杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

2014年松井妙子染色画展のご案内

2014-05-09 13:51:58 | アート・文化

 毎年、GWの翌週は、染色画家松井妙子先生の新作展が開かれます。今年も5月14日(水)から20日(火)まで松坂屋静岡店本館6階美術画廊で、50点の新作が展示即売されます。今年の代表作はこちら!

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 毎年この時期に当ブログでも新作展の案内をさせていただいていますが、松井先生のパワーがまったく衰えないのが、ほんと、ビックリです。

 

 

 5月に新作展を開いたのは1980年から。1994年まで新静岡センターの美術画廊で、1995年から松坂屋静岡店で開催し続け、松坂屋では今年で19回目。新静岡センター時代から数えると、トータル34年。アートの世界はあまり詳しくないのですが、これだけ長い間、新作展を毎年欠かさず、しかも百貨店というシビアな会場で継続開催できる作家というのは、少なくとも静岡県内では稀有な存在ではないでしょうか。

 

 

 ふくろう、かわせみなど松井作品の常連キャラは、30余年、変わらぬ愛らしさを放ち続けています。ファンは、松井先生のふくろうやかわせみたちが、今年はどんな冒険をするのかしら?と楽しみに来るのかもしれません。

 

 

Dsc00813  もちろん、初めて観る人にとっても、その魅力はすんなり理解されるようです。以前、アメリカで看護師をしている妹の職場(アリゾナ州の総合病院)を訪ねたとき、手土産に持っていった松井先生の絵葉書は、職場スタッフに大好評でした。

 

かと思えば、絵心のある磯自慢酒造の寺岡社長に松井先生を紹介したときは、社長もすっかりファンになって、杜氏さんたちの休憩室に作品を展示してくれています(運よく休憩室に入れた人は、ぜひチェックしてみてください!)。

 

 

 

 

 かくも多くの人々に愛され続ける松井作品の魅力、ぜひ会場でお確かめくださいね!


「増山たづ子 すべて写真になる日まで」を見て

2014-01-24 13:01:08 | アート・文化

 1月19日(日)、駿東郡長泉町にあるクレマチスの丘内のIZU PHOTO MUSEUM に行ってきました。クレマチスの丘は、以前、取材に行ったとき、ヴァンジ彫刻庭園美術館や井上靖文学館をじっくり見て感心しましたが、その後、2009年には写真専門のIZU PHOTO MUSEUM も新設され、複合文化施設としてますます充実しています。

 

 

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 IZU PHOTO MUSEUM では、昨年10月から「増山たづ子・すべて写真になる日まで」を今年3月2日まで開催中です。今回は染色画家の松井妙子先生が、懇意にされている写真家柴田秀夫さんから招待された「増山たづ子・すべてが写真になる日まで~トークイベント」に同行させていただきました。

 

 

 増山たづ子さん。名前だけは知っていましたが、作品を見るのは初めてです。増山さんはプロの写真家ではないので、「作品」という言い方は違うのかもしれませんが、大切なものを写真に撮って残すというカメラ本来の存在意義を、これほど強く実感した写真展は、初めてかもしれません。

 

 あらためて紹介すると、増山さんは、岐阜県徳山村で民宿を営んでいましたが、日本最大級のロックフィル式多目的ダム・徳山ダムの建設により、村は1987年に地図から消え、2008年のダム完成によって完全に水没。増山さんは、ダム計画が現実味を帯びてきた1977年、60歳のときに初めてのカメラ「ピッカリコニカ」を手にとって村を撮り歩き、87年に廃村となった後も村のすみずみまで撮影し、2006年に亡くなる直前まで消えゆく故郷を撮り続けました。

 

 

 前日、NHK土曜ドラマ『足尾から来た女』を見て、足尾銅山鉱毒事故を通し、100年前、国によって故郷を奪われた人々の痛みを知って、福島の現状に思いを寄せていたところ。徳山村も、ある意味、重なるところがあります。

 

 こういうテーマを取り上げると、一方に偏りがちになるおそれもあろうかと思いますが、増山さんの写真からは故郷を奪われた苦しみとか国への批判とか愚痴といったものは感じられません。70年代、中学~高校生だった私にとっては、写真の中にある制服姿の子どもたちや親や祖父母世代のたたずまいが、ただひたすら懐かしく、母の故郷である伊豆の田舎の光景が思い出され、温かい気持ちになりました。

