杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

駿河白隠塾まち歩きツアー~かぐや姫のまちで白隠を学ぶ

2017-06-26 09:44:00 | 白隠禅師

 6月4日、駿河白隠塾開催のまち歩きツアーに参加しました。舞台は富士。「かぐや姫のまちで白隠を学ぶ」というのがツアータイトルです。かぐや姫と白隠さんってどんなつながりがあるんでしょう。

 最初に向かったのは富士山かぐや姫ミュージアム。今回のツアーのコーディネート役である木ノ内義昭館長が、館内を直接ご案内くださいました。1年前に富士市立博物館からリニューアルしてから初めての見学。イマドキの展示スタイルというんでしょうか、前回記事で紹介した岩手のもりおか歴史文化館もそうでしたが、テーマや時代ごとに“編集”され、ビジュアル効果も意識したスタイリッシュな見せ方に魅了されました。むかしの素朴な博物館に馴染んでいた身としては複雑な思いもありますが(苦笑)。

 

 富士山かぐや姫ミュージアムは富士山麓の暮らしの歴史や文化をさまざまなテーマで紹介しています。なかでも富士山南麓に残るかぐや姫伝承をクローズアップし、竹取物語が描かれ伝承されてきた経緯を丁寧に解説しています。

 ちょうどリニューアル1周年記念展『富士登山列伝~頂に挑むということ』が開催中(8月27日まで)で、馬に乗って富士山頂に舞い降りたという聖徳太子から、修験道の開祖・役行者、山頂に大日如来を祀った末代(富士上人)、富士講の先駆け長谷川角行、富士山に初めて登ったお殿様・本庄宗秀(宮津藩6代藩主)、初めて登った外国人ラザフォード・オールコック(初代駐日英国大使)、明治時代に夫婦で富士山頂での越冬気象観測に挑戦した野中至・千代子夫妻など、富士登山史に登場する開拓者たちのユニークな軌跡が展示されていました。富士山の世界遺産登録前、必死に取材調査して様々な媒体に執筆した内容がわかりやすく紹介されていて、最初からこういうのを見せてもらえたら楽な取材だったのに…と臍を噛む思いでしたが(笑)、夏休みに子どもたちと一緒に見るといいんじゃないかな。

 

 ツアー参加者の関心はやはり白隠さん関連の展示物。1階の展示室1「富士に生きる」の一角に、白隠禅師の墨蹟と、白隠画の最高傑作とされる富士大名行列図が実物の5倍尺でパネル展示されていました。駿河白隠塾長の芳澤勝弘先生も、この大きさで見るのは初めてだそうで、行列に描かれた人々の視線等をこと細かく解説してくださいました。白隠さんはこの5分の1サイズの紙に描いたのに、5倍に拡大しても遜色がない…というか、その意図がますます顕在化するという意味で、すごい画力の持ち主なんだと再認識させられました。

 

 パネルの向かい側には、白隠さんが生きた当時の吉原宿や間宿の本市場のにぎわいが再現されていました。私が以前、調べた富士の白酒もしっかり(こちらを参照)。・・・こうなると展示だけじゃなくて試飲もしたくなりますね!

 

 富士山かぐや姫ミュージアムは西富士バイパス広見インターから降りてすぐの広見公園の一角にあります。公園内は多目的広場、バラ園、芝生広場のほか、ふるさと村歴史ゾーンに「大淵の大家」と呼ばれた旧稲垣家住宅、明治の洋館・眺峰館など地元に残る歴史的建造物を移築保存しています。稲垣家住宅では以前、富士に残る天下一製法茶の実演を取材しに来たことがあり(こちらを参照)、文化財が市民に開放され、活用されている姿が羨ましく、こういう場所で地酒の会がやれたらいいなあと妄想しましたが、今回は白酒を飲みながら白隠禅画を語り合えたらいいなと妄想しました。

 

 お昼は田子ノ浦漁協食堂で生しらす丼を味わい、すぐ近くに新たに整備されたふじのくに田子ノ浦みなと公園を散策しました。山部赤人の句碑、富士山を模した展望台に加え、4月にオープンしたばかりのロシア軍艦ディアナ号が3分の1のスケールで復元され、内部が歴史学習館になっていました。

  ご存知ディアナ号は1854年に日露和親条約締結のため下田に停泊中、安政の大地震による津波で大破し、修理のために戸田村に向かっていた途中で強い西風に襲われ、宮島村(現富士市)沖で沈没。2つあった錨のうち、一つは昭和29年に引き上げられて沼津市造船郷土資料博物館に、もう一つは昭和51年に引き上げられ、田子の浦の三四軒屋緑道公園でプチャーチン像とともに展示されていました。これを新たに整備したもの。この日の富士山は雲に隠れていましたが、万葉から幕末までの人々の営みを、大いなる富士が包み込んで見守る、そんなスケール感を感じる清々しい公園でした。

 

 午後いちで訪れたのは滝川神社。周辺一帯は竹採塚をはじめとするかぐや姫伝説が色濃く残る地です。主祭神はコノハナサクヤヒメですが、かつてはかぐや姫の養父・竹取翁が「愛鷹権現」として祀られていたそうです。鷹を可愛がっていた人だったとか。

 ミュージアムでの解説によると、竹採塚一帯に残るかぐや姫伝説では、かぐや姫は富士山信仰と深いつながりがあり、天子様の求婚を振り切って月に帰ったのではなく、天子様とめでたく結ばれて富士山に登り、富士山の洞穴から続く神仙世界に入って浅間大菩薩になったとのこと。つまり富士山の女神はコノハナサクヤヒメではなく、かぐや姫なんだとか。・・・なんかそのほうがロマンチックですね!

