杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

いわき視察を終えて

2011-04-24 22:39:32 | 東日本大震災

 福島県いわき市の被災現場を訪問してから、ちょうど1週間経ちましImgp4351 た。今日(24日)は午後、友人を誘って、県アートNPO報告書で取材した『清水アートクラフトフェア』に行ってきました。

 全国から集まったクラフト作家さんたちと、雑貨談義に花を咲かせながらの楽しいお買い物・・・。1週間前と同じ、清々しい青空の日曜日。平和でのどかな「いつもの休日」が、いかに尊いものかを思い知らされました。

 

 

 静岡へ戻った17日夜と翌18日は、なんだか頭がボーっとして全身倦怠状態でした。陽子さんも同じだったようです。短時間にあまりにも多くの悲劇と間近に接し、経験したこともない激しい感情の抑揚に、脳内からいろんな物質が分泌し、体中の神経が少々驚いたのかもしれません。

 車で短時間ぐるっと回っただけでこの疲労感ですから、現地で1ヶ月以上、希望の光を見ることなく過ごす被災者の方々、ガレキの中で行方不明者を探す自衛隊や消防・警察の方々、原発事故の作業員の方々の心身の疲労度はいかばかりでしょう・・・。

 

 

 私自身はこの1週間、幸か不幸か仕事があまり入ってなくて、いわき視察レポートの整理・執筆に集中できました。視察内容は、24日朝8時30分から、FM-Hiでオンエアされた『かみかわ陽子のラジオシェイク』の構成台本、この『杯が乾くまで』、陽子さんのブログ『ヨーコとみんなの広場』の3本に反映させてもらいました。

 

 ただ、記事を書きながら、急にボロボロ涙が出てきたり、途中で何度も「下書き」をリセットしたりで、やっぱりいつもの精神状態ではなかったと思います。仕事の連絡は、今、ほとんどメールでやりとりしているので、一日中パソコンに向かって震災の記事や写真と向き合って、誰とも一言もしゃべらない、という日もありました。

 

 

 先週末、親しい蔵元さんから「とくに用はないんだけど、こっちもひと段落したから・・・」と電話をもらい、新酒の出来や鑑評会の話など、とりとめのない話をしているうちに、ああ、これが自分の日常なんだ~と再確認できて、硬直した心身から余計な力がフッと抜けた気がしました。・・・「日常を取り戻す」ってホント、大切なんですね。その蔵元さんはパソコンをやらない人なので、このブログは見ていないし、私が被災地に取材に行っていたこともまったく知りません。それが却って救われた感じ。なんとも絶妙なタイミングで電話をくれた○○さん、ありがとうございました!

 

 6日間連続掲載の視察レポート「福島いわき・ほんとうの被害」。一日も早く、一人でも多くの人に、いわきの被災者の声を届けたいとの一心で、本当に何かに取り憑かれたかのように書きなぐってしまった感傷的な記事でしたが、きちんと読み込んで自身のブログにリンクしてくれた人もいました。『吟醸王国しずおか』の制作パートナーの一人・オフィストイボックスの櫻井美佳さんです。感想コメントの書き込みやリンクをしてくれる方が少ない過疎ブログなので、本当に嬉しかったです。美佳さんありがとう!

 

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 24日オンエアの『かみかわ陽子のラジオシェイク』では、被災現場で感じたことを陽子さんが直接語ってくれました。トーク内容は、陽子さんのブログ『ヨーコとみんなの広場』で私が代筆紹介していますので、よかったらご覧くださいね。


福島いわき・ほんとうの被害(その6)

2011-04-23 08:46:22 | 東日本大震災

 4月17日のいわき視察。11時から17時まで約6時間、久之浜から勿来までの50キロほどの海岸沿いを走っただけですが、振り返ってライター稼業25年の中で、こんなに重い6時間はなかっただろうと実感しています。

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 訪れたのが桜の季節だったというのも、哀しみを増幅させました。ふつうの年なら、4月中旬の日曜日、絶好のお花見日和だったでしょう。

 

 町はガレキの山でも、桜はちゃんと咲くんですよね・・・。

 

 

 

 

 

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 勿来の手前の植田地区にある植田小学校。今回ご案内くださった地元選出の衆議院議員吉野正芳さんの母校です。地割れした校庭が、 まるで棚田のようになっていました。

