杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

国際白隠フォーラム2015(その3)基調講演「白隠と大衆芸能」

2015-07-30 17:10:02 | 白隠禅師

 国際白隠フォーラム2015のレポート第3弾です。7月19日13時15分から始まったプラザ・ヴェルデ開館1周年記念行事では、オープニングパフォーマンスで小田原外郎売の口上研究会の皆さんが『見性成仏丸方書・売の口上』を披露されました。

 小田原の外郎(ういろう)売りの口上・・・私は初めて拝見しましたが、歌舞伎ツウの方ならご存知のようですね。外郎売りは二代目市川團十郎が享保3年(1718)に初演した市川家歌舞伎十八番。親の敵を討つため曽我兄弟の弟・五郎が外郎売りに変装し、侵入先で「武具馬具ぶくばぐ三ぶくばぐ・・・」と早口言葉の口上を述べる。二代目團十郎が初演した1718年、白隠さんはちょうど33歳で、どうやらこの芝居をライブでご覧になっていたそうで、すっかり気に入り、禅の教えを薬売りの口上にアレンジして書いたのが「見性成仏丸方書・売の口上」でした。一部ご紹介すると、

 

 私ことは、小田原勇助と申しまして、生まれぬ先の親の代から、薬屋でござります。(略)私売り広めますところの薬は、見性成仏丸(けんしょうじょうぶつがん)と申しまして、直指人心(じきしにんじん)入りでござります。この薬をお用いなされますれば、四苦八苦の苦しみを凌ぎ、三界浮沈の苦しみも、六道輪廻の悲しみも、即座に安楽になりまする。(略)この薬の製法と申さば、先ず趙州の柏の木を宝剣斧で切り、六祖の臼ではたき、馬祖の西江水を汲み取り、大灯の八角盤で練り立て、白隠が隻手にのせ、倶胝の一指で丸め、玄沙の白紙に包みまして、その上書を、禅宗臨済郡花園屋見性成仏丸と記します。

 

 「直指人心 見性成仏」は白隠さんが達磨画の賛によくお書きになる言葉。心の根本をスパッと指し示し、「誰もが持っている仏性に目覚めなさい」という禅の大切な教えですね。これを、ガマの油売りの口上みたいに抑揚をつけ、身振り手振りを添えて聞かせるとは、確かに、お坊さんの説教よりも楽しいかも!(笑)

 ちなみに、素人なりに調べてみたんですが、「趙州の柏の木」とは、無門関第三十七則に出てくる庭前柏樹という公案(禅問答)。趙州という中国の禅僧が小僧に「達磨さんは何のためにインドから来たのですか」と質問され、「前の庭に植えてある柏の木さ」と答えたとか。「六祖の臼」の「六祖」とは、達磨から数えて6代目の禅宗の祖・慧能(えのう)のこと。見性成仏を説いた方ですね。「馬祖の西江水」とは茶席の禅語で知られる「一口吸尽西江水(いっくにきゅうじんす さいこうのみず)」のことでしょう。馬祖禅師が「悟りとは大河(揚子江)の水を一口で飲み尽すようなもの。生半可な状態で停まらず、あますことなく一切を吸収し、無となれ」と説いたもので、千利休が師の古渓和尚から教えられ、大悟したと伝わります

 「大灯の八角盤」は碧眼録に出てくる大燈国師のエピソードで、非禅宗派の守旧派僧たちと議論した際、大燈が「禅とは八角の磨盤、空裏に走る」と答えた。八角の磨盤とは八頭の牛馬に引かせる石臼or八角の空飛ぶ古代武器とも言われ、どんな堅いものでも粉砕するもの。これで守旧派を論破したそうです。「白隠の隻手」は白隠さんの有名な公案「両手でポンと打つと音が鳴る、では片手ではどんな音が鳴る?」ですね。「倶胝の一指」は唐の時代、何を尋ねられても指一本立てるだけの倶胝という禅僧がいて、あるとき指一本立てる真似をしていた小僧の指を切り落としてしまったという痛いお話。「玄沙の白紙」は唐の禅僧玄沙師備が兄弟子の雪峰に白紙の手紙を送り、受け取った雪峰は「君子千里同風」と答えた。「遠くはなれていても仏法はただ一つ。心は通ず」という意味だそうです。

 
 

