杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

広辞苑、重版の旅

2019-06-11 21:02:26 | 地酒

 6月7日(金)夜の静岡県朝鮮通信使研究会で、北村欽哉先生が『広辞苑の中の日朝関係』というお話をしてくださいました。

 1955年(昭和30年)の初版から2018年(平成30年)の第七版まで、過去63年間に7回重版された広辞苑の中で、日朝関係を示す言葉がどのように説明されてきたのか=日朝関係に対する日本人の意識がどう変わってきたのかを検証しようというもの。〈朝鮮通信使〉という言葉が登場するのは1983年(昭和58年)の第三版からで、初版・第二版には掲載されていなかったんですね。で、広辞苑第三版に掲載されてから、突如、学校教科書に取り上げられるようになったそうです。さすがの影響力!

 日本人の歴史観の変化が如実に判るのが〈鎖国〉という言葉です。1955年の初版では「国を閉ざすこと。外国との通商・交易を禁止すること」の22文字のみ。1969年の第二版になると「国が外国との通商・交易を禁止あるいは極端に制限する事。一七世紀から一九世紀中頃まで、東アジア諸国は鎖国政策をとった。江戸幕府は、キリスト教禁止を名目として、中国・オランダ以外の外国人の渡来・貿易と日本人の海外渡航とを禁じた」となり、第三版(1983)、第四版(1991)、第五版(1998)まで同じ記述となっています。

 2008年の第六版では第五版までの記述の前に『一八〇一年、志筑忠雄がケンペル「日本誌」を抄訳し、「鎖国論」と題したのに始まる語。』という一文を加え、最新の2018年第七版では第六版の記述の後ろに『この状態を「鎖国」と呼ぶのが一般的になったのは近代以降。近年では、幕府が四つの口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通して国際関係を築いて来たという見解が通説』が続きます。対馬=朝鮮王朝の外交窓口だったってことが、日本を代表する国語辞書の中で認識されたのってつい最近なんだな・・・と痛感させられました。

 

 そんな北村先生の面白い研究手法をさっそく真似して、図書館をあちこちハシゴして〈清酒〉〈杜氏〉という言葉を過去の広辞苑で探ってみました。残念ながら、広辞苑初版を唯一所蔵する静岡県立図書館が老朽化の影響で倉庫を開けられないとのことで閲覧不可(涙)。第二版以降からのチェックです。

 まず〈清酒〉。第二版(1969)では「わが国固有の酒。蒸した白米に麹・水・酒酵母を加え、発酵させてもろみを造り、これを濾過して製する。淡黄色で特有の香味がある。すみざけ。日本酒。↔濁酒」とあり、第三版(1983)、第四版(1991)まで同じです。

 第五版(1998)は「わが国固有の酒。蒸した白米に麹・水・酒酵母を加え、発酵させてもろみを造り、これを濾過して製する。淡黄色で特有の香味がある。すみざけ。澄んだ純良な酒。↔濁酒」とあります。澄んだ純良な酒。というのが追記されたんですね。これが直近の第七版まで踏襲されています。吟醸酒ブームが影響したのかしら・・・?

 

 〈杜氏〉を見てみると、第二版から第四版まで「酒造家で酒を醸す男の長(おさ)。また酒つくりの職人。さかとうじ。とじ」とあります。そして第五版になって「酒造家で酒を醸造する長(おさ)。また酒つくりの職人。さかとうじ。とじ」となり、第七版まで踏襲されています。「男の長(おさ)」がただの「長(おさ)」に変わったのは、男女雇用機会均等法の影響なのでしょうか。確かに女性の杜氏が注目され始めた頃でした。

 私は手元に第四版を持っているのですが、これは、1993年にヴィノスやまざきさんの新聞全面広告を制作して静岡新聞広告大賞奨励賞を受賞したとき、河村傳兵衛先生がお祝いに「これからも誤字のない文章をしっかり書くように」とくださったものでした。でも第四版はまだ「男の長(おさ)」の時代。それから第五版が発行された1998年までの間、私自身、しずおか地酒研究会を作り(1996)、初めての著書『地酒をもう一杯』を出版(1998)することができたのは、酒の世界をはじめ、世の中の保守的な社会で必死に努力し、辞書から性別表現を排除させるほど社会を変えた人々の存在あってこそ・・・と胸が熱くなりました。