 陽子さんと吉野さんが地割れをまたぐようにして歩いて確かめていると、吉野さんの奥さまが「早く戻ってきて、余震が来たら怖いわ」と心配そうに見守っています。

 

Imgp4330 ・・・ここが小学校の校庭だなんて、子どもたちがこの上を駆け回っていると想像したら末恐ろしくなりました。いつも遊んでいる校庭がこんな姿になっちゃって、子どもたちは今、どんな思いでいるのかしら・・・。

 

 

 

 

 

 

 校舎と体育館は3・11では外壁が一部壊れただけなので、教育委員会から使ってもいいと言われたそうですが、校長先生は余震に耐えきれないと判断し立ち入り禁止に。それも道理で、校門から体育館に続く通路はジョイント部分がずれて、体育館のImgp4332軒下も一部地盤沈下しているのがハッキリ確認できました。ふたたび大きな余震が来たら、完全にアウトでしょう・・・。

 

 

 

 

 校門の前の道は所々陥没していて車両は入れません。歩道には八分咲きの桜。その下を、親子連れが散歩に来ていました。就学前と思われる子どもは母親に手を引かれ、無邪気にスキップしていました。ふだんの年なら、お花見しながら「○○ちゃんも早く1年生になりたいね~」なんておしゃべりしていたのかな。

 

 

 

 

 

 被災された吉野さんのご自宅を回ってお見舞いし、次いで4・11のM6弱の余震で崩落した山の急斜面を案内しようとした吉野さんを、奥さまが「今、余震が来たら命がない」と引きとめ、最後の視察地・いわき市勿来地区災害ボランティアセンターへ。

 

 

 今回、陽子さんは静岡茶、静岡市小坂産のスルガエレガント30キロ、うなぎパイ10箱、後援会事務所の女性スタッフ手作りのラスク、マーマレード、オレンジオピール等を差し入れ用に持参しました(私と、もう一人の同行者Iさんは荷物持ちも兼務してました)。

 

 この日の登録ボランティアさんは150人ほど。うかがったときはみなさん外で活動中で、事務所にスタッフが数人残っているだけでした。施設長は地元の産婦人科のドクターだそうです。

 

 

 

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 陽子さんと私で持参したキャリーケースをパカッと開けると、ケース一杯のスルガエレガント! 前日に山で刈ったばかりだそうで、みずみずしいオレンジの香りが事務所中に広がり、スタッフのみなさんは歓声を上げて喜んでくれました。

 

 

 

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 プレハブ事務所の外には、「いわき市4月17日12時現在の放射能測定地0.33μsv」の表示。一見、どれくらいの線量なのかピンと来なかったのですが、夜、静岡へ戻ってネットニュースを見たら、同じ日に原発20キロ圏内に入った枝野官房長官が、完全防備で屋外に5分間滞在し、線量は0.5μsvだったと知りました。

 

 

 ちなみに静岡市では過去0.0281~0.0765μsvという変動幅(静岡新聞より)なので、ひとケタ多いのは確かですが、0コンマ以下のμsvなら健康への影響を心配することはありません。でも、テレビで大きく紹介されるのは白仮面で完全防護服の枝野さん。普段着で懸命にガレキと格闘し、日常を取り戻そうと努力しているいわき市民やボランティアさんたちの映像は流れないでしょう。

 

 もちろん、政府の要人が20キロ圏内に入るのだから、防護服は必要必然なのでしょうが、あんな緊迫感ある姿ばかり見せつけられたら、原発周辺の町もしくは福島県全体があんな状態だと誤解する人は少なくないと思う。海外で日本渡航をキャンセルする人は、あれが日本全体の状態だと思い込んでいるかもしれません。・・・映像メディアは、その影響力をきちんと「想定」して発信してほしいと思いました。

 

 

 

 

 静岡へ帰ったその日の夜、いわき市は震度4の余震に見舞われました。昼間、久之浜で「今日から我が家で暮らす」と気丈に語ったご夫婦、薄磯のガレキの上に置かれた名前入りのトロフィー、植田小学校の地割れした校庭などが真っ先に目に浮かんできました。

 