 続いて芳澤勝弘先生の基調講演『白隠と大衆芸能』。今回は「鳥刺し図」「傀儡師(くぐつし)=人形遣い」「宵恵比寿」「布袋春駒」といった一見、戯画か漫画のようなユーモラスな白隠禅画を紹介してくださいました。実は7月11日に名古屋徳源寺で開かれた『中外日報宗教文化講座・禅の風にきく』で芳澤先生が「鳥刺し図」を解説してくださり、続けて拝聴したおかげで素人なりにも理解が深まったので、ここでは「鳥刺し図」について取り上げたいと思います。

 

 鳥を捕獲する「鳥刺し」。黐竿(もちざお=モチの木の樹皮から取った粘着材を塗った竿)で野鳥を刺して(ひっかけて)捕まえる人のことで、江戸時代には、鷹匠に仕え、鷹の餌となる小鳥を捕まえていたそうです。刺した鳥は食用または観賞用にも利用され、メジロやウグイスなど声や姿が美しい小鳥は多くの愛好家が競い合って入手しました。もちろん現在の日本では鳥獣保護法で野鳥の無断捕獲は禁止されています。

 

 白隠さんが描いた「鳥刺し」はこれ。講演レジメのモノクロコピーを引用させていただいたので、見辛いと思いますが、鳥刺しの男が長~い黐竿で狙っているのは、なぜか鳥ではなく草鞋の片方。右上には「子ども、だまれ なんでもはいてくりよと思ふて」、左端には「ばかやい そりや鳥ではない、わらんじだはやい」と掛け合いトークみたいな賛が書かれています。

 

 トークを現代ふうに再現すると、左から先に「ばっかだなあ、そいつぁ鳥じゃないよ、草鞋じゃないか~」。これを受けて右が「小僧だまれ、オレは何が何でもこの草鞋を履いてやろうと狙ってるんだ」。右の台詞はこの画に描かれた鳥刺しの男。左の台詞は画には描かれていないけど、悪気がなく思ったまんまのことを言った子どもでしょう。白隠さんはなぜ台詞の主の子どもを描かなかったのでしょうか。

 芳澤先生の解釈によると、子どもをあえて描かなかったとしたら、この台詞は二次元の画を三次元で観ている我々の台詞、ということになり、白隠さんは「おまえたち、この画を見て鳥じゃなくて草鞋を狙っている鳥刺しを滑稽だと思ってるだろう?」と問いかけて、さらに、主人公の鳥刺しに「何が何でも草鞋を履こうと狙っている」と言わせた。片方の草鞋というのは、禅学をかじった人ならピンと来ると思いますが〈隻履西帰〉を意味します。

 禅の始祖・達磨が中国(当時は魏国)で亡くなって3年後、北魏の宋雲が西域から帰る途中、死んだはずの達磨が自分の草履の片方を手にして西の方に帰るのに出会ったという。その話を聞いた魏の明帝が、あらためて達磨の墓を調べさせたところ、そこには草履が片方しか残っていなかったという故事です。片方の草履とは達磨を象徴するアイコンで、それを何が何でも履きたいという鳥刺し男は、白隠さんご自身かもしれないし、そのような思いで直指人心見性成仏に努めなさいという白隠さんのメッセージかもしれない。隻履西帰の情景をそのまんま描くのではなく、江戸時代の衆生に親しみやすいモチーフで多少のヒネリを加えて描いた。当時の大衆芸能や風俗をよく観察しておられた白隠さんならではの作品ですね。

 この鳥刺し画、現在、確認されているだけで5枚あるそうです。もちろん、浮世絵みたいに量版したわけではなく、白隠さんが送る相手一人ひとりに手描きしたもの。白隠画はそのほとんどが、相手に合わせ、オーダーメイドで描いたものですから、一体誰に宛てて描いたのか、興味をそそられますが、多くは持ち主が次々と入れ替わってしまって、白隠さんが最初に誰のために描いたのかわからないそうです。

 

 先生の講演では、途中で伊東市宇佐美の阿原田神楽保存会が演じる『鳥刺し踊り』が披露されました。写真は翌20日に開かれた第19回静岡県民俗芸能フェスティバルで全幕上演された鳥刺し踊りの一部分。鳥刺し奴(やっこ)に身をやつした曽我兄弟の弟・五郎が村人と戯言を交わす場面と、兄に仇討ちの本意を疑われ、斬られそうになるシーンです。ここでも曽我兄弟の仇討ちがモチーフになっていたとはビックリ。曽我兄弟が相模~伊豆一帯でいかにメジャーな存在だったかがわかりますね。

 

  

 