 

 図書館の職員さんに、3000頁近い広辞苑を何冊も倉庫から運び出してもらうのに気が引けましたが、版の異なる広辞苑を並べてみると、言葉の大群が「保守」と「革新」とに分かれて闘っているようでワクワクします。広辞苑初版…なんとか見られないかなあ。


出雲との茶文化交流と酒造起源探訪(その2)佐香神社どぶろく祭と出雲の酒

2018-11-08 14:42:42 | 地酒

  10月12日~14日の駿河茶禅の会「出雲との茶文化交流と酒造起源探訪」レポートの続きです。

 

●松江藩の維新秘話を伝える「玄丹おかよ弁当」

 13日は午前中に出雲焼樂山窯、茶室明々庵での茶文化交流の後、明々庵のある塩見縄手の風情ある街並みを散策し、武家屋敷や田部美術館を見学。お昼時でしたが17名まとまって入れる食事処が近くになく、時間もタイトだったので、バス車中でお弁当を食べてもらいました。

 そういうことなら、ぜひ松江の歴史にちなんだ特別なお弁当をと、明々庵の森山支配人がわざわざ手配してくださったのが『玄丹おかよ弁当』です。

 お加代さんというのは元松江藩士で鍼医・錦織玄丹の娘。明治維新の慶応4年(1868)、新政府側は徳川親藩の松江藩に不信を抱き、3か条の難問題を突き付け、家老大橋茂右衛門を切腹寸前に追い込むのですが、この時、新政府側との酒席で白刃に貫いたかまぼこを平然と紅唇に受け、幹部に迫って家老の命を助け、出雲女の義侠心を発揮という勇ましい女性です。その武勇伝にちなんだ特製弁当で、紅い実をかんざしのように楊枝で刺した「赤板かまぼこ」が入っています。千鳥城と謳われた松江城にちなんだ「千鳥長芋」、日本海で獲れた「スズキの酒蒸し」、島根和牛そぼろを添えた「赤貝飯」など、手の込んだ上品な味付け。出雲の食といえばシジミか蕎麦ぐらいしかピンとこなかったので、事前に現地の有識者に教えてもらって本当に良かったと思いました。

 

●出雲の酒造起源探訪―佐香神社(松尾神社)秋季大祭

 前々回のブログ記事で紹介したとおり、今回、偶然参拝できた佐香神社(松尾神社)秋季大祭。茶禅研修としては想定していなかったプログラムながら、アドバイスをいただいた山陰中央新報社文化事業局の担当者より、神話の国出雲で体験できる唯一無二の酒の神事であり、年に1度の大祭日に出雲に来る偶然を活かしてほしいと勧められたものです。

 

 出雲の酒といえばヤマタノオロチ伝説。弥生時代の初め、大陸から出雲に渡ってきたスサノオは、村人を苦しめる八岐大蛇を八醞折の酒で泥酔させ、退治しました。私は2009年に東京で備中神楽のヤマタノオロチ退治を取材しこちらを)、東京新聞タブロイド紙『暮らすめいと』で紹介したことがあるので、そのときの軽妙な演舞が懐かしく甦って来ました。

 

 以下は前々回記事と重複しますが、日本醸造協会機関誌『醸協(1987)』に掲載された速水保孝氏(元島根県立図書館長)の論文によると、スサノオの八醞折の酒は縄文文化の名残で果実を噛んで醗酵させ、造っていたようですが、弥生時代に稲作がさかんになると米を噛んで造るようになり(アニメ映画『君の名は』にも登場)、やがて大量生産に不向きな口噛み酒から、大陸伝来のコウジカビの活用へと転換していきます。これも、大陸からまず出雲地方に伝わったもの。『播磨国風土記』によると、出雲大神が播磨に遠征したとき軍隊の携行食の乾米が水に濡れてカビが生えたので、そのコウジを使って酒を醸造したという記録が残っています。

 