 

 滝川神社に次いで訪れたのは、「滝川の観音堂」として知られる臨済宗藤沢山妙善寺。臨済宗になったのは江戸時代になってからで、もともとは富士宮の村山浅間神社の山伏・頼尊が建てた修験道の修行道場だったとか。室町時代には浄瑠璃や歌舞伎のモデルにもなっている小栗判官が愛馬鬼鹿毛と妻照手姫とともに隠れ住んだという伝説が残ります。

 観音堂には本尊十一面千手観音坐像(室町期作)をはじめ、たくさんの仏像が安置され、年に一度の例祭のときだけ御開帳されます。この中に木造の女神を象った白山妙理利権現があり、照手姫をモデルにしたのではと言われています。製作年代不明&かなり古いようで、白山妙理利権現がそもそも山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神として信仰されていた神様だけに、モデルは照手姫ではなく、かぐや姫ではないかという説も。

 木ノ内館長がご用意くださったレジメには「(妙善寺は)臨済宗に改宗以降は富士山信仰の道場としての色彩が薄れ、江戸時代に入り庶民の文化が隆盛するとともに、妙善寺が整えられていく中で布教活動の一環として、説教節小栗判官を援用し、この地域ならではの照手姫と鬼鹿毛伝承を再構築されたのではないか」とあります。説教節というのは中世末~近世にさかんに行われた“語りもの”。もともとは仏教の唱導師が唱える声明がベースになって成立した民衆芸能です。小栗の説教節では小栗と照手姫は藤沢の遊行寺の助けを受け、照手姫は晩年遊行寺内に草庵を結んで夫を慰霊したそうですから、妙善寺の藤沢山という山号にも何やら関連性がありそうです。

 

 観音堂の入口には、白隠さんが(もちろん江戸時代に)書いた『常念閣』という扁額が掲げられています。

  白隠さんは、かぐや姫生誕地とされる比奈の里にある古刹無量寺を、無量寿禅寺として再興しました。無量寿禅寺は残念なことに明治の廃仏毀釈で廃寺となり、最後の住職のご子孫岡田家が跡地を『竹採公園』として整備。園内で「竹採姫」と刻まれた卵型の石と、白隠禅師のお墓を大切に保存しています。ちなみに白隠さんのお墓はここと、住持を務めた原の松蔭寺、三島に修行道場として開いた龍澤寺の計3か所にあります。

 

 竹採公園のすぐ近くには白隠さんのスポンサーだった医師石井玄徳の墓所があり、白隠さんが書かれた墓碑銘が残っています。碑文には玄徳が無量寿禅寺の造営に尽力したことも記されていました。この日は子孫にあたる石井義昭さんが特設解説版を用意し、石井家に残る白隠書画を丁寧に解説してくださいました。芳澤先生がまとめられた白隠禅師年譜にも、石井玄徳の名前が再三登場し、白隠さんを資金面でバックアップしていたことがわかります。

 

 廃寺となった無量寿禅寺の器物の一部は、富士市神谷にある臨済宗少林山天澤寺に受け継がれました。天澤寺本堂前に置かれた六角灯篭型六地蔵は白隠さん自ら彫られたもので、本堂で今も使われる磬子(けいす)は無量寿禅寺のものだそうです。

 

「達磨を描いてほしい」とリクエストされ、富士大名行列図を描いた白隠さん。芳澤先生によると「“達磨”は、禅の祖・達磨大師を指すと同時に、Dharma(仏法)そのものを指し、白隠さんは聖なる仏法の世界の象徴として富士山を描き、俗世の象徴として大名行列を描いた」のですから、富士山の女神とされるかぐや姫のパワースポットに惹かれ、この地に足跡を残したのも無理ありません。

 木ノ内館長のレジメには「『真名本曽我物語』では浅間大菩薩の本地は大日如来ではなく、千手観音菩薩。千手観音菩薩は正式には千寿千眼観世音菩薩といい、千眼大菩薩=浅間大菩薩となった」とありました。かぐや姫そのものを描いた白隠禅画を、私は観たことがありませんが、白隠さんはたくさんの観音さま描いておられますから、比奈の人々はかぐや姫の写しとして信仰していたのかもしれませんね。

 

 天澤寺境内には白隠さん手彫りと伝わる版木の写しも設置してありました。この観音さまをかぐや姫と重ねて拝むのは・・・ちょっと無理があるかな(苦笑)。

 比奈という地名は、平安時代「姫名郷(ひめなのさと)」と呼ばれていたと和名類聚抄に書かれているそうです。・・・伝説が生まれた背景には、必然のリアルがあるはず。そう考えると興味は尽きません。

 

 

 

 

 


「健康」の二文字を初めて使った白隠禅師

2016-11-28 14:44:06 | 白隠禅師

 11月20日に広島県福山市の神勝寺で開催された『白隠フォーラム in 神勝寺』に行ってきました。芳澤勝弘先生の❝白隠講談❞を拝聴するのは久しぶり。今回の会場となった神勝寺(臨済宗建仁寺派)は地元の常石造船㈱オーナー神原秀夫氏が建仁寺の益州宗進禅師を勧請開山に、1965年に建立したという比較的新しいお寺ながら、白隠禅画を200点余を収集し、常設展示館もあり。西日本における白隠禅画の一大拠点として注目されるお寺だそうです。

 実はこのお寺、今年の夏にしずおか地酒研究会で催行した京都奈良酒造聖地巡礼の参加者で、福山のリゾートホテルで日本酒伝道に尽力されていたK氏から「福山の新しい観光資源」として聞いていたのです。福山といえば10年前に映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の制作で何度も通った思い出の地であり、完成したDVDを贈呈したとき、真っ先に称賛のメッセージをくださったのが福山の歴史博物館関係者でした。そんな何やら懐かしい思いと不思議な酒縁に導かれるように足が向いたのでした。