 白隠さんの「鳥刺し図」。たった1枚の禅画から、実に奥深い禅の教えや豊穣な地域文化が伝わってきて、この画1枚で、何本もの映画やドラマや舞台芸能が産み出せそうです。最初に描いてもらったの、誰だろう・・・。ホント、興味が尽きません。


国際白隠フォーラム2015(その2)公開講座「白隠禅師の女性弟子」

2015-07-28 17:22:14 | 白隠禅師

 7月19日国際白隠フォーラム2015の公開講座、お2人目の講師は京都外語大学准教授の竹下ルッジェリ・アンナ氏です。1971年イタリア・シチリア州パレルモ市生まれで、身近にいた日本人の友人を通じて日本文化に興味を持ち、ヴェネツィア大学日本語学科で宗教哲学を学び、花園大学や大阪府立大学大学院を修了された方。鈴木大拙の影響から白隠禅師の研究を続けておられます。女性研究者らしく、講演のテーマは「白隠禅師の女性弟子」。白隠禅を研究しているイタリア人女性、しかも空手の名手だそう。興味をそそられると思いますが、残念ながら講演会は写真撮影NG。アンナ先生の見た感じを説明するのは難しいけど、健康的なイタリア人女性そのもの、って感じかな(笑)。

 

 初心者の私にとっては、まず大きかったのが「白隠さんに女性の弟子がいた!」というインパクト。仏僧と女性のかかわりと聞けば、思い起こすのは一休さんと森女、良寛さんと貞心尼あたり。小説なんかでは老いらくの恋という描かれ方をされているので、最初、白隠さんにもそういう女性がいたのか・・・なんて妄想しちゃいましたが、一休や良寛のように風流に生きた人と違い、生まれ育ったジモトで大勢のお弟子さんを抱えていた白隠さんですから、醜聞沙汰になるような関係とは考えにくい。

 実は醜聞がなかったわけではありません。原の町家の嫁入り前の娘が妊娠してしまって苦し紛れに「相手は白隠さん」と白状し、親はカンカン。でも白隠さんは一切反論せず。後で娘がウソを付いていたと認め、親が白隠さんにヒラ謝りするも、「子に父親がみつかって本当に良かった」と笑顔で返した白隠さんに、一家は心酔した・・・という逸話があるので、白隠さんに女性信者がいれば、いまの時代のワイドショー如く、ああだこうだ言われたのかもしれないな、と想像できるけど、今回のお話を通し、清くまっとうな師弟関係だったようだと確信しました。

 

 記録によると、白隠さんには6人の女性弟子がいたようで、今回アンナ先生が紹介されたのは、阿察婆(おさつばあ)と親しまれていたお察さんと、恵昌尼という尼僧。お察さん(1714-1789)は、父と叔父が白隠さんの熱心な在家信者で、本人も14歳ぐらいから参禅。かなりの熱血信者だったようで、親が結婚を奨めたときも信仰に生きたいと抵抗したそうですが白隠さんに説得されて嫁ぎ、45歳のときに夫を亡くすと仏行にまっしぐら。白隠さんが亡くなるまでそばに仕えていたそうです。

 お察22歳ぐらいのときに写経した「法華経」の写しには白隠さんが加筆した形跡があったり、白隠さんが自ら彫刻した「おさつの老婆像」というのがあって、これが白隠さんがよく描くお多福の顔によく似ているなど、お察が白隠さんの愛弟子だったことがよくわかります。そこに恋愛感情があったかどうか、小説家なら妄想をふくらませるでしょうけど、心から尊敬できる男性、しかも後に500年に一人といわれる不世出の宗教家のそばで、お婆ちゃんになるまでつかえ、お多福モデルになったお察さんは、もう、それだけで女性として十分幸せな生涯だったんじゃないかな・・・。

 

 恵昌尼(?-1764)は清水の人で、夫に先立たれた後、出家し、興津の清見寺9世の陽春主諾(1666-1735)の弟子となり、陽春亡き後、陽春と交流のあった白隠さんに参じたようです。ちょうど修行の“同期”に、後に白隠第一の高弟といわれた東嶺円慈がいました。あるとき、修行仲間とうまくいかずに京へ逃走しようとした東嶺が愛用していた経本「普賢行願讃」を恵昌尼に与え、彼女はそれを泣きながら受け取った、というエピソードが記録に残っています。

 