 『出雲国風土記』によると、佐香神社はもともと天平5年(733)に建てられた佐加社。現在、平田市に含まれるこの地の字は楯縫郡佐香郷と記されてきましたが、佐加・佐香とも、サカ=サケの古名を意味するもので、文字通り、古代に大陸から渡来した人々がコウジカビを用いて大規模な酒造を行い、この神社にお神酒を奉納したということ。室町末期、山津波で崩壊した神社を再建する際、「九社明神社」と名称が変わり、酒の神様としてのイメージが薄まってしまったところ、京の都へ酒造りに出稼ぎに出ていた出雲杜氏が松尾大社の分霊を勧請し、松尾神社を併存するようになったということです。

 そんな、日本酒発祥の聖地といえる佐香神社、素朴な村の鎮守のお社といった風情ですが、日本の神社でどぶろく醸造を行っているのは現在ここだけ。地元出雲市小境地区で収穫された米と水を使い、氏子を務める出雲杜氏経験者がこの日のために1石だけ醸造し、神社内にてこの日一日限定で飲み切る(酒造免許の規定で神社外持ち出し禁止)。新米で造られる新酒のどぶろくは今年の米の出来を推し量るものとされていました。

 

 予定よりも早く14時すぎに到着し、どぶろくの振る舞い開始時間(15時30分)までどうしようかと思っていたら、どぶろく配布の氏子さんが機転を利かせてフライングサービス。今回の参加者の一人・青島孝さん(青島酒造蔵元杜氏)に即興でどぶろく解説をしてもらいました。

 15時30分からは奉納舞踊の神楽が始まり、我々は楽殿の前に敷かれたブルーシートに座り、笛や太鼓の音色に身をゆだねながら、どぶろくを味わいました。三々五々集まった人々はお花見宴会のように酒肴を詰めた重箱弁当を広げ、楽しそうに歓談しています。

 どぶろくを配っていた氏子のおやっさんは地元でネギの栽培をしていると言い、「ネギ栽培で成功している浜松の農業法人を視察してきたばかりだ、いやあ遠くからよく来てくれたなあ」と大盤振る舞いしてくれました。他の参拝者からも「こんな片田舎の祭りに飛行機で来てくれるなんて、こんなに嬉しいことはない」と声を掛けられ、つい「来年も来ますよ!」と返事。青島さんは「想像以上に出来の良いどぶろくだった」と言い、他の参加者からも「祭礼といっても形式ばることなく、ゆるくて心地よい。それがある意味、出雲大社よりも神を身近に感じさせた」という声が上がりました。

 どぶろく祭は日が落ちてからが本格的に盛り上がるそうなので、次回は夜通し飲む覚悟で来なければ・・・!

 

●国宝松江城の天守閣茶会

 夕刻、松江市内に戻って不昧公200年祭の一環で開催された国宝松江城水燈路(ライトアップ)を観賞。天守閣に登り、国宝の城内で初めて催された茶会に参加しました。狭い天守閣に茶道各流派のボランティアや一般観光客が押し合い圧し合いの賑やかなイベント茶席でしたが、不昧公がこの光景を見たら何とおっしゃるのか、想像すると楽しくなりました。「国宝をこういう形で利用できるのは、これが最初で最後かもしれません」という関係者。どぶろく酔いが回る中で天守閣まで必死に登って、そんな貴重な茶席を体験できて感激でした。

 この後、しまね地酒マイスター福島将美さんが経営する居酒屋『朔屋』にて、神代からの出雲の酒文化についてたっぷりご教授いただきました。

 

●歴史を拓いた島根の酒造技術

 島根では東部で出雲杜氏、西部で石見杜氏が活躍していました。出雲杜氏は組合結成100年余の歴史を持ち、今の杜氏国家試験が出来る前から独自に資格試験や研修制度を設けて優秀な技能者を輩出してきました。それもこれも指導機関に日本酒造史に残る逸材がいたからです。

 