 

 広い境内は❝禅と庭のミュージアム❞と銘打たれ、豊かな自然の中に伽藍、表千家不審庵を忠実に再現した茶室&書院、国際修行道場、アートパビリオンなどが点在し、一日では回り切れない広さ。今回は紅葉色に染まった参道をフォーラム会場の本堂まで軽くお散歩しただけでしたが、日を改めて、茶禅の仲間とじっくり訪れたいと思いました。詳しくはお寺のHP(こちら)を参照してください。

 

 さて今回の白隠フォーラムは、健康科学大学の平尾真智子先生が大変ユニークな新説を発表されました。「健康」という二文字を、日本の文献上で初めて使ったのが白隠さんだった、というのです。我々が当たり前のように使うこの言葉が白隠さん発だったとは、ビックリ!と同時に、やっぱり!という思いがこみ上げてきました。

 そもそも「健康」という言葉、中国では19世紀まで「康健」と表記され、「健康」は和製熟語だったそう。しかし平尾先生が日本史の一次史料(原本)のデータベースで検索しても引っかからず、古語辞典にも仏教用語辞典にも出てこない。健康科学大学の先生としては「健康」の語源をなんとしてでも突き止めたいと思うのは当然だったことでしょう。そこで、健康に関する記述が多いとされる白隠禅師の仮名法語や著作を丹念に調査されたところ、『於仁安佐美(おにあざみ)』『隻手音声』『辺鄙以知吾(へびいちご)』『三教一致の弁』『夜船閑話』『毒爪牙』『仮名葎』『さし藻草』に登場しており、健康には「ケンカウ」「けんこう」のルビが付けられていたそうです。

 これら白隠さんの仮名法語(漢文ではなく仮名で書かれた平易な教え)には、「内観の秘法」「軟酥の法」など自律神経を整える呼吸法やイメージトレーニングに関する健康法が記されており、代表作『夜船閑話』は現代も読み継がれる一大ベストセラーです。書かれたのは1755年。かの良寛さんはじめ、国学者平田篤胤、剣術家白井亨、『病家須知』を著した町医者平野重誠なども『夜船閑話』を愛読したそうな。この頃から「健康」の二文字が普及し始めたようで、夜船閑話の大ヒットがこれを後押ししたんですね。

 白隠さんがなぜ仏教の教えに健康法を記したかと言えば、白隠さん自身が修行のし過ぎで鬱病を患い、克服した経験があり、禅を説くもの、仁政を担うものには健康長寿が何より大切だと考えていたから。84年の生涯で全国を1万2千㎞歩いたとされ、晩年の74歳から亡くなる84歳まで10年間には92か寺を回って布教に努めたそうです。もっとも芳澤先生曰く「晩年はかなりのメタボ体型でほとんど輿移動だった」そうですが(苦笑)、日本人に健康長寿を尊ぶ概念と実践法を植え付けたのが白隠さんであるならば、超高齢化社会を迎える今、我々が学ぶことは余りあるほど多い・・・!そんな感動が胸にこみ上げてきました。

 

 後半は芳澤先生が神勝寺がコレクションした白隠禅画の解説をしてくださいました。

 今回印象に残ったのは、白隠さんが鍾馗(しょうき)を描いた理由。端午の節句の人形でもおなじみ鍾馗さんは、唐の時代に実在した人物で、科挙試験に落第して絶望の末自殺。その霊魂が玄宗皇帝の夢に現れた悪鬼を退治して皇帝の病を治したことから、鍾馗像が魔除けとして普及したとか。このエピソードをモチーフにした謡曲『鍾馗』では、

 

 ありがたのおん事や、その君道を守らんの、その誓願のおん誓い、いかなるいわれなるらん。

 鍾馗及第のみぎんにて、われと亡ぜし悪心を、ひるがえす一念、発起菩提心なるべし。

 げにまことある誓いとて、国土をしづめ分きて、げに禁裏雲居の楼閣の、ここやかしこに遍満し、

 或いは玉殿廊下の下、みはしのもとまでも、もとまでも、剣をひそめて、忍び忍びに、

 求むれば案のごとく、鬼神は通力うせ、現われいづればたちまちに、づだづだに切り放して、

 天に輝き地にあまねく、治まる国土となること、治まる国土となることも、げにありがたき誓いかな。

 


と謳われた。

 白隠さんは、受験に失敗して世の中を恨んで自殺したであろう鍾馗が、怨念と執心を捨て、菩提心を起こして世の中を守っていこうとした誓願を禅画に込めたのです。鍾馗がどういう人物だったか、画賛の言葉が何を意味するのか、その背景を知らなければ、白隠さんが発したメッセージも正しく受け取れないんですね。禅画にはそのような深読みが必要なだけに、あらためて芳澤先生のような道案内役がほんとうに大事だと実感しました。

  「白隠展‐禅画に込めたメッセージ」2012年図録より『鍾馗』

 神勝寺のような新しい寺院ならば、白隠禅画を現代スケールで保存し展示普及させるアレンジが可能だと思います。白隠さんが生涯を送った沼津で現状それが出来ていないのが地元県民として残念でたまりませんが、今後、こういう拠点が全国各地に生まれ、21世紀にふさわしい禅の教えと健康長寿の情報発信が展開されることを期待します。私自身、白隠さんを見習って全国各地を歩いて白隠ゆかりの地をめぐり、いつかガイド本のようなものが書けたらな、と願っています。

 

 フォーラム終了後は懐かしの鞆の浦に宿を取り、ひとりブラ歩きを楽しみました。

 

 