そして、鑑賞後は、特別な村ではなく誰の記憶にもあるであろう故郷の姿が、水没という形で失われた、その哀しみが我がことのように押し寄せます。・・・偏りのない、純粋に故郷を撮って残したいと思った増山さんの写真の力なんだろうと感動しました。

 

 

 トークイベントで知りましたが、増山さんのご主人は第二次代戦中、ビルマ戦線で行方不明となったまま。70年代は横井庄一さんや小野田寛郎さんの帰還が相次いだため、「お父さんが帰って来たときのために、故郷の記録を残さなければ」という強いモチベーションがあったそうです。

 

 

 

 

 増山さんが遺したのは、10万カットにも及ぶネガと600冊のアルバム。誰に頼まれたわけでもなく、増山さんは自費で、年金のほとんどを写真代につぎこみました。被写体となった人々全員にプリントして渡しており、プリント代だけでも月に10万円は遣っていたそうです。

 現在、ネガやアルバムは、晩年の増山さんの活動を支えた野部博子さん(滋賀県立大非常勤講師・増山たづ子の遺志を継ぐ館代表)が保管管理しており、今回はその一部が展示されています。

 「写真を撮ったらプリントして相手に渡す。それが増山さんのコミュニケーション方法でした」と野部さん。デジカメのデータをメール送信するか、SNSにアップしてシェアして終わり、という昨今では想像できないアナログな方法ですが、そういう手間があってこそ、しっかりと記憶に残るんですね。

 

 

 この写真展を企画したIZU PHOTO MUSEUM のキュレーター小原真史さんは、小学生のとき、考古学者の父親に連れられて徳山村に滞在した経験があり、今回の展示写真を選ぶ際、自分の家のアルバムにあった写真とまったく同じ写真を見つけ、「増山さんからもらった写真だったのか」と驚いたそうです。いい展示会&トークイベントだなあと感じられたのは、キュレーター自身、それだけ深い思い入れがあったからだろうと思いました。

 

 

 60歳を過ぎてカメラを初めて手にしたおばあちゃんが、ストロボ内蔵コンパクトカメラの草分け的存在である「ピッカリコニカ」で撮った、日付入りのプリント写真。ホントに、どの家庭のアルバムにもある、ごくふつうの同時プリントサイズの写真。写っている村人の多くは、真正面から、もろ、カメラ目線で撮られ、そこにいわゆるプロ写真家のような作家性や造形性は存在しないのですが、松井先生と2人して、「素人がコンパクトカメラで撮ったとは思えないですねえ」とうなってしまいました。

 それほど被写体の表情が豊かで、風景を切り取った構図も素晴らしく、自分のホームグラウンドとはいえ、日常の変化をつぶさに観察し、違いを発見し、感動する天性の感覚をお持ちなのだと思いました。そして人々のあまりにも自然で純粋無垢な笑顔。・・・増山さんがいかに村人たちに信頼されていたかが伝わってきます。

 

 

 

 トークショーでは、野部さんをはじめ、増山さんを取材したNHKカメラマンや東海テレビの元ディレクターが、増山さんの思い出話に華を咲かせたのですが、印象に残ったのは、「プロの写真家に負けない3つの要素は、対象への観察力、知性、やさしさ」というコメント。

 

 

 振り返って、私自身、『吟醸王国しずおか』を撮るためには、本来、外部の人間をシャットアウトする酒蔵の内臓部分に踏み込んで、杜氏さんや蔵人さんの表情にどこまで迫れるかが一番の山場だと思っていました。カメラマンやパイロット版を見た酒友たちは「よくあそこまで撮れた」と言ってくれましたが、自分の中では消化不良なところがあります。

 20数年の酒蔵通いの間、カメラを向けていないときに時折見せてくれる杜氏さんや蔵人さんたちの表情は、もっと豊かで、喜怒哀楽の度合いも深い。増山さんの写真を見ていたら、相手との距離や時間の問題だけでなく、自分自身の観察力のなさ、つまりは、その“瞬間”をとらえる感性の鈍さを痛感させられました。自分にいくら酒の知識や、酒への愛情があろうと、冷静に、丁寧に観察する力がなければ、他者に何かを伝えることはできないのです。

 

 そんなこんなを、あらためて深く考えさせてくれた一日でした。

 

 