 明治37年、滝野川(東京都北区)に大蔵省醸造試験所が開設されたとき、技士として赴任したのが松江税務署鑑定科長の嘉儀(かぎ)金一郎氏。氏は松江税務署時代、松江局の清酒の大半が腐敗した苦い経験を経て、「山卸廃止試験」に挑戦し、滝野川に赴任した後、試験報告書を発表。これが「山廃酛」の誕生でした。嘉儀氏は40歳で会津若松の「末廣」に技術者として招かれ、末廣を山廃造りの銘醸に育て上げます。

 

 さらに特筆すべきは、協会9号酵母生みの親の野白金一氏が松江市出身だということ。醤油醸造家に生まれた野白氏は明治34年に東京高等工業学校(現東京工業大学)を首席で卒業し、松江税務署鑑定部へ着任。2年後に熊本税務監督局へ転任し、当時「赤酒」から脱皮しようとしていた熊本の酒造業界を指導。明治42年に熊本県酒造研究所を設立し、熊本酵母を開発したのでした。これが協会9号として吟醸酒酵母のスタンダードになり、静岡酵母もこれをベースに開発されたのです。

  

 東広島の全国新酒鑑評会前日に行なわれる(独)酒類総合研究所研究発表会に行くと、毎回会場から鋭い質問を浴びせる聴講者がいて、発表者の若手研究員とのやり取りを毎回楽しく拝聴します。その質問者とは元島根県立工業技術センター食品科長で酒類技術コンサルタントの堀江修二先生でした。以前、会場にいた青島さんに先生を紹介してもらい、きちんと取材にうかがおうと思いつつ日が経ってしまいましたが、島根の酒を呑むと、真っ先に「出雲にも河村傳兵衛先生みたいな人がいたなあ」と思い起こします。

 

 現地で購入した地酒ガイドムック『さんいんキラリ~神々を魅了した出雲の酒』の巻頭に、堀江先生の寄稿文が掲載されていました。その中の一節を紹介させていただきます。

「佐香神社での酒造りは奈良天平20年(748)頃から始まったとされ、その造りは長屋王遺跡から出土した天平元年(729)の木簡の酒造りにきわめてよく似ており、天平の頃奈良から伝わった酒造りではないかと思われる。出雲地伝酒は木灰添加による微アルカリ性にした酒で、日本では熊本、宮崎、鹿児島、出雲地方だけに見られる「灰持酒」と云われる珍しい酒である。この酒は古墳時代、筑紫国の熊本から海の道を通って石墓文化とともに直接出雲に伝わった酒と考えられ、ルーツは中国浙江省地域である」

  

 前掲の速水氏の論文と併せて出雲の酒のルーツを考えようと思ったら、日本の古代史学習が必須だ・・・!と頭を抱えてしまいます。登呂遺跡が残るわが静岡では当時、どんな酒を造っていたんでしょうね。

 それにしても、古代は熊本と出雲が酒のルーツで結びつき、近代以降、松江では山廃造の嘉儀先生と熊本酵母の野白先生を輩出し、現代の堀江先生や河村先生に連なる。出雲、熊本、静岡は、茶道三斎流で不思議なつながりがあると前回記事で紹介しましたが、酒においても酒造技術を切り拓いた指導者の不思議な縁を感じます。

・・・自分がこの地に呼ばれたのも、何かの縁に違いないと、ますます妄想が膨らみます。(つづく)

 

 

 

 

 


出雲との酒縁

2018-10-22 20:55:09 | 地酒

 この春から静岡空港出雲線が就航し、山陰地方へのアクセスが便利になりました。昨年の大晦日に急死した父が生前、出雲大社参拝を熱望し、家族で計画していたのですが、残念ながらキャンセル。四十九日が終わって落ち着いたところで、飛行機便ではなくJR東海の格安ツアーで4月18~19日に行ってきました。さすがに1泊2日で新幹線&特急やくもを乗り継いで片道6時間強という移動時間は、なんとも悔しいタイムロス。飛行機なら1時間という便利さを羨ましく想像しました

 4月のこのJRツアーは松江城、足立美術館、出雲大社を廻るだけのコンパクトなツアーながら、夜には貴重な出会いがありました。

 