 「4・11のM6弱の余震で、水道が再び止まり、山崩れで3人亡くなった。復旧への意欲がくじけそうになった。余震だけは勘弁してほしい」と嘆く吉野さんや、山崩れ現場の視察を引き止めた奥さまの怯えた表情を思い返し、いわきの人々は今も大震災と戦っているんだ、私は戦地へ行って来たのだと深く深く噛みしめました。

 

 

 歴史が好きで、書くことが好きで、友人から「マユミちゃんの前世は江戸の瓦版屋の早筆師に違いない」なんてからかわれたこともある私ですが、まさか生きているうちに、世界の歴史教科書にも載るような大災害の地を取材するなんて夢にも思いませんでした。

 このような機会を与えてくださった上川陽子さん、一日、丁寧にご案内くださった吉野正芳さんご夫妻に、心より感謝いたします。

 

 この6時間は今まで経験したことのない、ものすごい時間でしたが、取材活動として見たらほんの序の口。せっかくご縁をいただいたいわき市です。これから何年、何十年とかかる復興の歳月を、現役ライターでいられる限り、しっかり見守っていきたいと思っています。

 

 

 


福島いわき・ほんとうの被害(その5)

2011-04-22 08:30:59 | 東日本大震災

 今日は最初にちょっとコマーシャルを。今回、私が上川陽子さんの福島県いわき市視察に同行したのは、4月24日(日)朝8時30分~9時まで、FM-Hi(76.9 シティエフエム静岡)でオンエアされる『かみかわ陽子のラジオシェイク』という新番組の取材の一環でした。

 この番組は、陽子さんが日本や世界で起こっている気になるニュースや社会問題を、地元静岡の身近な例にたとえながら、おしゃべり解説したり、地域の話題をカジュアルトークする番組(になる予定)です。私は構成作家兼聞き役としてお手伝いします。

 24日の第1回目は、いわき視察のエピソードを中心にお話します。初回のテーマとしては非常に重いのですが(ホントは4月の入学式や母校の思い出など、季節感のある明るい話題を予定していたんです)、今は避けて通れません。

 毎月第4日曜の同時間にレギュラー放送の予定です。76.9の受信エリアの方はぜひお聴きください。 

 

 

 

 さて、いわき市の小名浜漁港の周辺に来たら、景色がImgp4313一変しました。大きな港湾施設のほか、石油や石炭火力関連施設、日産自動車、呉羽工業、旭化成系の製塩会社「新日本ソルト」等の大規模生産プラントが林立しています。

 船が横倒しになっている光景を見物に来る人が多いらしく、巡回パトカーが「関係被災者以外はむやみに入らないでください」と拡声器で叫んでいました。

 

 

 テレビ報道でよく見た、丘で干上がったような船の数々。ひと月以上、このままの状態なんですね・・・。Imgp4314

 

 

 小名浜港から少し南の高台にあるゴルフ場は、奇跡的に被災をまぬがれ、なんと震災の翌日(3月12日)から通常営業をしたそうです。高台で津波が来なかったというのはわかるけど、大地震でライフラインにダメージがあったはず・・・。詳しく聞いたわけではありませんが、たぶん自家発電を完備した、鉄壁の自己完結施設だったのでしょう。

 さすがに12日のお客さんは1組、13日は3組だけだったそうですが、日本中が自粛自粛で金縛り状態になったときに、ここ、いわき市で、「いち早く日常に戻る」という強い意志を示されたオーナーとゲストの判断は潔いと思いました。

 

 

 Imgp4320 次いで訪れたのは、常磐共同火力勿来発電所近くの川田という海岸でした。防潮堤がこのように無残な状態で、その先にあったはずの中州が完全に地盤沈下して、海岸線が陸側に押し寄せていました。

 

 

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 横倒しでむき出しになった堤防の床断面は、まるで石コロを土で固めただけの岩の塊。これじゃぁ、とてもじゃないけど津波は防げないって、素人目にも理解できます。

 

 

 

 川田海岸には、前回記事で紹介した、江名の水産加工業夫妻の奥さまの実家(材木会社)があったそうですが、工場は跡形もありません。奥さまのご家族や会社の社員は無事だったものの、海岸一帯で11人が亡くなりました。

 

 

 会社が残っても復興の道は厳しいようです。放射能の風評被害で、魚や野菜ばかりでなく、木材や工業製品まで、“福島産は放射能がかかっているから”と取引拒否をされたり、いわきナンバーの車両で来ないでくれと言われることも。ネット上の噂ばなしかと思ったら、どうやら本当のことのようです。