 10年前に比べ、案内看板が増え、観光地化が進んだような気もしますが、町のスケールは江戸時代と同じ。朝鮮通信使に「日東第一形勝」と絶賛された対潮楼福禅寺で、通信使の扁額に見入っていたら、係の女性に「書道がお好きなんですか?」と訊かれ、「故郷のお寺にも通信使の扁額がたくさんあるので」と応えたら、「どこのお寺ですか?一度訪ねてみたいです」と。「静岡清水の清見寺」というと「静岡はねぇ、いつも素通りするばかりで駅から降りたことがないですわ」と苦笑いされてしまいました。

 家康が通信使を接待した大御所時代、静岡は日本の首都であり、白隠さんが活躍した時代、沼津は全国から禅僧が集結して町がパンクしそうになった・・・それもこれも歴史の彼方のほんの一時代の出来事で終わるんだろうかと、複雑な思いで帰路に着きました。

 

 白隠さんは平尾先生曰く「その著作は多方面にわたり、自筆の文書は50種を数える。漢文体の語録、古典の講義や著語からなる提唱録、漢文体の自叙伝、和文体の「仮名法語」、俗謡風の説教などがあり、他に書簡、墨蹟、禅画などもあり、超人的ともいえる著作活動を行っている」人。きっと、白隠さんの時代にブログがあったら、日々むちゃくちゃ更新してたんでしょう。

 とにもかくにも、書くことで人々の心を救おうとした白隠さんの行動は、自分のような時代違いの末端の物書きにも刺激を与えます。いま一度、言葉を伝える仕事に誠実であろうと感じさせてくれた旅でした。

 

 


2015年秋・白隠禅師展&地酒講座のご案内

2015-09-01 20:44:56 | 白隠禅師

 9月スタートの今日は、この秋、私が関わる諸々の行事お知らせを。

 

 まずは白隠さん関連から。直近で9月5日(土)にグランシップ連続講座【静岡×徳川時代】の第4回として、芳澤勝弘先生が「富士山と白隠」をテーマに講義されます。

 「駿河には過ぎたるものが二つあり・・・」と謳われる徳川時代の静岡の偉人、原の白隠禅師が残した大量の書画の中から、富士山にスポットをあて、そこに込められたメッセージを読み解きます。こちらを参照。

 ◇日時 9月5日(土) 14時~

 ◇会場 グランシップ9階910会議室

 ◇講師 芳澤勝弘氏(花園大学国際禅学研究所元教授)

 ◇費用 1000円 *直接会場で受付可

 

 

 沼津市主催の【白隠禅画墨蹟名品100展inぬまづ】と【駿河白隠塾第2回白隠塾フォーラム】は、9月のシルバーウィークに開催します。

 白隠禅師が遺した1万点とも言われる書画。その多くは目に触れる機会が限られています。今回の展示は、約100点にのぼる国内有数の規模。白隠塾フォーラムでは芳澤先生がいくつかの書画を詳しく解説。斬新で迫力に満ちた白隠書画の名品をより深く堪能することができます。私は9月24日(木)に会場当番で詰めております。連休明けの平日でたぶん静かだろうな・・・じっくり鑑賞できる穴場日です!

 ◇会期 9月18日(金)~27日(日) *会期中、一部入れ替えあり。

 ◇時間 10時~16時30分(入場は16時まで)

 ◇会場 プラザヴェルデギャラリー(キラメッセぬまづ2階)

 ◇料金 500円(高校生以下無料) 事前申込不要

【第2回白隠塾フォーラム】

 ◇日時 9月23日(水・祝) 13時~15時

 ◇会場 プラザヴェルデ3階コンベンションホールB

 ◇内容 第1部「白隠禅師の世界」 第2部「白隠禅画墨蹟名品100選展inぬまづ 展示作品解説」

 ◇講師 芳澤勝弘氏(駿河白隠塾塾長/花園大学国際禅学研究所元教授)

 ◇料金 一般2000円  駿河白隠塾会員は無料 

 ◇申込 要事前予約  駿河白隠塾事務局 TEL055-925-0512  

     hakuinjuku@hakuin.jp  (メールでは件名を「第2回白隠塾フォーラム申込」とし、住所・氏名・電話番号を明記)

 

 

 FBでは先行告知した朝日テレビカルチャーの新講座【地酒ライターとめぐる酒蔵探訪】。静岡スクール(新静岡セノバ5階)で10月から開講で、9月中に入会申込すると入会金(3240円)が無料になります。

 

 これまで有料カルチャーで講師の依頼があっても、私自身はカルチャー講師にふさわしい資格(利き酒師とか日本酒学講師など等)を持ち合わせていないため、知り合いの酒販店主を講師に紹介してきました。酒販店さんなら試飲酒の手配ができるし、講師にも受講者にも互いにメリットがありますしね。今回は、5月の志太平野美酒物語2015の会場で偶然再会した中学高校の同級生A子ちゃんが、現在朝日カルチャーに勤めており、「静岡スクールには日本酒講座がないから、ぜひやって!」と本人リクエスト。しずおか地酒研究会でやっているような内容でよければ、と受けることになりました。

 地酒研でやっていることといえば、現場をみて、現場の人の声を聴くこと。集団での酒蔵見学となると、場所は限られるかなと思いましたが、「私が行きたいのはここ!」とA子ちゃんが挙げた3蔵にダメもとでアタックしたら幸運にもOKをいただけました。酒の専門家ではない、単なる取材記者の私では講師としていたらない点は、訪問先の蔵元や杜氏のみなさんが助けてくださると信じています。というか、消費者のみなさんを現場の造り手につなぐのが私の役割だなと。

 年末はさすがにどこもテンテコマイだと思ったので、地酒研で困ったときにいつも頼ってしまう後藤英和さん(ときわストア店主)に甘酒づくり指導をお願いしました。初回と2回目はセノバの教室で「吟醸王国しずおかパイロット版」を観てもらってざっくり解説&テイスティングを楽しんでいただこうと考えています。地酒に興味のある方、仕込み最盛期の酒蔵をのぞいてみたい!という方は、ぜひぜひ受講生になってくださいね。詳しくはこちらを!