 実は、毎月活動中の駿河茶禅の会で、今年の研修旅行を出雲にしようという計画を年明けから進めていました。会員に松江出身の漆畑多恵子さんがいて、以前から出雲松江の茶道文化のレベルの高さをうかがっていたこと、2018年は大名茶人として名高い松江藩主松平不昧の没後200年記念のイベントが開催されることに加え、現地の地域団体との交流目的で静岡空港出雲便を利用すれば空港利用促進協議会から補助金が出るとの情報を得ていたからです。単なる観光旅行ではもちろんダメで、静岡と出雲の地域間交流を促進するしかるべき事業が対象。駿河茶禅の会ならば、現地の茶道関連団体との交流を図るという命題が必須となるわけです。

 まずは地元情報にイチバン長けた方々からアドバイスをいただこうとあれこれ人脈をたどり、松江で不昧公200年祭を運営する地元の新聞社・山陰中央新報社文化事業局の担当者とコンタクトを取り、4月18日夜に松江市内の居酒屋でお会いすることに。運よく漆畑多恵子さんがその期間に松江の実家へ帰省されているというので、多恵子さんにも同席してもらい、交流先として有望な茶道団体や現地視察先の選定についてさまざまな情報をいただきました。

 出雲の神様は縁結びの神といわれるだけに、これも不思議な縁というのでしょうか、多恵子さんは現在、静岡市内でご主人とともに池田の森ランドスケープの経営を手掛けてらっしゃいますが、結婚前は山陰中央新報社にお勤め。ウン十年前に半年勤めてすぐに転職されたというので、今回お会いした担当者小川氏とは直接の接点はありませんが、私のような肩書のない静岡のフリーライターが一人で会うよりはるかに効果はあったと思います。

 

 さらにこの夜は小川氏と一緒に来られた「茶文化に詳しい酒好きの文化事業局の先輩」が、私のことを事前に調べて『杯が満ちるまで』をわざわざ静岡新聞社から取り寄せて読んでくださっていて、「もう1冊、20年ぐらい前に地酒本を書かれていますよね、それが手に入らなくて」と何とも嬉しいお言葉をいただきました。

 駿河茶禅の会の研修日程を10月12~14日で計画していると伝えたら、「やっぱりスズキさんは酒の神様に呼ばれましたねえ」とニンマリ。10月13日、日本酒発祥の地の一つといわれる出雲・佐香神社(松尾神社)で年に1度の秋季大祭どぶろく祭があるからぜひ、と薦めてくださったのです。

 事前の下調べでは引っ掛かっていなかったので嬉しい驚き。茶禅の会の研修だというアタマで、はなからその情報に気づかなかっただけかもしれませんが、「神社内でどぶろくを1石造ってその日のうちに飲み切る。ハンパない量を飲まされるが、日本の神社でどぶろくを造っているのは今はここだけ。酒の取材をしているなら行かない手はない」とプッシュされ、すっかりその気になってしまいました。

 

 さらに会食した居酒屋のオーナー福島将美氏を小川氏から紹介され、しまね地酒マイスターという資格で日本酒伝道活動をされているとうかがい、出雲の酒文化に触れるというのも今回の研修プログラムに追加できないかなあと妄想を膨らませました。


 静岡へ戻ってきてからは、小川氏に紹介してもらった不昧流大円会という80年の歴史を持つ茶道流派の事務局とコンタクトを取り、具体的に視察スケジュールを組むには再度の現地調査と、わが駿河茶禅の会とは比較にならない歴史ある不昧流大円会関係者への事前挨拶が必要だと実感し、8月25~28日、今度は10月の計画通り静岡空港出雲線を使って、宿泊予定の玉造温泉と松江市内のビジネスホテルに泊まり、移動時間や交通機関の時刻表等を確認しました。プロのツアコンさんのご苦労が少し疑似体験できたかな…。

 静岡空港出雲線は行きは夕方着く便、帰りは午後早い時間に発つ便しかないので、現地で2泊は必要というのがネックといえばネックですが、静岡-出雲間は正味50分。自宅を14時に出て18時には玉造温泉の湯舟に浸かることができましたから、JR利用時とは比べ物にならない時短快適な移動です。同行してくれた友人も「会社の忘年会、玉造温泉に1泊して翌朝出雲大社をお参りして帰るコースにしようかな」とその手軽さに感心していました。