 

 ここへ来る前、一夜漬けながら静大サイエンスカフェの講座で放射能の基礎知識を頭に入れておいたおかげか、冷静を装い、「無知な人が多いもんだ・・・」な~んて上から目線で聞いていたんですが、だんだん腹が立ち、言いようもない虚無感に襲われました。差別の根源である原発事故にはもちろん、差別発言をする人や差別を払拭できない情報機関・マスメディアにも腹が立つけど、直接こうして風評被害に遭っている人を目の前にしながら、自分はあまりに非力です・・・。

 

 

 

 いわき市は、大震災のちょうど一ヶ月後の4月11日に、M6弱の余震に襲われ、せっかく水道が97%まで復旧していたのに45%に逆戻りし、17日当日も一部で断水状態が続いていました。

 

 

 Imgp4329 ちょうど常磐共同火力勿来発電所の近くのコンビニ駐車場で、自衛隊の給水車を見かけました。群馬からやってきた部隊だそうです。

 

 コンビニは通常営業しているのに、その横で自衛隊員が給水活動している・・・。震災ニュースを見慣れてしまった身としては、さほど驚く光景ではありませんでしたが、よく考えてみると、自衛隊の方々が、日常の街角で作業しているってちょっと異様ですよね。

 

 

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 災害派遣された自衛隊員が、「自分たちが歓迎され、感謝される時というのは、日本人が不幸のどん底にいる時」と語った・・・そんなニュースをふと思い出しました。

  

 

 

 ひと月経っても、生きるために最も必要な「水」が足りない・・・。そのこと一つとっても、この震災の甚大さがよく解りました。(つづく)


福島いわき・ほんとうの被害(その4)

2011-04-21 00:39:23 | 東日本大震災

 海に面し、津波で壊滅的な被害を受けた薄磯地区。山手のほうにある豊間小学校を訪ねました。避難所かと思って体育館に入ったら、床に敷かれたブルーシートの上に、ガレキの中から拾い出されたアルバImgp4303_2 ムや位牌など家族の貴重な品々が並んでいました。

 体育館の壁の、一見似つかわしくない紅白の横断幕。・・・おそらく卒業式の準備か何かをしていた、そのままの状態だったのでしょう。もうそれだけで胸が締め付けられそうな思いでした。

 

 

 

 

 入口近くで、子どもの絵日記らしいスケッチブックを見つけ、思わず手にした陽子さん。どうやら小学6年生ぐらいの女の子が、自分の12年間の出来事を紙芝居風に綴った成長日記のようなものでした。

 自分を産んでくれたお母さんへの感謝の言葉、幼いころの思い出、学校の出来事や友だちのこと・・・Imgp4302 陽子さんはご自分の娘さんも、小学校の卒業記念に、似たような成長日記を作られたそうで、目を真っ赤にしながらページをめくっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 古いセピア色の肖像写真から、つい最近、撮ったものと思われる家族旅行の写真まで、おびただしい写真の数々・・・。その数だけ、家族の歴史があり、残したい思い出があり、それが決してお金では買えないものだからこそ、ガレキの中から大切に取り出され、泥をぬぐわれ、ここに運ばれたImgp4304わけですね。

 

 

 

 

 

 

 写真といえば、以前、実家で、自分の赤ん坊の頃の写真をアルバムから取り外そうとしたら、母から「勝手に持ち出さないで」と怒られたことがあります。自分の写真をどこに持って行こうと勝手じゃないかと憤慨したのですが、私の赤ん坊時代の写真は、母の記憶の結晶であり、母にとっての宝物だったんだと後から気がつきました。

 娘さんの成長日記は、本人よりも親御さんにとっての宝物に違いない・・・陽子さんの涙を見ながら、改めて母の言葉を思い出しました。

 

 

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 陽子さんが覗き込んでいるのは、3冊並んだ母子手帳。3人のお子さんの誕生の記録であり、かけがえのない記憶です。

 

 

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 子どもの手形を見つけた吉野さん夫妻は、「うちの孫と同じ名前の子だ~」と目頭を押さえていました。

 

 

 