 『増山たづ子 すべて写真になる日まで』は、2014年3月2日(日)まで開催中です。こちらをご参照ください。

 

 


ルドンとゴーギャン魂の対話

2013-07-23 19:58:02 | アート・文化

 20日(土)午後、静岡市美術館で開催中の『オディロン・ルドン―夢の起源、幻想のふるさとボルドーから』を観に行きました。

 

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 ルドンは高校生の頃、美術の授業で自分の好きな花の絵を選ぶ機会があり、どういうきっかけか忘れましたが、ルドンの花の絵を選んで以来、ずっと好きな芸術家の一人でした。10代のころは、なんとなく浮世離れした、幻想的でグロテスクで神秘主義的なルドンの作風にハマっていたんですね。

 

 

 

 国内で何度か展覧会を観ていますが、静岡で観るのは初めて。今回は、ルドン展にちなんだ講演会「ルドンとゴーギャン、魂の対話」があり、専門家の解説を聴講し、ルドンの人となりが判って、なんとなく大人目線で客観的に鑑賞することが出来ました。

 彼がワインで有名なボルドーの裕福な良家の出身で、お母さんとの関係が悪くて内向的な性格だったらしいけど、わりと大人しくて常識的な人・・・など等。作家自身のバックボーンを知って鑑賞するのって、ある意味、つまんないかもしれないけど・・・(苦笑)。

 

 

 

 ゴーギャンと深い関わりがあったことは、今回初めて知りました。20日14時からの講演会「ルドンとゴーギャン、魂の対話」は多摩美術大学の本江邦夫教授が講師を務めました。

 

 

 ルドンは1840年ボルドーの良家生まれ。幼い頃から絵が好きで、父の勧めで建築家を目指すも、試験に落ちて挫折。画家を目指し、当時、急速に発達した科学技術にも興味を持ち、顕微鏡で生物や植物を覗いては光と闇、生命と死について考察するオタクな人だったようです。

 

 

 

 

 一方、ゴーギャンは1848年パリ生まれでジャーナリストだった父の赴任先・中南米育ち。株式仲買人という当時の最先端ビジネスに従事していましたが、1883年、35歳で仕事をやめて画家に転身しました。

 2人が出会ったのは1886年の第8回印象派展。このときルドンは、明るい色彩の印象派の中で、黒一色の空想的な怪物を描いた作品を出品して周囲を驚かせます。でもゴーギャン的にはツボにはまったんでしょうね。人間嫌いで有名なゴーギャンにとって、ルドンは唯一無二の、尊敬・信頼できる先輩となったのでした。彼がパリに嫌気がさしてタヒチに移住するときも、植民地事情に詳しいルドンの妻(混血美女だったらしい)にいろいろ指南してもらったそうです。

 

 

 2人の親交の深さを物語るのが、互いに交換した作品。ゴーギャンはルドンに壷を、ルドンはゴーギャンに「聖アントニウスの誘惑」という作品を進呈しました。当時、作家同士で作品を交換することが最上の友好の証といわれていたようです。

 

 

 1890年9月、ゴーギャンがルドンに宛てたタヒチ行きの決意表明の手紙にはこんな一節があります。

 

 「私はタヒチに行きます。そして、そこで一生を終えるつもりです。おもうに、あなたが好んでくださる私の芸術はまだ胚芽にすぎません。私はそれを彼の地で、自分自身のために、プリミティブで野蛮な状態のまま育て上げたいのです。そのためには落ち着きが必要です。他人のための栄光など一体なんの意味があるのでしょう」

 

 

 また1901年8月に書かれたゴーギャンのルドン評にはこんな一節があります。

 

 「自然は無限の神秘と想像力をもっている。自然はその産物をつねに変化させつつ姿をあらわす。芸術家自身がこうした手段の一つであり、私にとってオルティン・ルドンは創造の連続性を維持すべく自然によって選ばれた者のひとりである。彼の描くすべての植物や萌芽的な存在は、本質的に人間的なものであり、私たちと共に生きてきたのである。だからこそまちがいなく、それらには、それらなりの苦しみがあるのだ」

 

 

 ところがルドンが後年、色彩を多用するようになると、タヒチで人づてにそれを聞いたゴーギャンは、痛烈に批判します。

 