 こういうお話をうかがうと、白隠も東嶺も、女性を差別することなく、人として、修行者としてまっすぐに対峙していたことがわかりますね。

 もともと原始仏教には女性差別がなく、よく言われる“五障三従”は、仏教の根本思想にはありません。「五障」とは、女性は生まれながらにして「梵天王、帝釈天王、魔王、転輪王、仏になれない障りを持っている」ということ。「三従」とは、女性は「幼い時は親に従い、結婚すれば夫に従い、老いては子に従わなければならない」・・・つまり女は男に無条件に従わなければならないという説。お釈迦様が生まれる前からインド社会にあった女性蔑視の考え方で、「五障」はヒンズー教の、「三従」は儒教の影響があるらしいとのこと。でもそれがいつの間にか仏教の真理として伝わってしまい、女性は仏教の救いから排除され差別され続けてきました。

 

 日本で出家する女性というと、身分の高い女性が寡婦になった後、庵を結んで静かに余生を過ごす、そんなイメージを持っていました。ところが、禅宗では男の僧侶と同等に修行者として扱われようと思いつめたあげく、なんと、自分で自分の顔を焼いて醜女になる尼僧が多かったそうです。男女同権、男女共同参画社会の現代では想像もつきませんが、そこまでしないと修行者として認めてもらえなかったのです・・・。

 そんな歴史背景を考えると、白隠さんが女性の弟子を大切に扱い、お察さんを愛嬌のあるお多福さんに描いたのは、男女の性差や見た目の美醜など関係なく、すべての衆生を救うのが仏道である、という強いメッセージが込められているように思います。大変進歩的な考えですね。

 

 ・・・改めて、こんな素晴らしい教えをたくさん遺しているのに、白隠さんのことが一休さんや良寛さんほど知られていないのは、なぜだろうと考えてしまいます。そもそも500年に一人の逸材と聞かされても、何がどうスゴイのか、一般の人にはピンと来ない。

 もっともっと白隠という人物をクローズアップさせる、たとえば小説家が触手したくなるような人間らしい伝説や艶話の一つでもあれば・・・とも思うけど、今の日本の宗門の方々にとって白隠さんは絶対的存在であり、どこか、それを許さない空気があるようです。

 白隠さんが救済の対象としていたのは、ありとあらゆる衆生であり、そこに、出家か在家か、男か女か、日本人か外国人か、なんて意味はない。その教えが普遍的でボーダーレスだからこそ海を越え、時代を越え、多くの外国人を惹きつけた。白隠さんのメッセージを、日本人が、静岡人が、今の時代にどう受け止め、伝えるか・・・お2人の海外研究者から大きな宿題をいただいたような気がします。

 少なくとも『男女同権の先駆者』であることは間違いないのだから、現在、女性差別問題に取り組んでいる人たちにも、白隠さんの功績を知っていただきたい!ですね。

 

 

  


国際白隠フォーラム2015(その1)公開講座「青い目から見た白隠さんの言葉と意味」

2015-07-24 17:34:57 | 白隠禅師

 久々の更新です。かねてよりご案内のプラザ・ヴェルデ開館1周年記念事業が7月19~20日に開催され、【国際白隠フォーラム2015】は7月19日午後から600名余を集め、盛大に開催されました。19日は午前中からフォーラムパネリストの海外研究者が公開講座として研究発表されました。講座&フォーラムについて何回かに分けてご報告します。

 

 

 

 公開講座最初の演題は「青い目から見た白隠さんの言葉と意味」。講師はスイス・チューリッヒ大学のハンス・トムセン教授です。トムセン教授はデンマーク人。宣教師のお父様が京都に赴任されていた関係で京都で生まれ、子どもの頃は、なんと、袋井のデンマーク牧場で過ごされたそうです。デンマーク牧場を開設したのが、教授のお父様ハリー・トムセン牧師。袋井の土地を取得し、牧場と農学校を設置して、不登校児の自立支援を目指して牧場仕事をしながら学ぶフリースクールを始められたのでした。

 私、20年ぐらい前にデンマーク牧場の支援団体日本福音ルーテル協会の関係者の紹介で取材したことがあり、はじめのころ「トムセン牧場」と呼ばれていたと聞いてました。一昨年も、社会福祉法人として介護施設や精神科療養施設を拡充した様子を視察したばかり。その息子さんに、禅宗の白隠さんについて講義してもらうことになろうとは・・・。

 

 そんなこんなで、日本で生まれ育ち、静岡県にも大変ゆかりのあるトムセン教授は、もちろん日本語ペラペラで、浮世絵や伊藤若冲といった日本美術に造詣が深く、沼津市出身の古美術商・田中大三郎氏の薫陶を受け、白隠禅画を研究されています。今講座では、西洋で禅画を発掘したパイオニアたちを紹介してくださいました。