 


白隠さんの折床會と朝鮮通信使扁額

2015-08-02 17:27:13 | 白隠禅師

 国際白隠フォーラムの余韻に浸る間、7月26~27日と京都へ坐禅に行き、30日には静岡県朝鮮通信使研究会に参加するなど、この夏は改めて歴史や禅の勉強で汗しています。何度も思うことですが、こういった向学精神をどうして10代20代の頃に持てなかったかなあと反省しきり。疲れ眼で長時間本が読めず、記憶力も衰えはじめ、最近ではパソコンで長文入力すると右腕がツルようになってきた(苦笑)。体力があって脳が柔らかい若い時期に、生涯取り組める勉強を始められたって人が途方もなく羨ましく思えます。

 

 それはさておき、30日の静岡県朝鮮通信使研究会は、北村欽哉先生が、静岡市内の寺に遺された朝鮮通信使の揮毫書が扁額(看板)になった年月の意味を読み解き、白隠さんの“暗躍ぶり”を示唆する絶妙のテーマでした。

 4年前の研究会で、北村先生は小島藩惣百姓一揆と白隠禅師と朝鮮通信使の関係性について試論をお話になりました。詳細はこちらこちらにまとめてありますが、かいつまんで紹介すると、小島藩というのは駿河国3郡(有渡・庵原・安倍)―今の清水区興津から駿河区下島あたりまでを治めていた小藩で、財政難に苦しんでいて、白隠さんが殿様に「民百姓を労われ、贅沢を戒めろ」とキツイ忠言(夜船閑話に書かれた手紙)をした。藩政改革に取り組むもうまくいかず、ますます年貢増徴となって、堪忍袋の緒が切れたお百姓さんたちは、殿様の親戚筋にあたる亀山藩主松平紀伊守のもとへ駆け込み訴訟を起こし、年貢を元に戻した。このときの訴状を書くのに白隠さんが「“朝鮮通信使の通行に協力しないぞ”と脅してみろ」とアドバイスしたというのが北村説。今ならさしずめ、新国立競技場の建設現場で「無駄遣いをやめないとボイコットするぞと脅してみろ」と言うようなものでしょうか(笑)? 

 ちなみに白隠学の芳澤先生がよくおっしゃるには「百姓」とは、古い大和言葉では“はくせい”と読み、天皇が慈しむべき天下の宝である万民という意味。民が身に着けた100通りの生業、という意味もあり、本来、差別用語ではないとのことです。

 

 北村先生が小島藩惣百姓一揆と白隠さんの関わりを、時間軸でまとめてくださいました。

 

1755年 白隠、龍津寺(りょうしんじ=興津の小島陣屋南)維摩会に呼ばれる。小島藩主松平昌信が聴法し感銘を受ける。このとき、蔵珠寺、養田寺も訪問。藩主に夜船閑話を呈上。

 

1759年 小島藩で新役人が登用されたが、白隠が「追従の佞臣」と批判した無能役人ばかりで、重税政策に拍車が掛かる。

 

1760年 徳川家治が10代将軍になる。

 

1762年4月 一揆の訴状が駿河西島村の光増寺で作成される。同時期、白隠が光増寺にいた。*沼津・大聖寺所蔵の白隠筆『竜杖』の賛「宝暦壬午夏佛誕生日駿府城南西嶋 光増寺従義杲上座」による。

 

1764年9月 第11回朝鮮通信使が駿河を通過。

 

1765年 小島藩で役員が罷免。徴税方法も元に戻され、百姓側が勝利。

 

1767年 白隠83歳、光増寺に招かれ法会を行なう。「中寶山折床會拙語」を記す。翌年、亡くなる。 

 

 

 白隠さんが生きておられた間、朝鮮通信使は1711年、1719年、1748年、1764年と、計4回も東海道原宿を通っています。国際白隠フォーラムでもふれたように、大衆芸能に精通しておられた白隠さんのこと、朝鮮通信使にも興味シンシンで、朝鮮の馬上才(馬乗り曲芸)を数点描いています(私が白隠さんに関心を持ったのは、この馬上才の画を酒のラベルにした白隠正宗がきっかけ。昔は大吟醸、今は純米代吟醸に使っています。)。

 

 

 その白隠さんが、1764年明和宝暦の第11回朝鮮通信使が通過し、その翌年に小島藩で無能役人が追放されて年貢取立てが元通りになった後、光増寺の涅槃会に招かれた。御齢83歳。沼津から静岡まで歩かれたのか駕籠に乗られたのかはわかりませんが、とにかく肉体的負担は大きかったはず(かなりのメタボ体型だったよう)。それだけに、ただの涅槃会ではなかったのでは、と北村先生は推察します。

 光増寺に残る「中寶山折床會拙語」には次のようなことが書かれています。中寶山とは光増寺の山号です。

 

  明和第四丁亥春 應請駿陽西嶋邑 光増梵刹之純信 依遠近緇素懇望

  講妙大師語録 開筵仲春涅槃日 聴聞男女如蟻聚 就中三月第五日

  彌満方丈立庭上 堂上内外俄騒動 何計蹈折上段床 昔伝明住東寺時

  多衆鬧熱床脚折 貴賎喜言折床會 誰計今五百年後 聴徒多見此盛事

  昔有金口所説法 施撤充三界樂具 似施與世間一切 一句法施徳遥勝

  豈謂寶山譫語中 有斯希代大盛事 汝等誓不顧軀命 須見性如見掌上

  見性莫得小為足 偏捜索内典外典 集大法財達故実 広行法施利群生

  法四抑言故為事 言救三途地獄苦 若無三途地獄苦 仏像祖像将何用

  西国四国誰進歩 現世如何暮夢内 勤勉須助未来世 若人欲免未来苦

  只無越聞隻手聲 直是向上玄関鎖 

  明和第四丁亥上巳日 十七世遠孫沙羅樹下八十三歳 老衲白隠叟書

 