 「ルドンについて言えば痛ましい限りです(もう老いぼれですよ!)。-だれかが彼に言ったのです。あなたは大変な色彩家ですと。そしてそれで十分だったのです。なにしろ彼ときたら色彩を理解することなど決してなかったのですから。それにまた(黒という)ただひとつの色調に全速力で駆り立てられた想像力が疲れ切ってしまったのかもしれませんね。

 

 ぼくがいつも言ってきたのは、画家の手になる文学的なポエジーというのは、特殊なもので、書かれたものの形を用いた図解でも翻訳でもないということでした。要するに絵画にあっては、記述よりも暗示を追求すべきであり、これは他では音楽がはたしていることです。ぼくの絵は理解しがたいとよく言われるのですが、それはまさしく、そこに説明的な側面を探そうとするからに他なりません。ぼくの絵にはそんなものはないというのに―」

 

 

 

 

 ゴーギャンは1903年、マルキーズ諸島ヒヴァオア島で心臓発作のため亡くなります。その2年前、死期を悟った彼は、自ら制作した花瓶にヒマワリを生け、その背後にルドンの黒の時代のトレードマークだった目玉の怪物を配置した絵を描き上げていました。ゴッホとルドンに敬意を表したんですね。

 

 ルドンは1916年、パリで亡くなりました。晩年はフォンフロワド修道院の図書室の壁画制作に臨みました。壁画をオーダーされるというのが、当時の画家にとって最高の名誉だったそうです。またゴーギャンの訃報に接した後は、彼を鎮魂する作品を何枚か描きました。

 

 

 

 紆余曲折があったにせよ、ルドンは76年の生涯を、わりとおだやかに、まっとうしたと思います。ゴーギャンのほうが芸術家らしい破天荒な一生だったかもしれません。そして芸術家としてのネームバリューは、あきらかにゴーギャンのほうが高い。

 

 しかし、そんなことは、後世の我々だから言えることで、同じ時代に生きて出会い、ときに尊敬しあい、反発しあい、切磋琢磨した者同士、どちらが上か下か、幸運か不運かなんて比べるのは意味がないこと。作品を交換したり、自分の作品に相手のシンボルを遺す・・・これは表現者同士のこの上ない絆の証明ではないかと思います。

 

 

 ルドンの後輩にあたる画家ドニの日記に、ルドンが残した印象的な言葉が残っていました。

 

 「ルドンのことば(ある若い画家に向けて)。

 《自然とともに閉じこもりなさい》。

 あらゆるものを、その素材にしたがって描くこと。ごつごつした樹木、すべすべした肌を。」

 

 

 静岡市美術館のルドン展は、8月25日まで開催中です。詳しくはこちらを。


富士山、世界遺産への道のり

2013-06-24 16:36:38 | アート・文化

 富士山の世界文化遺産登録が決定した翌23日、24日と、中日新聞朝刊広告特集で記事をDsc_0189
書きました。

 

 富士山の世界遺産に関する取材も、かれこれ10年ぐらいになります。

 これまでゴミの問題や山麓が開発され過ぎていて世界遺産になれなかったと思われているようですが、最初から文化遺産を目指す、つまり自然環境ではなく、信仰や芸術の源泉としてプレゼンしていけば、すんなり登録されたのかもしれません。

 

 そもそも自然遺産の国内候補にもなれなかった理由は、ゴミや開発ばかりでなく、火山としての特徴がキリマンジャロやハワイ活火山など他の世界自然遺産と比べて乏しく、絶滅危惧種の生育地でもなかったから。つまり、山そのものの魅力はワールドクラスじゃないって“そもそも論”だったんですね。

 

 しかし、信仰や芸術の源泉という観点で見たら、唯一無二の存在だし、西洋美術にも多大な影響を与えている。取材の過程でも、戦略を間違えなければ、もっと早くすんなり登録されたのでは、という声をよく聞きました。

 

 

 そうはいっても文化遺産は候補が多く、登録の基準も年々厳しくなっています。構成資産候補の富士山周辺の各浅間神社は、ふだんは地元の氏子さんたちが細々守っているという感じで、世界から参拝客を受け入るという体制にはほど遠い感じがしたし、三保の松原はテトラポットと風景に似つかわしくない観光土産店&ゴミの散乱がネック。

 昨年、イコモスの調査員が現地にやってきたとき、どんなふうに思ったのか、やっぱり気になりました。イコモスというのは遺跡調査や保存に関する専門機関ですから、対象となる資産が、地元で、価値ある遺産としてちゃんと認識され、保存されているかどうか厳しくチェックされると思ったからです。