 

 浮世絵、若冲、白隠禅画・・・いずれも19世紀末から20世紀にかけ、ヨーロッパにおける美術品としての評価が日本に“逆輸入”されたものですね。いたしかたありません。日本にはそれまで「美術」という概念がなく、明治6年(1873)に日本政府として初めて参加したウィーン万国博覧会をきっかけに作られた言葉だったのです。仏像を彫刻、書画を絵画として扱うようになったんですね。

 ちなみに、万博開催の先駆けとなったイギリスでは、1851年、1862年、1871(~1874)年にロンドン万博が開催され、フランス・パリでもこれと競い合うように万博が企画されました。幕末・明治だけで1855年、1867年、1878年、1889年、1900年と開かれ、日本は1867年以降の4回のパリ博全部に参加。1878年のパリ万博では、フランス大統領から古物(アンティーク)の出品を要請する国書が明治天皇に発出されました。これがヨーロッパにおける日本美術ブームに拍車をかけます。1873年ウィーン万博参加以降、日本は官民ともに明治時代だけで40近い博覧会に参加しました。現在、ミラノ万博が開催中で、日本の和食が大変な人気を集めているようですね。140年前は美術、今はグルメかぁ~。

 

 それはさておき、幕末~明治は日本にも多くの外国人がやってきました。大半は横浜10km圏内の外国人居留地に住んでいたので、よく目にしたのが鎌倉大仏。ヨーロッパの街では広場や公園など屋外にブロンズ彫刻が置かれているので、同じように屋外の自然の中に安置された大仏さまを、公園でよく見かけるような身近な彫刻芸術ととらえた、とトムセン教授。奈良東大寺のように大仏殿の中にあったら、また違っていたかもしれませんね。

 1884年、フェノロサと岡倉天心が奈良法隆寺の救世観音像を発見し、「超一級のギリシャ彫刻のようだ」と絶賛。ドイツの東アジア美術史家でケルン東洋美術館を創設したフリーダ・フィッシャー女史(1874~1945)は、延べ10年におよぶ日本での滞在日記「明治日本美術紀行」の中で、“日本人は美術館に展示された仏像を、寺と同じように拝んでいた”とし、日本における美術とは、宗教的意味と芸術的意味の2つあることを指摘しました。しかし当時、日本の美術館にも〈禅画〉はありませんでした。

 

 白隠禅画を初めてヨーロッパで紹介したのは、ドイツの美術研究家クルト・ブラッシュ(1907~1974)。父は大阪の第三高等学校ドイツ語教師で浮世絵研究家。母は日本人。1928年に同志社高等商業学校を卒業し、京城ドイツ領事館に務めた後、ドイツに帰国し、戦後の1948年に再来日。貿易商を営むかたわら、仏教美術や日本文学を専門に研究し、その過程で出会った白隠禅画に魅了され、1957年に美術解説本『白隠と禅画』を出版しました。そして1959年から1960年にかけ、ヨーロッパで初めて大々的に禅画の展覧会を開催したのです。

 そのスケジュールがまたすごくて、1959年1~2月にウイーン、4月にケルン、6~7月にベルン、9月にコペンハーゲン、10~11月にベルリン、12月ミラノ、翌1月ローマ。「作品にとってはよくないが、影響力は絶大だった」とトムソン教授。白隠の弟子東嶺や、後世の禅僧・仙義凡の作品が中心だったようですが、初めて禅画に触れたヨーロッパ人は、当時注目されていたモダンアートに近い新鮮な驚きと高い関心を示し、ZENブームのさきがけとなりました。ちなみに展覧会のために作られた図録には、日本大使館後援のクレジットがあり、浮世絵を扱う古美術商の広告もちゃっかり入っていたそうです。

 この展覧会の反響が、日本にも伝わってきて、日本の美術館や博物館でもようやく禅画が扱われるようになりました。トムソン教授は「日本人にとって禅画は日常の中にあり、かえってその価値観に気づかなかったと言える。西洋のパイオニアたちの中には日本語が読めない人も多かったが、幕末の浮世絵と同じように、新しい見方や考え方で禅美術への認識を日本へ逆輸入した」と説きます。

