いつか来る日だと思っていた。
覚悟していた。
1月28日午後11時3分。
この日予定していた仕事が終わったので、風呂のあとでクリアアサヒを飲もうと思った。
そのとき、娘が仕事スペースに近づいてきて言った。
「話がある」
来たか、と思った。
娘は、両手に私の好物の銀河高原ビールを持っていた。おそらく賄賂と思われる。
「一緒に飲もうぜ」
ソファに座って、乾杯をした。
そのあとで、私は娘に、アキツ君に会わせてくれるのか、と聞いた。
アキツ君というのは、娘の「本気の彼」のことだ。ただ、本当はアキツという苗字ではない。東京都東村山市秋津に住んでいるから、便宜的に2人でそう呼んでいるだけだ。
娘は、昔から、「本気の彼ができたら会わせるから覚悟しておけよ」と私を脅していた。
とうとう来たか、「本気の彼」。
私は、アキツ君の情報は、かなり詳しく持っていた。
なぜなら、娘が聞きもしないのに、話してくれたからだ。
アキツ君とは、大学4年のとき、バイト先のコンビニで知り合った。しかし、出会ったときから辞めるまで、大きな接点はなかった。
ただ、店のバックヤードで品出しの準備をしているときなど、重い飲料を運んでいる娘を見て、「おい、姉さん。そんな華奢な腕でこれは運べないよ。俺が運んでおくから」と、さりげなくサポートはしてくれていた。
それだけだった。
そのとき、その店には大学4年が3人いた。娘がバイトを辞めるとき、前後して他の2人も辞めることになった。そこで年下のバイトたちの発案で「お別れ会」をしようということになった。
娘はアキツ君に「お別れ会やるけど行く?」と聞いた。
そのときのアキツ君の答えは、こうだった。
「俺はいいよ。そういうの面倒くさいから」
その答えを聞いて、娘は「おや?」と引っかかるものを感じた。しかし、そのときは、それが何なのかわからなかった。
娘は、卒業後、鉄道関係の会社に勤めた。
アキツ君は、H橋大学を卒業して、誰もが名前を知っている世界的な電機メーカーに勤めた。
卒業後の2人は、別々の道を生きた。
お互いの家も携帯の番号も知らず、なんの接点もないまま、忙しい新入り人生を歩んでいた。
昨年の12月。娘は、勤務先の部署の忘年会で新宿の居酒屋に来ていた。
私の娘の名は「夏帆」というのだが、部内では全員から「カッポー」と呼ばれていた。全員に認知されていたようだ。
「カッポーは、口を開かなければ、まともなのにね」
「シラフのときに、サンシャイン池崎は、やめな」
「くしゃみのあとの『チクショー』は、オッサンだぞ」
適度に、いじられていたようだ。
部内の12人で騒いでいるとき、娘の目線の先に、店の入り口からアキツ君が入ってくるのが見えた。アキツ君は同僚らしき人と2人連れだった。
娘は、咄嗟にアキツ君に向かって手を振っていた。
アキツ君が、娘に気づいた。
ためらうことなく、忘年会の輪にやってきて、いつものような無表情で「久しぶり」と言った。
この店は、アキツ君の馴染みの店だったようだ。
知り合いなら、一緒に飲もうよ、と言われたアキツ君は、無表情に娘の隣りの席に座った。
話してみると、アキツ君は、つまらなそうな顔で冗談を連発した。相手の話にテキトーな相槌を打って、まわりを笑わせた。
アキツ君に、そんな一面があったことを知って、娘は驚いた。
改めて見てみると、アキツ君はヒョロヒョロだった。そして、テキトーな冗談をよく言った。
「それって、誰かに似ていないか?」
さあ・・・。
そのとき娘はアキツ君とLINEの交換をした。
クリスマスが過ぎてから食事に行った。ドライブにも行った。映画を観たあと、「これからもよろしく」と言われて、頭をポンポンされた。
要するに、付き合い始めたということだ。
「アキツ君はな」と娘が言った。
「大企業に勤めているのに、スーツは夏物冬物一着ずつしかないんだよな。靴も一足だ。普段着は、春夏秋冬2着ずつを交互に着るんだ。一足しかないスニーカーもボロボロ。頭はいつもボッサボッサで、オシャレにはまったく興味がないんだ。そして、酒好き。『面倒くさい』が口癖だ。これって、誰かに似てるよな」
ちょっと何言っているかわからない。
私は、話題を変えた。
俺は、男女の付き合いに、家族は関係ないと思っている。よく結婚は家と家との結びつきだというが、俺はそうは思わない。個人の結びつきだけだ。
俺は、ママの家族や兄弟に深く関わったことがない。それは、宗教上の問題もあったかもしれないが、罰当たりの俺に宗教は関係なかった。そのことに、こだわったのはママの親族だけだった。
俺は、アキツ君の家族がどんな暮らしをしているかについて、興味がない。だから、アキツ君のご両親のことを俺に教えなくていい。
君たち二人が幸せなら、俺は他のことはどうでもいい。
俺は、君が選んだ男を信じる。
極端なことを言えば、俺はアキツ君に会わなくてもいいとさえ思っている。
「本気の彼」の前では、親に出番なんかない。俺たちのことは、気にしなくてもいいんだぞ。
「でも、会って欲しいんだよね。おまえは、絶対に反対しないと思っているけど、ボクには、おまえのお墨付きが欲しいんだ。それが、勇気になるからな」
わかった。だけど、うちに呼ぶのはやめよう。
「嫌なのか」
いや、アキツ君にとって、我が家と我が家族は完全なアウェイだ。それは、フェアではない。
国立のバーミヤンで会おう。H橋大学の学生だったのだから、アキツ君にとって、バーミヤンはホームに近いのではないか。
俺もバーミヤンはホームだ。W餃子と生ビールは、俺の大好物だ。お互い、ホームとホームで会おうじゃないか。
2月11日、午後2時。我が家族とアキツ君が初めて出会った。
私は娘に画像を見せてもらっていたから顔は知っていたが、生アキツは初めてだ。
嬉しいことに、アキツ君は普段着だった。自分の彼女の両親に会うからといって、わざわざスーツを着てこない姿勢には共感できた。
私もこんなとき、スーツは着ないと思う。
しかし、娘の隣りに座ったアキツ君の目には、かすかに緊張が見て取れた。
私は、そんなアキツ君の目を見るともなく見て言った。
正直に言って欲しいんだが、自分の彼女の家族に会うなんて、面倒くさいとは思わなかったかい?