 

 

 

 

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 今年の1月1日元日は、家族で三保の松原と久能山東照宮をお参りしました。三保の松原を家族で歩くのは、私が小学校へ上がる前以来。海岸のゴミやテトラポットは相変わらず気になりましたが、晴天の海原と松林の向こうに広がる富士山は、歓声を上げてしまうほど美しかった。素直に、「世界遺産になってほしい」と心から湧き上がってくるのを感じました。

 

 

 

 

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 22日登録決定の日は、朝から富士~富士宮周辺の富士山関連グッズを取材してまわり、12時から富士宮市役所の登録記念イベントに参加。市内4蔵の地酒(高砂、富士正、白糸、富士錦)をぜいたくにブレンドした樽酒で乾杯~!の瞬間を写真撮り。

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 夕方から静岡のFM-Hi スタジオで上川陽子さんの番組収録があったため、登録決定の瞬間には立ち会えませんでしたが、陽子さんにはトイレットペーパーのお土産をしっかり持ち帰りました(笑)。

 

 

 

 

 

 

 紆余曲折の登録までの道のりを、今日(23日)の中日新聞朝刊で紹介しました。新聞をご覧になれない方は以下をお読みくださいませ。

 

 

 

 

祝!富士山、世界文化遺産登録。<o:p></o:p>

 

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 ROAD TO THE WORLD HERITAGE<o:p></o:p>

 世界遺産への道のりを振り返る<o:p></o:p>

 

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  日本の象徴・富士山が、ようやく世界文化遺産に登録された。日本がユネスコ世界遺産条約の締結国となった平成4年(1992)から始まった登録への動き。20年余の道のりを、登山風に振り返ってみよう。(取材協力・写真提供/静岡県世界遺産推進課)<o:p></o:p>

 

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0合目/民間で署名活動スタート<o:p></o:p>

 

平成4年(1992)、日本が世界遺産条約の締結国になったこの年から、自然保護団体等を中心に、登録を目指す動きが始まる。民間主導で「富士山を世界遺産とする連絡協議会」が発足し、大規模な署名運動を実施。<o:p></o:p>

 

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1合目/国に推薦を請願<o:p></o:p>

 

平成6年(1994)、「富士山を世界遺産とする連絡協議会」が240万人余の署名を添えて衆参両院議長へ推薦を請願。陳情を目的とした静岡・山梨両県の文化・自然保護団体による「富士山を考える会」が発足し、続けて衆参両院議長へ誓願。両院において「世界遺産リストへの登録を目指し、富士山の保全対策を検討するなど積極的な取り組みを行うこと」が採択された。<o:p></o:p>

 

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1・5合目/環境省の取り組みスタート<o:p></o:p>

 

平成7年(1995)、環境省は国会採択を受け、富士山地域の自然環境保護と適正な利用を推進する具体策を協議するため、「富士箱根伊豆国立公園富士山地域環境保全対策協議会」を設置。<o:p></o:p>

 

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2合目/世界文化遺産の可能性<o:p></o:p>

 

平成12年(2000)、国は「文化財保護審議会世界遺産条約特別委員会」を設置。世界文化遺産候補として暫定リストへ登載する国内候補地を審議し、『平泉』『石見銀山遺跡』『紀伊山地の霊場と参詣道』を選出。富士山は「顕著な価値を有する文化的景観として評価できると考えられる。今後、多角的・総合的な調査研究を深め、その価値を守るための国民の理解と協力が高まることを期待し、できるだけ早期に推薦できるよう強く要望する」とのコメントを受けた。<o:p></o:p>

 

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3合目/世界自然遺産候補から外れる<o:p></o:p>

 

平成15年(2003)、環境省と林野庁が共同で「世界自然遺産候補に関する検討会」を実施。富士山を含む国内19ヶ所について詳細な検討を行い、『知床』『小笠原諸島』『トカラ・奄美・琉球列島』の暫定リストへの推薦が決まった。<o:p></o:p>

 

富士山が選ばれなかった理由は以下の通り。<o:p></o:p>

 

 3千mを超える単独の成層火山だが、多様な火山タイプ(特徴)がなく、絶滅危惧種の生息域でもなく、世界遺産基準の条件に欠ける。<o:p></o:p>

 