 アメリカではギッター・イエレンやピーター・ドラッカーといった有名コレクターの収集品が展覧会で続々と紹介されました。スティーブン・アリウスという研究家が研究発表のために訪れたカンザスシティで、たまたま町の床屋さんに立ち寄ったら、店主から「禅画の話をしに来たのか、HAKUINはどう思う?」と訊かれ、ビックリしたとか。スゴイですね、いま、沼津の床屋さんで、そんな質問のできる人、何人いるんだろ・・・。

 

 ちょうど1年前のプラザ・ヴェルデ開館記念講演会で初めてまともに白隠禅画のことを学び、まったく初心者の域から脱っしていない私ですが、かつてフィッシャー女史が指摘した、〈仏像を芸術作品とみるか、あくまでも信仰の対象とするのか〉、この二項対立構造は、素人目にみても、いま現在、白隠さんを取り巻く状況にそのまま当てはまっているように感じます。

 トムソン教授は「いまや、白隠に対する認識や歴史、知名度は、日本だけでなく、世界中のものとなっている。白隠は沼津だけでなく、世界のHAKUIN。白隠についての西洋視点と、日本人の心にある価値観を互いの言葉で大いに議論しよう。外国人も日本人もひとつになって、沼津の一禅僧が発信した素晴らしいビジョンを享受しよう」と締めくくられました。「議論しよう」というメッセージを、公開講座に出席した一部の市民しか聞いていないというのは、なんとももったいない話だと、つくづく思います。

 

 

 


芳澤先生の白隠講座情報

2015-06-10 08:25:24 | 白隠禅師

 今日は芳澤先生の白隠講座のお知らせをまとめて。

 

平成27年度中外日報 宗教文化講座 第3回 「白隠禅師の絵説法」

 中外日報社は京都に本社のある宗教専門の新聞社です。私も時々HP(こちら)をのぞくのですが、イスラム圏の紛争の背景や根深さなどタイムリーなニュースも満載。豪華識者のコラムも読み応えがあります。毎年文化講座が開講されており、本年度のテーマは「禅の風にきく」。臨済宗・黄檗宗の15宗派・本山の協力で、平成28年に迎える臨済禅師1150年遠忌と翌29年の白隠禅師250年遠忌を記念する講座です。
 7月11日(土)には名古屋の徳源寺において「白隠禅師の絵説法」と題して芳澤勝弘先生が講演を行います。徳源寺は臨済宗妙心寺派の嶺興嶽管長の自坊で、嶺管長も臨席されるそうです。

 

◇講師 芳澤 勝弘氏(花園大学国際禅学研究所元教授)

◇日時 7月11日(土) 13:30~15:00(13:00開場)

◇会場 臨済宗妙心寺派徳源寺  〒461-0038 愛知県名古屋市東区新出来1-1-19(JR中央本線大曽根駅、徒歩15分)

◇参加申し込みはハガキ、FAX、メールで。こちらから申込用紙をダウンロードできます。

◇問合せ 中外日報社 営業局出版事業部(宗教文化講座事務局)
  電話:075-682-1625  FAX:075-682-1722  Eメール:shuppan@chugainippoh.co.jp

 

 

 

国際白隠フォーラム2015 

6月9日付け静岡新聞朝刊でも紹介されたとおり、プラザ・ヴェルデ開館1周年記念の国際フォーラムです。

 

◇日時 7月19日(日) 10時~12時/公開講座(予約不要)、13時15分~16時/フォーラム(要予約)

◇会場 プラザ・ヴェルデ コンベンションホールA

◇内容 

公開講座 10時~12時 (無料・予約不要) 

 ①青い目から見た白隠さんの言葉と意味  講師/ハンス・トムセン氏(チューリッヒ大学教授・日本美術史)

 ②白隠禅師の女性弟子~お察と恵昌尼の場合  講師/竹下ルッジェリ・アンナ氏(京都外国語大学准教授)

フォーラム 13時15分~16時30分 (無料・要予約) 

 ①基調講演「白隠と大衆芸能」  講師/芳澤勝弘氏(花園大学国際禅学研究所元教授) 

 ②パネルディスカッション「NO HAKUIN, NO LIFE - 白隠と私」  パネリスト/ハンス・トムセン氏、竹下ルッジェリ・アンナ氏、ブルース・R・ベイリー氏(日本ロレックス㈱代表取締役)、李建華氏(翻訳家・日本文化研究家) コーディネーター/芳澤勝弘氏

◇入場無料

◇フォーラム申込はFAXにて6月1日~21日17時まで受付こちらから応募用紙をダウンロードできます。

 

 なお7月20日(月・祝)は、原の清梵寺で白隠さんの『地獄極楽変相図』が公開されます(絵についてはこちらをご参照ください)。年に1度の公開なのでお見逃しなく!