 

 今回は山陰中央新報社の小川氏が、不昧流大円会の山崎幹事長、不昧公ゆかりの島根県有形文化財茶室「明々庵」の森山支配人に引き合わせてくださり、10月には明々庵で不昧流のお点前のご披露と解説をいただけることに。その後、山崎幹事長はご自分の乗用車で不昧公の墓所がある月照寺をわざわざご案内くださいました。

 

 佐香神社には一畑電車の無人駅「一畑口」からのどかな田園地帯を10分ほどブラ歩き。松尾神社という立派な石碑と鳥居に迎えられ、石段を登った先に、こじんまりとしたお社が静かにたたずんでいました。

 私は今まで、酒造の神様といえば京都の松尾大社と奈良の大神神社、この2社をひたすら有難がってお参りしてきましたが、どうやら皮相な考えだったようです。

 

 以下、醸協(1987)に掲載された論文『出雲神話と酒造り/元島根県立図書館長 速水保孝氏』を参考に紹介すると― 

 ヤマタノオロチ伝説に記されるように、弥生時代の初め、大陸から出雲に渡ってきたスサノオは、村人を苦しめる八岐大蛇を八醞折の酒で泥酔させ、退治しました。この八醞折の酒は縄文文化の名残で果実を噛んで醗酵させ、造っていたようですが、弥生時代に稲作がさかんになると米を噛んで造るようになり(アニメ映画『君の名は』にも登場してましたね)、やがて大量生産に不向きな口噛み酒から、大陸伝来のコウジカビの活用へと転換していきます。これも、大陸からまず出雲地方に伝わったもの。『播磨国風土記』によると、出雲大神が播磨に遠征したとき軍隊の携行食の乾米が水に濡れてカビが生えたので、そのコウジを使って酒を醸造したという記録が残っています。

 ということは、この佐香神社が日本酒のほんとうの起源、といえるのかもしれませんね。『出雲国風土記』によると、佐香神社はもともと天平5年(733)に建てられた佐加社。現在、平田市に含まれるこの地の字は楯縫郡佐香郷と記されてきましたが、佐加・佐香とも、サカ=サケの古名を意味するもので、文字通り、古代に大陸から渡来した人々がコウジカビを用いて大規模な酒造を行い、この神社にお神酒を奉納したということ。室町末期、山津波で崩壊した神社を再建する際、「九社明神社」と名称が変わり、酒の神様としてのイメージが薄まってしまったところ、京の都へ酒造りに出稼ぎに出ていた出雲杜氏が松尾大社の分霊を勧請し、松尾神社を併存するようになったということです。

 

 8月に佐香神社を訪ねたときは、村の鎮守の神様みたいな、素朴でこじんまりとしたたたずまいに、それほどの威光を感じることはなかったのですが、10月、実際に秋季大祭どぶろく祭に参加し、出雲杜氏経験者だという氏子のおやっさんたちにどぶろくを注いでいただいたときは、「ああ、これぞ日本酒のふる里…!」と胸アツになりました。

 アツい10月の駿河茶禅の会出雲研修レポートは追ってじっくりご紹介します。

 


柳陰と日本酒カクテル

2017-07-27 10:26:43 | 地酒

 前回記事で、広島県鞆の浦の『保命酒』のことを書いた後、日刊いーしずの連載コラム〈杯は眠らない〉2013年8月掲載の記事を思い出しました。再掲しますので、この時期の家呑みに参考になれば幸いです。

 

 ◇

 

 静岡弁で“やっきり”するほど暑い夏。人前では日本酒しか呑みません宣言をしている私も、外出先から帰ってくると冷蔵庫からまず取り出すのが冷え冷えの缶ビールになっちゃって、これじゃぁ日頃お世話になっている蔵元さんや酒屋さんに顔向けできないと忸怩たる思い…。できるだけこの時期、日本酒を消費する対策をあれこれ試している最中です。