 すでに世界遺産に登録されているキリマンジャロ、ハワイ火山と比較すると見劣りする。<o:p></o:p>

 

 利用されすぎていることにより、改変が進んでいる。<o:p></o:p>

 

 ゴミ・し尿処理対策など管理体制の確立が必要。<o:p></o:p>

 

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3・5合目/『富士山を世界遺産にする国民会議』発足<o:p></o:p>

 

平成17年(2005)、中曽根康弘元首相を会長に、静岡・山梨両県知事を特別顧問としたNPO「富士山を世界遺産にする国民会議」が発足。両県連名で文科省・文化庁に対し、要望書を提出。文化財としての保護管理の指針を示す「特別名勝富士山保存管理計画」がスタート。県と地元市町に「静岡県世界文化遺産登録推進協議会」設置。静岡・山梨両県で「両県合同会議」発足。<o:p></o:p>

 

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4合目/県庁内に担当室設置、官民足並み揃う<o:p></o:p>

 


松井妙子先生新作展と朝鮮通信使研究会のお知らせ

2013-05-07 10:30:23 | アート・文化

 天候に恵まれたGW、後半は3日に江南市へ遠出した以外、お寺のバイトや市内での打ち合わせ等、いつもと変わらない週末でした。合間に、映画は『リンカーン』『ヒッチコック』『藁の盾』の3本観ました。『リンカーン』と『ヒッチコック』は、偉人の伝記という以上に、夫婦のドラマとして見応えがありましたね。並外れた能力とカリスマ性がある夫と、どう折り合って暮らしていくのか、妻が抱える複雑な内面を、どちらかといえばわりとストレートに解りやすく描いていました。日本やヨーロッパの監督だったら、もう少し繊細な演出を加えていただろうな、と想像しつつ・・・。

 

 『藁の盾』は、昨年末、アメリカから一時帰国した妹夫婦が予告編を観て「これ、チョー面白そう!」とウケてたので、カンヌに出品すると知ったときも、なるほど、と思いました。凶悪犯を護送する警察官が賞金目当ての一般市民から狙われるというプロットは、以前観たハリウッド映画『SWAT』に似ているなあと思いつつ、それぞれの登場人物に、やむをえない事情を匂わせるウエットなところが日本的でした。大沢たかおが好演だっただけに、対峙する犯人役に、『ブラックレイン』の松田優作ぐらいのカリスマ性があったら引き締まったかなあ。あの手の犯罪者役は、確かにキャスティングが難しいだろうけど・・・。

 

 

 今月は、これから、個人的に楽しみな催事が続きます。まず、GWImg020明けの恒例・静岡松坂屋での松井妙子先生の新作展。

 今回は東北を旅し、宮沢賢治を題材にした作品もあるようです。新しい絵葉書セットも出来たそうですから、お楽しみに!

 

 

第18回 松井妙子染色画展

 

■期間 2013年5月15日(水)~21日(火)

 

■会場 静岡松坂屋本館6階美術画廊

 

 

 

 

 

 

 

 

 5月17日(金)夜には、静岡県朝鮮通信使研究会例会が予定されています。今回は、江戸時代中期に興津海岸に朝鮮船が漂着したときの知られざるエピソードを、北村欽哉先生が解説してくださいます。実は、漂流者に対するしっかりとしたノウハウがあったとか・・・。江戸時代の安全保障や外交のあり方を知る上で興味がそそられます。会員以外の方でもお気軽にご参加ください。

 

静岡県朝鮮通信使研究会例会 【興津宿朝鮮船漂流一件】

 

■日時 2013年5月17日(金) 19時~20時

 

■場所 アイセル21 4階42集会室 (アイセル1階の案内板では「静岡に文化の風をの会」名義になっています)。

 

■講師 北村欽哉氏(郷土史家・朝鮮通信使研究家)

 

 

 

 

 

 

 

 アイセルといえば、アイセル21静岡市女性会館の建設に尽力された、故・近藤美津江さんへの追悼記事が、現在発行中の会報誌「アイセル通信Wave 74号」に掲載されています。元しずおか女性の会会長の杉山佳代子さん、ゆとり研究所の野口智子さん、元葵区長の高野康代さんが追悼文を寄せておられます。近藤さんと、この世代の女性たちが、男女共同参画という社会テーマと必死に格闘し、今日を切り拓いてくださったのだ・・・としみじみ感じます。アイセルを利用する機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧くださいね。

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