 また20日にはプラザ・ヴェルデで13時から『静岡県民俗芸能フェスティバル』、15時からSPAC特別公演・朗読講演『東海道四谷怪談』が上演されます。いずれも入場無料、申込不要です。

 SPAC朗読劇は女性(お岩さん)の視点から再構成した、女優の語りと地唄三絃とのコラボ。大岡淳さんの作・演出で、SPAC女優たきいみきさん、生田流の東啓次郎さんが出演されます。こちらをご参照ください。

 上記プラザ・ヴェルデ開館1周年記念イベントは、こちらにまとめて紹介されていますのでご参考にどうぞ。

 

 

 

徳川四百年顕彰事業 連続講座 静岡×徳川時代④ 『富士山と白隠』  

◇講師 芳澤勝弘氏

◇日時 9月5日(土) 14時~

◇会場 グランシップ9階910号室

◇入場料 1000円

◇申込・問合せはこちらを参照してください。




東北弾丸バス旅①&国際白隠フォーラム2015ご案内

2015-05-31 09:31:57 | 白隠禅師

 5月21日~22日は東北の仙台~花巻~北上を旅しました。22日開催の南部杜氏自醸清酒鑑評会を取材するのが主目的でしたが、経費節約につき高速バス&ローカル線利用。肉体勝負の弾丸ツアーでした

 

 20日夜、沼津の【鳥やき作右衛門】でながしま酒店主催の『蔵元を囲む磯自慢の会』に参加し、長島玲美さんや磯自慢の若手蔵人衆と貴重なラインナップを存分に堪能。地元のお客さんと意気投合して、そのまま近くのオーセンティックバー【フランク】でウイスキーをなめ、沼津に息づく酒文化の奥行きにじんわり感動しながら、最終新幹線で品川~新宿へ。深夜24時、新宿発の仙台行き夜行バスに乗りました。

 

 東京~仙台間はバスの本数が多く、料金も格安(3000円ちょっと)。これが岩手までの便だとグーンとお高くなってしまうんですね。いろいろ思案したあげくの仙台便選択でしたが、結果的には◎でした!

 21日朝6時に仙台駅到着。この時間で開いているといえば神社ぐらいなので、仙石線に乗って銘酒【浦霞】のお膝元・塩釜まで移動。陸奥国一宮である盬竃神社を早朝参拝しました。この階段、夜行バスでエコノミークラス症候群になりそうだった下半身を十分にほぐしてくれました(苦笑)。

 境内で、長島さんが持たせてくれた焼きおにぎりを朝食にいただいて、老舗が軒を連ねる街並みを散策。浦霞は見学できる時間帯ではなかったので外観を眺めるだけでしたが、街中に酒蔵が存在感たっぷりに佇んでいるって文句なく羨ましい!って思いました。

 

 

 次いで、仙石線でその先の松島へ。臨済宗妙心寺派の禅寺・瑞巌寺を訪ねました。伊達政宗公の正室・愛姫(陽徳院)の墓堂で知られる国宝の名刹です。大河ドラマ独眼竜正宗では少女時代の愛姫を後藤久美子が愛らしく演じてましたね。

 瑞巌寺は平安時代に天台宗の寺「延福寺」として建立され、鎌倉中期に執権北条時頼が臨済宗建長寺派「圓福寺」に改め、戦国末期に妙心寺派となりました。江戸初期に伊達政宗公によって大伽藍が整備され、周辺に多くの末寺が造営されて、奥羽屈指の大禅刹となったのでした。慶長9年(1604)から5年がかりで建立されたという本堂(国宝)は、紀伊熊野産の木材を京都根来衆の名工たちが技を競って建てたもの。残念ながら修理中で拝観できませんでしたが、岩や樹木に自生する希少ラン・石斛(せっこく)が開花していました。写真では見えづらいので、公式サイトのこちらを参照してください。

 この日は10時と14時から写経会があるということで、せっかくならと、10時の写経会に参加しました。たまたまこの日は写経ではなく写仏。和尚さんに写経が希望なら変更できますよ、と言われましたが、多少は絵心があると自負していた私は「写仏でいいです」と即答。下絵の観音像を筆でなぞるだけだし、問題ない、といざ筆を取ったところ、ふだんから、お手軽筆ペンを使い慣れていたせいで、墨汁の量や筆先の力具合がままならず、他に参加されていた4人の女性が時間内に早々と仕上げたのに、私一人居残ってしまいました。大事な観音様の表情は目元にボテッと墨汁がにじんでしまって全然麗しくない・・・ 写真に撮る余裕もなく、そのまま奉納してそそくさと退室。・・・ったく修行が足らんなあと、携帯する利休百首をめくって、この一首で反省しました。