 明和4年の春、駿河西島村の光増寺と近在の僧侶や在家の人々から強く望まれ、白隠さんは妙超大師の語録を講義されました。開催中の2月25日は男女が蟻が群がるように集まり、3月5日には本堂が満員となり、入れない人は庭で立ち聞きしていた。そのとき、本堂の中と外が俄かに騒がしくなる。なんと、本堂の床が抜けてしまったのです。当代随一の高僧で、庶民の味方で人気者の白隠さんといえども、法会中に寺の本堂の床が抜けるなんて滅多にないことでしょう。白隠さんは「昔、中国の伝明大師が東寺に居られた頃、多くの民衆が押しかけて床を支える柱が折れてしまったことがある。しかし皆はそのことを喜び「折床会」と呼んだそうだ」と書いておられます。

 白隠さんが「500年来の折床会」と喜んだ、この明和4年の光増寺涅槃会は、弟子の東嶺がまとめた「白隠禅師年賦」にはなぜか書かれていないそうです。「百姓一揆に関する事だから避けたのでは?」と北村先生。この涅槃会はただの涅槃会ではなく、一揆に勝利した民衆が白隠さんへのお礼の意味で招聘し、白隠さんもそれに応えようと老体に鞭打って来られたのではないかと。さしずめ、民意を貫き通した市民革命の祝勝会?

 

 ところで光増寺の山号「中寶山」の扁額は、1711年にやってきた第8回朝鮮通信使の写字官・李爾芳(花菴)に書いてもらった文字。扁額といったら横長長方形のすっきりした板に書くことが多いのに、光増寺の山号はゴツゴツとした板木に彫られています。白隠さんが1768年亡くなる直前に訪ねたとされる由比の常円寺には、1748年第10回朝鮮通信使写字官・玄文亀(東厳)に書いてもらった山号「法城山」が。こちらもゴツゴツの板木です。

 実は朝鮮通信使扁額の宝庫・清水の清見寺にも、1枚だけ、ゴツゴツした板木に彫られた戌辰(1748年)使行三使詩板というのがあります。1764年の第11回朝鮮通信使使行録(随行員日記)に「戌辰年の三使が、丙午年(1636年)の三使の詩の韻をふまえて作ったもの」と報告されています。ちょっとややこしいですが、とにかくこのゴツゴツ詩板が作られたのは白隠さん存命時のこと。北村先生は、光増寺、常円寺と合わせた3つのゴツゴツ扁額は、いかにも白隠さんらしい個性的なデザインで、朝鮮通信使に強い関心を持っていた白隠さんが各寺に扁額を作るよう助言したのではないかと推察されます。先生は実証をつかむべく調査継続中。・・・白隠研究にも朝鮮通信使研究にも光をもたらす一石二鳥の成果に期待が膨らみます。

 写真は北村先生のレジメより。モノクロコピーで見辛いかもしれませんが、上から常円寺の山号「法城山」、光増寺の山号「中寶山」、清見寺の戌辰使行三使詩板です。

 

 

 私は7月27日、京都の花園大学国際禅学研究所を訪問し、その足で相国寺承天閣美術館を回り、相国寺塔頭である慈照院(銀閣)の朝鮮通信使関連資料が京都市文化財指定を受けたことを知りました。朝鮮通信使には京都五山の高僧が外交接待役として江戸まで随行しており、今回指定を受けたのは第8回(1711)通信使に随行した相国寺第103世・慈照院第9世の別宗祖縁(べっしゅうそえん)禅師関連のもの。道中、信使たちと詩文や書画を交換し合う等、当代一の教養人同士の文化交流が行なわれたんですね。清水の清見寺に残る扁額の数々も、その一端。こういうものに文化財としての光をあて、現在は平成29年ユネスコ世界記憶遺産の登録を目指しています。

 一方、白隠さんは東海道とその周辺で生活に苦しむ庶民を救おうと、村々を歩き、藩主に忠言し、朝鮮通信使の通行を社会改革に生かそうとされた。こんな宗教家が他にいただろうかと、改めて眼からウロコの連続です。白隠さんの年表からも外された「中寶山折床會拙語」などは、ユネスコの世界遺産とは縁がないかもしれないけれど、駿河3郡の市井の人々にとって確かな記憶遺産になった・・・駿河3郡の市井の子孫である自分はそう信じたい、と思います。

 

 相国寺を後にした私は、平成28年に臨済禅師没後1150年、平成29年白隠禅師没後250年の節目を前に「百萬人写経運動」を展開中の妙心寺に向かい、白隠禅師坐禅和讃を写経しました。そして夜は、朝鮮通信使が縁で8年前から通う興聖寺の坐禅会。京都でも静岡でも、偉大すぎる白隠さんの影を一人で追いかけるのは辛い修行のように思えますが、本をかじったり講演を聴くだけでは申し訳ない、じっとしていられない・・・この夏は時間があればお寺のアルバイトで汗を流し、「don't think, look」「動中工夫勝静中」に努める毎日。そんな気持ちになるのも、やはり、白隠さんご自身がつねに行動し、実践を積み重ねてきた方だからでしょうか。

 大本山妙心寺の百萬人写経は、事前予約不要で、誰でも参加OK。「般若心経」「延命十句観音経」「白隠禅師坐禅和讃」「四弘誓願」の中から選べます。一経につき1000円。京都に行かれる方はお時間があったらぜひ。ただし、写経道場の大方丈西の間は冷房設備がありませんので、この時期、タオルや手拭い必携です。写経セットを1000円で購入し、自宅で書いて後で郵送、でもOKみたいですよ。