 Imgp4305 傍らでは、被災者と思われる女性が熱心に品々を見ていました。吉野さんが声をかけたところ、おばあちゃんの位牌を探しているとのこと。

 母子手帳から位牌まで、ブルーシートの上には実にさまざまな、人の一生の証しが並んでいました。・・・こういう光景からも、今回の犠牲者の年齢層の幅、そして残された遺族の哀しみの深さを実感します。

 

 

 

 

 次いで立ち寄った江名地区には、水産加工業を営む吉野さんの友人の家があり、ご家族がちょうど家の片づけをされていました。

 家屋の倒壊はまぬがれたものの、室内はメチャメチャ。途方に暮れていたとき、郡山の学校にALTとして勤めていたカナダ人とオーストラリア人の語学教師が、仲間とともにボランティアに来てくれて、2日がかりでガレキをすべて撤去してくれたそうです。奥さんは「ボランティアさんがあんなに有難いとは思わなかった。しかも遠い外国から来た人だよぉ。ホント、助かったよ~」と心底実感を込めていました。

 

Imgp4312  すぐ隣の家には、「壊していいです」の貼り紙が。その奥の家は「壊さないで」の貼り紙。Imgp4311 これまで立ち寄った被災地でも、家主が避難して留守になった家には、どちらかの貼り紙がつけられていました。

 

 

 

 その区域全部が「壊していいです」だったら、重機を入れてガーッと区画整理をし、早期に新しい都市計画づくりに着手できるのでしょうが、そうはなかなか行かないのが現実。都市計画といっても、「元の通りにしてほしい」という声と、「この際、まったく新しい防災都市にすべき」という相反する声が出てくると思います。

 

 被災者や避難民の「もう一度、故郷に戻るんだ」という強い意志こそが、復興の一番の原動力に相違ありません。そして、そういう人々の意志が削がれないような復興計画を立案し、実行していくのが政治家の努め。しかし、ときには心を鬼にしなければならない時も来るでしょう。

 「・・・政治家が本当に苦しむのはこれからだ」と吉野さんも陽子さんも真剣に語り合っていました。 

 

 

 

 江名の友人夫妻は吉野さんに、「放射能の差別がひどい。原発より南だから風の影響はそんなにないのに、いわきって口にしただけで相手の態度が変わるんだ」と訴えるように話していました。それに応えるかのように、吉野さんは「この人たち、静岡からわざわざ来てくれたんだよ、よく来てくれたよなぁ」と我々を紹介してくれました。

 

 

 実は、被災者の方々にお会いするたびに、少々バツの悪い思いをしていました。自分自身、義援金や支援物資を届けに来たわけでもなく、汗を流して救援活動をするわけでもなく、陽子さんの視察にくっついて来ただけで、ペットボトルの水1本、差し入れることも出来ません(陽子さんは静岡のスルガ甘夏ミカン30kgに手作りマーマレード、うなぎパイ等を差し入れ、別途ミネラルウォーター50ケースを送られました)。

 「何しに来たんだ?」なんて思われているんじゃないかと不安な気持ちになっていたんです。

 実際、同じいわき市内でもまったく被災しなかった地域から、“被災地見物”に来る人たちがいるらしいんです。そんな野次馬と同類に思われている気がして・・・。

 

 

 でもこんな役立たずの私でも県外から来たというだけで、差別を受けているこの町の被災者の方々にとっては、意味ある存在になっていたんですね。自意識過剰かもしれないけど、吉野さんと友人夫妻のやりとりを聞きながら、そう感じました。それほどまでに、この町のみなさんが傷ついているという現実も・・・。(つづく)

 


福島いわき・ほんとうの被害(その3)

2011-04-20 07:43:13 | 東日本大震災

 いわき市の久之浜を後にして、海沿いを南下し、次Imgp4278いで訪ねたのは四倉(よつくら)港。道路沿いに、『道の駅よつくら港』という看板が見え、鯉のぼりが悠々と泳いでいました。

 

 道の駅の建物は、見 たところ半壊状態。しかし店舗の一角には出店や農産物市のブースが出ていて、軽快な音楽が流れていて、地元のみなさんで賑Imgp4270わっていました。陽子さんも私も、開口一番「いやぁ~おかあさんたち、たくましいなぁ!」。

 

 

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 物品は確かに数も種類も少なかったけれど、売り子のおかあさんたちの表情は、どこか吹っ切れたように明るいんですね。「きゅうり1本20 円、サービスサービスだよ~」と鐘を鳴らして客Imgp4274 寄せをする農産物ブースに、あっという間にお客さんが集まってきました。

 

 

 

 

 

 

 ドリンクコーナーではガレキの中から掘り出した缶コImgp4272ーヒーや焼酎が「震災缶コーヒー」「震災酒」として売られていました。被災された酒屋さんの心意気を感じます!