 先日、フェイスブックに「暑いから日本酒をソーダ水で割って飲んでいる」と書いたら、「そんな飲み方があるの!?」というコメントをもらいました。「自由にアレンジしていいんですよ♪」と返信しながら、自分もちょっと前まで、“蔵元さんが丹精込めて造った酒を、勝手に加工しちゃいけない”と思い込んでいたよなぁ…とセルフ突っ込みしてました(苦笑)。

 実は、しずおか地酒研究会で2012年7月、藤枝市文化センターで【酒と匠の文化祭~夏版】というイベントを開いたとき、酒販店会員の後藤英和さんに、日本酒を使ったサマーカクテルをあれこれ考案してもらい、お客さんと一緒にテイスティングを楽しんだのです。

 

 こちらがそのレシピ。合わせる量はお好みです。

 

●SAKE・ライム/ロックアイス+日本酒+ライムジュース

●SAKE・ロック/ロックアイス+どぶろく

●ドブ・ハイ/どぶろく+ソーダ

●SAKE・リッキー/日本酒+ライムジュース+ソーダ

●SAKE・トニック/日本酒+トニックウォーター

●SAKE・フィズ/日本酒+レモンジュース+サイダー

●SAKE・バック/日本酒+レモンジュース+ジンジャーエール

●SAKE・カルピス/日本酒+カルピス+ソーダ

●SAKE・オレンジ/日本酒+オレンジジュース

●SAKE・アップル/日本酒+アップルジュース

●SAKE・ピーチ/日本酒+モモの果肉(みじんぎり)

●SAKE・梅ハイ/日本酒+梅酒+ソーダまたはサイダー

●酒茶漬け/水洗いした冷や飯に好みの具(鮭・梅・塩から等)をのせ、キンキンに冷やした酒を注ぐ。

●酒しゃぶ/出汁のかわりに酒で肉・魚・野菜をしゃぶしゃぶする。沸騰させてアルコールを飛ばす。

 

 

 冒頭の「SAKEライム」は、日本酒をライムで割ったカクテル「サムライ・ロック」でおなじみですね。外国人受けを狙ったネーミングなのかな。いずれにしても、このレシピのおかげで、気分や体調に合わせて氷やミネラルウォーターで割って飲むスタイルを自然に楽しめるようになりました。レシピの中では日本酒をレモンジュースとジンジャーエールで割った「SAKEバック」がお気に入り。爽快で飲みやすくて、これなら日本酒が苦手という女子たちにも薦められます。

 ◇

 【酒と匠の文化祭】では、後藤さんのカクテル片手に、フリーアナウンサー國本良博さんに、酒の名文を朗読してもらうスペシャルステージを行いました。國本さんに読んでいただく文章をあれこれ探していたとき、目に留まったのが、篠田次郎氏の『日本酒ことば入門』(無明舎出版)。その中に、こんな一節があります。

 

 

8月の酒 柳陰

 猛暑のシーズン、だれもが疲労回復の妙薬が欲しいと思うだろう。現代人なら健康ドリンクの小鬢の蓋を開けて、グイーっとやって、しばしスタミナが回復したと思うのであろうが・・・。それと同じ効果を、江戸の人たちもやっていた。

 ビタミン剤とか疲労回復剤なんどが発明・発見される、はるか以前のことである。

 私たちの体を活性させる一番の妙薬は、体を動かすエネルギーを補給することである。それは、枯渇した糖分を補給すればいいのだ。糖分でなく、デンプン質でもいいし、アルコール分なら、より効き目は早く来る。ウソと思うなら、お手元のドリンク剤の成分をよく読んでみてほしい。

 ごはんのデンプンを、麹の力で糖化した『甘酒』は、江戸の人の夏の飲み物だった。甘酒売りから甘酒を買って飲む。そうすれば疲労感はすっ飛ぶのだ。

 それに、少量のアルコールが入っていれば、効果は倍増する。「甘酒なんて女・子どもの飲み物だ」とおっしゃる飲んベイ、江戸っ子はそれなりの智恵を働かせた。

 彼らは夏の真っ盛りの飲物に「柳」に「陰」と書いて「柳陰」というのを愛用した。それは、酒屋で売っているのではなく、自分で作ったのである。

 作り方はいたって簡単。酒にみりんを加えるだけだ。みりんは主に調理に使われる甘さとうまみ材である。甘さがたっぷりはいったアルコール系飲料だから、エネルギー欠乏時の活性剤としてはまさにずばりの飲物である。