国際白隠フォーラム2015(その4)パネルディスカッション「NO HAKUIN,NO LIFE-私と白隠」

2015-07-31 14:20:56 | 白隠禅師

 7月19日開催の国際白隠フォーラム2015、パネルディスカッション『NO HAKUIN, NO LIFE -私と白隠』のレポートです。

 パネリストは公開講座で演壇に立たれたハンス・トムセン氏(デンマーク/チューリッヒ大学教授)、竹下ルッジェリ・アンナ氏(イタリア/京都外国語大学准教授)、ブルース・R・ベイリー氏(アメリカ/日本ロレックス㈱代表取締役社長)、李建華氏(中国/翻訳家・日本文化研究家)、そしてコーディネーターに芳澤勝弘氏(花園大学国際禅学研究所元教授)。国際フォーラムと銘打つにふさわしいグローバルな講師陣です。

 

 4月ごろ、このフォーラムの企画を聞いたとき、県の担当者から「パネルディスカッションに何かインパクトのあるテーマコピーを」と相談を受け、ディスカッションのテーマを芳澤先生にうかがったところ、「パネリスト個人個人が魅力的で素晴らしいから、とくにテーマを設けず、彼らに白隠との出会いや思いを自由に語ってもらうつもりだ」とのこと。県の行事だからあまりくだけたコピーでも・・・と真面目な案をいくつか出して、ひとつだけ、私も自由にさせてもらおうと最後に付け加えたのが「NO HAKUIN, NO LIFE」でした。それが採用されるとは思いもよりませんでしたが、実際のパネルディスカッションは先生のおっしゃるとおり、パネリストお一人お一人のキャラが立ち、限られた時間なのに実に的確に、ご自身と白隠との関係性を深く掘り下げて語ってくださって、期待以上の面白さ。随所で拍手喝采が湧き起こり、私がお誘いした染色画家の先生やお茶の師匠も「こんなに内容の充実した講演会は久しぶり、来た甲斐があった」と大変喜んでくださいました。

 手持ちのICレコーダーで録音に挑戦したのですが、会場が広すぎて音をほとんど拾えなかったため、走り書きメモをもとに各先生方のご発言のポイントを多少リライトし、紹介させていただきます。正確さに欠ける部分もあろうかと思います。聴講されていた方でお気づきの点がありましたら遠慮なくご指摘ください。

 

 

(トムセン氏)私はデンマーク人ですが、生まれは京都で、宣教師の父が袋井にデンマーク牧場を作った関係で、幼い頃は静岡で過ごしました。父は宗教の研究もしており、その関係で三島の龍澤寺の中川宋淵老師や沼津出身の古美術商田中大三郎さんとも知己を得ました。若い頃は東京南青山の田中さんの店で丁稚奉公もしていたんです。その頃、白隠禅師と出会い、店に来るお客さんに田中さんが解説されているのをそばで聞いて、いろいろ勉強させてもらい、白隠の作品が出品される展覧会があれば必ず出向きました。

 私は仏教徒ではありませんが、白隠からは精神的な影響を受けていると思います。学者として見ても面白い対象で、ものすごいインスピレーションがあり、スケール感もある。書も画もどちらもすばらしいですね。好きな作品はたくさんありますが、一つ上げるとしたら、直径13センチほどの小さな小さな観音像です。

 

 

(芳澤氏)小さな観音像は、大店の女将さんが自室の仏壇にかけていたものではないかと思いますね。

 

 

(竹下氏)若い頃から東洋思想に興味を持ち、13歳くらいのころから空手道場に通い、ヴェネチアの大学で日本語を勉強しました。専攻を選ぶときにはごく自然に日本の宗教や哲学を選択し、有名な鈴木大拙の本を読んで白隠禅師のことを知りました。21歳ぐらいのころですね。白隠の公案は論理的にはまったく考えられないけど衝撃を受け、白隠の勉強をするには日本に行くしかないと、縁のあった花園大学に入学し、次いで大阪府立大学大学院で白隠の公案体系を研究しました。

 大阪の古本屋さんで床に積んであった本の一番上にあったのが遠羅天釜(おらてがま=代表的な白隠法語集)だった。偶然出合ったこの本を研究テーマに選んで、「白隠はこういうことを言おうとしていたのではないか・・・」とアタマが一杯になっていたら、ある先生から「あんたは白隠じゃない」と怒られました(笑)。今は、研究というよりもとにかく翻訳が大事だと考え、遠羅天釜のイタリア語翻訳に取り組んでいます。

 遠羅天釜には子どもの頃の母親とのエピソードが書かれています。3年前に渋谷Bunkamuraで芳澤先生と一緒に白隠展を企画された東京芸大の山下裕二先生は、白隠が描く観音像はお母さんをモデルにしているのではないかと指摘されています。つまり白隠はマザコンじゃないかと(笑)。しかし母性は女性だけが持っているものではありません。観音菩薩はインドでは男性的な象徴として描かれ、中国に入ってきてから女性的に変化しています。面白いことに、白隠さんが晩年、83歳ぐらいのときに描いた観音菩薩は、お顔にシワがよっているんですね。

 

 

(ベイリー氏)大学の先生とはうってかわって商人代表で述べさせていただきます(笑)。何を隠そう、白隠さん、ダイスキです。宗教家ではあっても宗教のカベを超えた偉大な人。夜空の星のように時代が変わっても場所が変わってもずっと輝き続けているような方です。