  一点前 点るうちには善悪と 有無の心の わかちをも知る

 

 

 ところで、私にとって見逃せないのは、この寺が渋谷や沼津よりも前に白隠フォーラムを2回(2008年・2010年)も開催していたということ。花園大学国際禅学研究所のHPで【白隠フォーラムin松島】の熱気溢れる様子(こちらこちらを参照してください)を知って、「白隠さんは本当に駿河に過ぎたる存在なんだ・・・」と痛感したものでした。

 寺宝が常設展示されている青龍殿(宝物館)で、白隠画が観られるか訊ねたところ、ふだんは展示していないそうで重ねて残念でしたが、2010年にフォーラムと同時期に開催された白隠遺墨展の図録を購入し、三島の龍澤寺や沼津の永明寺からも出展されていたことを知り、白隠さんが結んでくれた駿河と松島のご縁に合掌しました。

 

 白隠フォーラムは、この松島をはじめ、東京、出雲、ニューヨーク等と各地でグローバルに開催されてきて、昨年11月、ようやく白隠さんお膝元の駿河沼津で開催の運びとなりました。沼津がなぜ後塵を拝したのか、第三者には窺い知れないことですが、芳澤先生が、駿河沼津での白隠学教化に並々ならぬ思いを寄せられたのは、各地での反響を知れば容易に想像できます。 

 昨年7月の沼津プラザ・ヴェルデ開館記念講演会「富士と白隠」(こちら)を皮切りに、11月には白隠フォーラム2014 in 沼津(こちら)、2月には駿河白隠塾第1回白隠塾フォーラム(こちら)、そして昨日5月30日には駿河白隠塾「町あるき勉強会」が開かれました。

 

 さらにこの先、7月19日にはプラザ・ヴェルデ開館一周年記念として、海外の研究者を招いて【国際白隠フォーラム2015】が開催される予定で、昨日の白隠塾勉強会でポスターが披露されました。9月にはグランシップで芳澤先生の講演会も予定されています。ようやくですが、芳澤先生が蒔いた種が駿河沼津の地で芽吹いてきたようです。

 私は昨年7月の講演会から勉強し始めた新参者ですが、駿河人の端くれとして、精一杯ついていきたいと思っています。国際白隠フォーラム2015の申込は6月1日スタート。ふるってご応募くださいね!

 

 

国際白隠フォーラム2015 ご案内

駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた白隠禅師。今、白隠禅師の遺したメッセージが、現代で生きる私たちや、海外の人たちから羨望のまなざしで語られようとしている。古いのに新しい。高きにありて平明。白隠の生き様は、未来へと生きる私たちに新たな光を示す。

□日時 7月19日(日) 10時~12時/公開講座(予約不要)、13時15分~16時/フォーラム(要予約)

□会場 プラザ・ヴェルデ コンベンションホールA

□内容 

公開講座(予約不要) 

①青い目から見た白隠さんの言葉と意味  講師/ハンス・トムセン氏(チューリッヒ大学教授・日本美術史)

②白隠禅師の女性弟子~お察と恵昌尼の場合  講師/竹下ルッジェリ・アンナ氏(京都外国語大学准教授)

フォーラム(要予約) 

①基調講演「白隠と大衆芸能」  講師/芳澤勝弘氏(花園大学国際禅学研究所元教授) 

②パネルディスカッション「NO HAKUIN, NO LIFE - 白隠と私」  パネリスト/ハンス・トムセン氏、竹下ルッジェリ・アンナ氏、ブルース・R・ベイリー氏(日本ロレックス㈱代表取締役)、李建華氏(翻訳家・日本文化研究家) コーディネーター/芳澤勝弘氏

□入場無料

□フォーラム申込はFAXにて6月1日~21日17時まで受付こちらから応募用紙をダウンロードできます。

 

 

 9月5日には静岡のグランシップで芳澤先生の講演会が開催されます。

徳川四百年顕彰事業 連続講座 静岡×徳川時代④

『富士山と白隠』  講師/芳澤勝弘氏

□日時 9月5日(土) 14時~

□会場 グランシップ9階910号室

□入場料 1000円

□申込・問合せはこちらを参照してください。