アキツ君は、意外な質問だとも思わず、「ああ、正直言って、面倒くさかったです」と言いながら、水を軽く口に含んで、笑みを見せた。それでアキツ君の目の中の緊張が消えた。
娘とは、話が盛り上がらなかったら、20分でお開きにしようと決めていた。盛り上がっても、60分で切り上げようと話を合わせていた。
しかし、思いがけず、話が盛り上がった。
名探偵コナンの話で盛り上がったのだ。
アキツ君も我が家族も、全員が名探偵コナンのファンだったのである。
娘と私は、劇場版コナンをすべて観ていた。そして、アキツ君も観ていた。
毎週のテレビアニメも録画して観ているというのだ。盛り上がらないわけがない。
劇場版のどこの場面が良かった、とかキャラクターのここが好き、という話題が次から次に出てきて時間を忘れた。
いつまでも話していられたが、我々のまわりの空気がいくらか澱んでいるのを感じ取った私は、今日はここまで、と熱い空気を遮断した。
「コナンコナンってうるせえんだよ」というSNSという怪物くんが暴れ回るのを恐れた私たちは、素早い動きで店を出た。
出たところで、アキツ君が、「忘れていました」と言って、ヨメに紙袋を渡した。それは、和菓子の葛餅だった。
ヨメは、葛餅が大好物だった。「地球最後の日には、私は絶対に葛餅を食べたい」と言うほどだ。
コーヒー好きの息子には、コーヒー豆のプレゼント。気を遣わせてしまったようだ。
私には、すでに娘経由で銀河高原ビールが賄賂として届けられていたから、今回はない。
娘とアキツ君は、我々とはそこで別れて国立駅方面に歩いて行くことになった。
そのとき、アキツ君が振り向いて私に言った。
「今度は、お宅にお邪魔させてください。ぼく、猫が大好きなんですよ。世界で2番目にブスな猫を見てみたいです。いけませんか?」
いいけど・・・・キミ、変わってるな。
「お互い様だと思います」
その答え、ゴウカクー!
家に帰って、リビングでブス猫と戯れていたら、娘が帰ってきた。別れてから1時間もたっていない。
早かったな。晩メシを2人で食ってくると思ったぞ。
「カフェに寄っただけだよ。明日の仕事に備えて、早く帰りたいんだと」
私は、娘の目を覗き込んで聞いた。
アキツ君、面倒くさかったって言ってなかったか。
「ああ、言ってた。でも、珍しく嬉しそうだったな」
娘も嬉しそうだった。
「なあ、晩メシ作り、手伝うぞ。今日のメニューはなんだ」
オージービーフステーキのタルタルマスタードソース。クズ野菜のスープ。ベビーリーフと生ハムのサラダ。ロールパンだ。
「よし、作ろう!」
いや、まだ、晩メシまでには時間がある。6時半になったら作り始めよう。
その前に、銀河高原ビールだ。
娘と2人、並んでソファに座り、銀河高原ビールの瓶をラッパ飲みした。
ブス猫が、娘の足の横で、丸まって寝ていた。幸せそうだ。
一口飲んだあとで、そんなブス猫の寝顔を愛しむように眺めながら、娘が「なあ」と言った。
娘の方を見ると、娘の目には水が盛り上がっていた。
「今まで一度も言ったことがなかったけどな」
声がかすれていた。
娘は深呼吸したあとで、少し上を向いた。目から水がこぼれそうになったからだろう。
なんだい?
「ボクは・・・わたしは・・・パピーの・・・お父さんの・・・働いている姿が大好き・・・・・です。これからもずっと」
・・・そうか・・・・・・あり・・が・・。