社会人2年目の私の娘が、新宿のドン・キホーテで、声をかけられた。
「お嬢」
この世の中で、私の娘を「お嬢」と呼ぶのは、2人しかいない。長年の友人の尾崎と妻の恵実だ。
振り返ると、2人が後ろに立っていた。尾崎は、薄い青のポロシャツに白いズボン。恵実は、薄紫色のワンピースだった。
「買い物かい」
上司にICレコーダーを2つ買ってきて、と言われて会社から10分くらいの距離にあるドン・キホーテにきたのである。
尾崎夫婦は、キャンプ道具を物色しに来たらしい。外を出歩くのが嫌いだった尾崎が、2年前に突然アウトドアにハマった。まだ小さい3人の子どもたちと触れ合う時間を少しでも多く取りたかったのが、その理由だ。
「お嬢、親父に言っといてくれないか。一緒にキャンプに行こうぜって誘っても、親父は、なかなか『うん』って言わねえんだ。遠慮しているんだろう。車も道具も運転手も全部俺が用意するから、お嬢たちは、手ブラでいいんだ。みんなで楽しもうじゃないか。頼んだぜ、ちゃんと伝えてくれよな」
尾崎が、娘の肩を叩いて「じゃあな」と背を向けた。恵実は、ヒラリと身をひるがえしながら、「お嬢、親父さんによろしくね」と手を振った。
まさか新宿のドン・キホーテで、娘と尾崎夫婦が出会うとは思わなかった。
しかも困ったことに、そのとき、娘は1人ではなかった。広報課の同僚のフジナミ先輩と一緒だった。
ドン・キホーテのど真ん中で、フジナミ先輩は、ポカンと口を開けて、娘と尾崎の顔を交互に見て会話を聞いていたらしい。
どこから見てもアウトローの尾崎と料亭の女将然とした恵実。その2人が、娘のことを「お嬢」と呼ぶ。
しかも、「親父」というフレーズも。
え? なに! リアル「ごくせん」?
そう思ったのだという。
「さっきの人、夏帆ちゃんのお父さんの友だちでしょ。ということは、お父さん、あっちの方の人なの?」
いや、違います。そっちの人です。いや、こっちだったかな。う〜ん、どっちだったかなぁ。
「今の人は、都内にいろいろな店を持っている社長さんで、カタギの人です。隣にいたのが奥さんですよ」
「あの奥さんも雰囲気がある人だね。圧倒されたよ。でも本当に普通の人? 普通の人が、友だちの娘を『お嬢』とは呼ばないんじゃない。怪しいな」
フジナミ先輩は、娘と同じで、子どもの頃「ごくせん」に夢中だったという。
まあ、いいんじゃないでしょうか。怪しいのは尾崎で、父親の私はいたって変態のシラガガイコツですから。
「夏帆ちゃん、そんな細い体してるけど、本当はケンカ強いんでしょ。10秒間に5人の男を投げ飛ばしたりして」などとフジナミ先輩にからかわれながら、会社への帰途についた。
その間に、うなぎ屋があった。
その店の前で、尾崎夫婦が並んでいた。時計を見ると12時を過ぎていた。尾崎夫婦は、昼メシにうなぎを選んだようだ。店の前には、5、6人の行列ができていて、尾崎は2番目だった。
どうでもいいことだが、この日娘に持たせた弁当の中身もうなぎだった。ただ、それは、うなぎに似せたカマボコだった。ビンボー人には、これが精一杯ですから。
尾崎夫婦は、金持ちなので本物を食う。人の世とは、食い物にも序列ができるものなのだ。私は、食い物に興味がないので、それは素直に受け入れまする。
娘が通りかかったとき、ちょっとしたトラブルがあった。
男が割り込んできたのだ。30前後のサラリーマンに見えたという。
「悪い、12時40分までに会社に戻らなくちゃいけないんだ。先に食べさせてくれ」
先頭に並んでいた60くらいの奥さんに、頭を下げていた。こんなとき、私だったら「どうぞどうぞ」だが、奥さんは、抵抗した。
「なんのために並んでると思っているの! 人に譲るためじゃないわよ! あんたの都合なんて、どうでもいいの! 食べたいのなら、並びなさい! 馬鹿たれが!」
相当な迫力があったようだ。
そんなことを言われたら、私だったら逃げ出すが、男は逃げなかった。
「俺には、時間がないんだ」と開き直ったらしい。
なぜ、この店のうなぎにこだわるんだ。日本全国には、グルメバカがたくさんいるが、行列に割って入ってまで己れの食欲を主張するバカは珍しいのではないか。
表が騒がしいと思ったのか、店員さんが店から出てきた。
男の顔を見て、「ネモトさん」と言った。常連さんだったようだ。
そんなことは無視して、先頭の奥さんが、顔を真っ赤にして「この人が強引に割り込んできたんですよ! そんなのって、ありますか! 並ぶ意味がないじゃないの!」と極めて正論で抗議した。
店員さんは「とりあえず、席が1つ空きましたから、まずお客様から」と奥さんを案内した。
男は、時計を見て「時間、ねえな」と呟いた。なんで、時間がないのに、手間のかかるうなぎを食おうとするのだ。私なら、コンビニエンスストアで、オニギリ2個買って歩きながら食いますけどね。あるいは、昼メシはいさぎよく抜く。
うなぎを食わないと禁断症状が出るのだろうか。体が震えたり、手が震えたり、思わず「スリラー」のゾンビダンスを踊ってしまうとか。
そういう人は、病院に行くべきだと私は思いますよ。
店員さんがまた出てきた。「ネモトさん、申し訳ないですが、並んでください。割り込みはダメです」。
そのとき、それまで黙っていた尾崎が男に声をかけた。
「俺たちは、たまたま並んでいただけで、うなぎじゃなくてもいいんだ。だから順番を譲ってもいい。だが、これは俺の一存では、どうにもならない。後ろに並んでいらっしゃる3人の方の了承が必要だ。あんた、頭を下げられるかい」
割り込みは良くない。そんなのは常識だ。良識のある人は、そんなことはしない。それを許してはいけない。それを許したら、行列は成り立たない。
しかし、男にも事情がある。たとえ、つまらない事情だとしても、誠意が伝われば目をつぶってもいい、と尾崎は思ったのだろう。尾崎は、男にチャンスを与えたのだ。
尾崎の迫力に負けた男は、待っている人、ひとりひとりに頭を下げた。尾崎夫婦も後ろの人たちに頭を下げた。
うなぎ好きには、優しい人が多いのか、皆さん頷いてくれたという。
決して、褒められた結末ではないが、男は念願のうなぎ男になった。
それと同時に、尾崎夫婦は順番を外れた。
そのとき、その光景を見ていた娘の姿を尾崎が認めて、声をかけた。遠藤憲一氏ばりの怖い笑顔だった。
「なんだ、お嬢、見ていたのかい」
列に並んでいた全員が「お嬢」に反応して、娘の顔を見た。
見るからに怖そうな男が「お嬢」と呼ぶ娘。
店に入るところだったうなぎ男も、首を回して娘をマジマジと見た。
なにもの?
それ以来、娘は課内で「ヤンクミ」と呼ばれることになった。