小笠原・父島*1989年・3月*
昭和から平成になったこの年、
時間があれば、色々な所を旅していました。
1月には飛騨高山、2月には北海道、そして3月に父島・・・。
北海道、それも宗谷岬で最北を体感し、
その半月後には半袖でいられる父島にいるのですから、
なんともフリーダムな時代でした。
学生だけど、本業バイトくらいに働いて、
世の中はディスコブームでしたが、そちら方面には興味はなかったもので、
旅費くらいはすぐに貯めることができました。まっとうなバイトです。
さて、小笠原が世界遺産登録になったのは、
島固有の動植物が評価されたということらしいですが、
我々が父島に行ったときには、
動植物について「これを見なければ」という意気込みなどはありませんでした。
ただ、緑に発光するきのこ(グリーンぺぺ?)など、
見られたらいいなぁと思っていた程度。
父島に着いた日の翌日、
せっかくきれいな海に来たのだからと、
朝、早起きして一人で大村海岸に行ってみました。
残念ながら曇天で薄暗い朝。
変わった貝など落ちていないかと思いましたが、
白いチョークのような珊瑚が浜一面にあって、そこに寝っ転がってみました。
誰もいない海。
話は前後しますが、
バナナ荘の面々と南島の遊覧から戻ってきたところで、
誰からともなく「小笠原まで来て、海で泳がないのはいかがなものか」、
・・・ということで、8人位で、
宿から近い大村海岸へ繰り出すことになりました。
卒論を書く為に来ていた同部屋のTさんにも声をかけてみると、
一緒に行くことに・・・そうそう、息抜きしなくちゃ。
父島に来て三日目、ずっと曇天で、涼しく、
正直、水着では寒かろうと躊躇しましたが・・・海に入りました。
やはり・・・寒かった。
このときに撮った写真は、寒さのためか、皆、身をすくめている。
早々にバナナ荘に戻りましたとさ。
この日の夜が父島での最後の夜で、
夕食の後、父島のおみやげ物を見にお店をまわったりしました。
現代のようにもっと情報があれば、
うまいこと父島を回れたのかもしれませんが、
あっという間に時間が過ぎてゆきました。
翌日がおがさわら丸が東京に戻る日。
おがさわら丸の出航までは、宿の周りを散歩して過ごしました。
出航は確か11時か12時だったかな。
今は港のターミナルも立派になっているようですね。
父島を出航するおがさわら丸を見送るために、
追走する小船の光景は、今では知る人ぞ知る・・・ですが、
実際に見送られてみると、なんとも心に響くものがあります。
旅行者でさえこのような気持ちなのですから、
住民だった人が島を出る時にはいかばかりか。
桟橋には同部屋だったTさんも見送りに来てくれました。
あと、南島に一緒に行った、KさんとGさんも。
もう一サイクル残れるのが羨ましかったなぁ。
出航して、人々はしばらくデッキにいたまま海を眺めている人が多く、
すると、「あっ、鯨かも」という声が。
見送りの感傷に浸っていた人々も、「鯨」の声に色めきたち、
海原に目を凝らす。
・・・が、そう簡単には見えることはなく、
自分も、「ひょっとして今くじらの潮吹きだった?」くらいのが見えた程度でした。
東京に向かうおがさわら丸は、場所の指定はなかったので、
バナナ荘で一緒だった面々と車座のようになり、
・・・しかし、自分は船酔いが心配で、
念のためずっと横になって過ごしておりました。
この時、我が妹はトランプやおしゃべりで時を過ごしたようですが、
接待役を妹に任せられて正直助かった~。
自分は結局船酔いはしなかったのですが、
父島から東京までの約28時間の記憶がほとんどないので~す。
とりあえず、日の入りと日の出は見たいと思って、
デッキには出たけれども、やはりに阻まれた・・・と思う。これもあいまい。
自分の中では昼頃父島を出航して、その数時間後の夕方、
東京に着いた感覚なのです。
竹芝桟橋に到着して、
バナナ荘の面々と記念撮影。
(この写真が偶然検索でヒットしたN先生のホームページにあって、驚いた)
その後、すぐには別れがたく、浜松町駅の喫茶店でお茶を飲んでから別れました。
この、五泊六日の旅は、異空間にいたような不思議な旅でした。
南の島に行ったのに、ずっと曇天でブルーグレーの空。
静かな海、観光客も少なくて、世の中の情報からも離れ・・・。
ちょっと変わった旅だったなぁ。 ~ つづく ~