 

 

 その前のランドセルコーナーは、たぶん支援物資として送られてきたものなImgp4275 んでしょうね。

 

 

 

 

 

 道の駅よつくら港には、いわき市と姉妹提携を結んでいる会津の三島町から大勢のボランティアがスコップ持参で駆けつけて、ガレキの片づけをしてくれて、こうして店頭売りが出来るまでになったそうです。

 福島県は静岡県と同じで、広い海岸線と内陸部を共有する県。海の町と山の町が日頃から交流し合い、助け合う。・・・友好姉妹提携って何も海外や県外の遠く離れた町同士じゃなくても、互いに補完し合えるものがあれば有効だし、同県民同士、そのむすびつきは強固でスピーディーで、いざという時はホントに頼りになるんだろうと思いました。

 

 

 

 

 さらに南に続く新舞子浜を進み、塩屋埼灯台の近くまでやってきました。途中で見かけた防風林は津波の勢いを低減させたようで、内側に広がる田畑の中にImgp4281 は放射線の土壌汚染チェックもパスし、新たな作付けができるところも。

「・・・でも野菜作っても売れるアテがないからなぁ」とため息をつく吉野さん。ついさっき、道の駅で対面したおかあさんたちの風評被害をもろともしない笑顔が、地元圏内だけに許されるものだという現実に気づかされ、切なくなりました。

 

 

 新舞子浜の防風林の中には、潮をかぶった針葉樹が早くも変色し始めている箇所もありました。道路は液状化し、そのあとに砂が覆って、Imgp4283_2 液状化した箇所をハッキリと示していました。

 

 途中、吉野さんの携帯電話がひっきりなしに鳴ります。ある電話は、いわき市内の貸アパート空室照会の依頼。「被災者の住まい、双葉郡から避難してきた人の住まい、急きょ稼働させることになった火力発電所の臨時作業員用の住まい。この3つを探さなきゃならないんだ~」と、市内の不動産賃貸業者に問い合わせをしまくったという吉野さん。アパート探しまで頼まれるとは、代議士の先生ってイザというとき、やっぱり頼りにされるんだな~と感心してしまいました。

 いわゆる落下傘候補じゃなくて、地元にちゃんと根を下ろした政治活動をされているからなんですね。

 

 

 

 Imgp4291 通行止め。周辺を、佐世保ナンバーの長崎県警のパトカーが巡回していました。福岡県警、兵庫県警のパトカーも見かけました。

・・・思わず、「静岡県警は来てますか?」と吉野さんに訊ねたら、「心配すんなって、ちゃ~んと来とるよ~」と笑われました。Imgp4298

 

 

 

 

 ホッとしたのもつかの間、塩屋埼灯台の手前・薄磯地区は、ガレキ一面の無残な姿をさらけ出していました。

 

 

 

 

 

 

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 ここには家があったようで、なぜか風呂場のタイルとバスタブだけが残っていました。

 

 

 

 

 

 Imgp4292 消防団の詰め所後はこのとおり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 奥に見える、横倒しImgp4300になった冷蔵庫の中には、卵のパックらしきものが・・・。ここがゴミ処理場ではなく、ふつうの暮らしが存在していたまぎれもない証拠です。

 

 

 

 

 

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 持ち主がわかるトロフィーなのに、こうして置かれているのは、持ち主が行方不明だということでしょうか・・・。

 

 

 

 

 

 

 この地区だけで100人が亡くなったそうです。いわき市全体では300人が亡くなり、まだ70~80人の行方がわからないとのこと。警察や消防の捜索活動もなかなか進まず、生き残った住民は、ゴルフのアイアンクラブなど、とりあえず手元にあった棒状のものでガレキをかき分けながら行方不明者を探しているのだとか。

 今、自分が立っているこの場所を、そんな悲劇が現在進行形で覆っているのかと思ったら、急にふるえが来て、無性に涙がこみ上げてきました。(つづく)