のもとに走った。
抱き合う2人。
7歳違いの姉妹だった。
国籍は関係ない。
2人は、強い絆で結ばれた姉妹だった。
ユナちゃんは、25日まで我が家で暮らしたのち、病院の寮で新しい生活が始まる。
今日は、日本での生活に必要なものを買うために、我が家族全員と買い物に行く予定だ。
昨日の夜、ユナちゃんに言われた。
「おっとーさん。末永く、よろしくね」
30歳の娘が、突然、できたって感じー。