 初めて名前を知ったのは、日本に留学し、円覚寺の坐禅会に参加したときでした。その後、東京上野の博物館で開かれた展覧会で初めて墨蹟を観て、その展覧会のほかの展示作品はアタマからすっ飛んで、身震いするほど感動した。それが白隠さんの書「本来無一物」でした。

 私には、大学の頃から尊敬している哲学者がいます。欧米では20世紀最大の哲学者といわれるルードウィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)。白隠さんと共通点が多いのです。後半生、人を救う、助けるということを人生の目的にされた。言葉やコミュニケーションを工夫した。2人とも活動的で実践的なアプローチをしています。白隠さんは街に出て理屈やセオリーを置いて、足で稼いで布教した。一人ひとりを大切に大切にし、相手に合わせて教えやアドバイスを行ないました。ヴィトゲンシュタインも日常会話やコミュニケーションを徹底的に探求した人です。

 あなたの哲学の目的は何かと問われ、彼は「ガラスの瓶に誤って飛び込んだハエに、脱出する出口を示してやること」と答えました。何か問題が生じるときというのは、言葉の罠に陥っているのだと説いた。哲学はその間違いをほぐすことだと。面白いのは、ハエの出口を「示す」。説明ではなく、ただ「示す」のです。白隠さんもまさに絵で「示し」た。隻手の音声などは、言葉のナンセンスを示した素晴らしい公案です。そういえば最近テレビを観ていると、よく「丁寧に説明いたします」と言ってますけど、そのわりにはよく分かりません(笑)。

 白隠禅師坐禅和讃の後半に「四智圓明」という言葉が出てきます。松蔭寺の前住職だった中島玄奘さんがとてもお好きで、坐禅をする者すべてが目指す境地であるとおっしゃっていました。鑑のような眼をして物事を判断せよということ。英語でいえば「don't think, look」―考え出したらわからなくなるから、よく見なさい、人の心をよく見なさいと言うことです。

 

 

(芳澤氏)一人ひとりに合わせて、というお話がありましたが、実は白隠さんの画は誰に描いてあげたのかがわからない。浮世絵は不特定多数のために描かれたものですが、白隠禅師の絵はたった一人のために描かれたものです。ですから一番最初に誰に向けて描いたのかはとても大事です。相手が修行者か、お侍か、政治家か、商人か、町人か、それは今後の研究課題でしょう。 

 

(李氏)私は華北の出身で1972年に北京大学に入った4ヵ月後に中日国交回復しました。その後、広島大学等で学んだ後、中日友好協会の仕事をするようになり、1980年、臨黄友好交流協会第一次訪中団で山田無文老師が来られた際、芳澤先生ともお会いしました。以来、35年のつきあいで、花園大学禅文化研究所でもお世話になりました。その後、北京に戻って日本文学の翻訳を手掛ける会社を作りました。私自身は白隠研究家ではありませんが、翻訳という仕事を通して私なりの白隠感を持っています。

 白隠とは広島大学在学時に出合いました。中国ではほとんど知られていない存在でしたが、「駿河には過ぎたるものが2つあり、富士のお山と原の白隠」を中国語に翻訳し、富士山と並ぶ存在であるということを中国の人々に紹介しました。また花園大学禅文化研究所の事業として白隠禅師自筆刻本集成を揚州で制作しました。揚州は鑑真和上の生まれ故郷で知られています。揚州には木版印刷を手掛ける広陵古籍刻印社という印刷会社がありますが、木版の受注が減り、刻字の技能者がオフセット印刷に回されていた状況でした。この事業のおかげで木版彫刻の大御所陳義時さんにも存分にお力を発揮していただきました。

 芳澤先生の著書「白隠禅画の世界」も中国語で2011年に出版させていただきました。ちょうど白隠の新しい図録の中国語版が仕上がったところです。翻訳活動を通じて中国人に日本のすばらしい作家や文学を理解していただく、それが相互理解に何よりつながると信じています。古典の翻訳にあたっては漢詩や散文の形式のカベがありますが、形にこだわらず、意味をしっかりとらえようと心がけています。現在30冊ほど日本の人気作家の翻訳本を出しており、中国人が書いた物も日本語にして積極的に出していきたいと思います。

 

 

(芳澤氏)李さんは今、東京の中国大使館にいらっしゃる程永華大使と同級生で、李さんも政治の世界に居続けておられたら中国大使になっておられたかもしれない、そういう方です。

 今日、会場にいらっしゃる沼津の方は白隠さんとの出会いを子どもの頃からふつうにお持ちです。小学校や中学校の校歌に白隠さんの名前が入っているそうですね。公立の小中学校の校歌に宗教家の名前が入っているなんて例は知りません。一方、今日のパネリストの皆さん方は白隠さんと劇的な出会いをされています。つまり、白隠さんから何かを感じとる、そういう眼をもっておられた。先ほどベイリーさんがご紹介になった哲学者ヴィトゲンシュタインの「考えるな、みろ」、白隠禅師の「見性成仏」。見るとは中国語で「現る」とも表現します。向こうから現れてくる、ということもあるようです。

 私がつねづね思うのは、白隠さんのことを知っているつもり、というのは知らないということなんです。つねに新しい眼で、枠にとらわれないで見て知ることが大事ですね。白隠は臨済宗中興の祖といわれますが、私はもっと巨大な存在だと思います。時間と空間を超えている。300年前の人なのに、今の私たちにも伝わり、問いかけてくるものがある。空間も超えていますね。原、沼津、日本のみならず、世界に大きく存在感を示している。そんな白隠さんを小さく閉じ込めてはいけないというのが私の考えです。このようなとんでもない方が東海道の原に生まれ、300年経って世界とつながるような精神を遺された。私たちはその意味を考え、次の世代の人たちが誇りに思い、大人になっても校歌を堂々と歌えるようでありたい。そう思っています。