 ウソだと思う人は、ドリンク剤の成分をもう一度お読みください。

 篠田次郎氏『日本酒ことば入門』(無明舎出版)より

 

 

 文中に出てくる「柳陰(やなぎかげ)」という酒、気になりますよね。古典落語の『青菜』に登場する酒です。

「植木屋さん、こっち来て一杯やらんかいな。」

「へえ。旦那さん。おおきにありがとさんでございます。」

「一人で飲んでてもおもろあらへん。植木屋さん相手に一杯飲もうと用意してましたのじゃ。どや、あんた柳蔭飲まんか。」

「へっ! 旦那さん、もうし、柳蔭ちゅうたら上等の酒やおまへんか。いただいてよろしいんで?」

「遠慮せんでよろし。こうして冷やしてました。さあ、注いだげよ。」

「こら、えらいありがたいことでおます。」

 

 ってな感じの軽妙なやりとり。最初に聴いたとき、「柳陰」ってどこの蔵元のどんな高級酒かと思いましたが、調べてみたら、焼酎をみりんで割った“酒カクテル”だったんです。

 

 確かに丁寧に醸造された本みりんは、ストレートでも飲める美味しさ。度数の高いアルコールとブレンドすれば、アルコール由来のつんつんとした辛さを甘くまろやかにコーティングしてくれるでしょう。オンザロックや炭酸水で割れば、度数が低くなり、グイグイ爽快に飲めます。

 わが家には焼酎の買い置きはないので、日本酒に、ふだん料理に使っている杉井酒造(藤枝市)の純米みりん『飛鳥山』と、広島県福山市の薬草酒『保命酒』をそれぞれ半量混ぜてロックにして飲んでみたら、篠田氏ご指摘のとおり、時々飲む栄養ドリンク剤からクスリ臭さや香料臭さを除去したような、自然の甘みがふんわり口中に広がり、ビックリするほど美味しかった。この時期の滋養強壮にピッタリだと実感しました。

 ちなみに、保命酒というのは、広島県福山市鞆の浦で江戸時代から造られている薬草酒。2007年静岡市製作の映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の脚本を担当したとき、鞆の浦で見つけた通信使ゆかりの地酒です。幕末には、老中阿部正弘(福山藩主)が下田でペリー一行にこの酒を振舞ったという逸話も残っています。 

 ◇

 体力が落ちているとき、人は甘いものを欲するといいます。鑑評会出品酒が甘い酒になっているのは、甘い=オイシイの代名詞になっている傾向の表れだし、何でもかんでも甘味を第一評価するというのは、現代日本人が疲れている、あるいは味覚が原始化?しているのでは、と考えさせられます。自分も、日本酒に甘味や酸味を加えてアレンジしたくなるのは、やっぱりいつもの調子じゃないときだって自覚します。

 日本酒は、夏を越し、涼しくなる秋口からグーンと旨味が増してくるといわれます。それは、熟成の妙だけでなく、受け止める人間の味覚も“本調子”に戻ってくるからじゃないでしょうか。

 

 自分も、この暑さがひと段落したら、日本酒本来の香味バランスと繊細な渋味や辛さを美味しく感じられる状態に戻れるんじゃないか、と期待しつつ、それまでは江戸っ子の知恵や流儀を上手に取り入れ、汗をかきかき、今夜も冷蔵庫や調味料棚を物色しています。杉井酒造では、日本酒「杉錦」、焼酎「才助」、みりん「飛鳥山」が揃っているので、杉錦トリプルブレンドに挑戦してみようかな。

 

 

 


南部杜氏、時空の旅

2017-06-16 16:16:42 | 地酒

 5月下旬、2年ぶりに岩手県の南部杜氏の故郷を訪問しました。「萩錦」「富士錦」の杜氏を務めた小田島健次さんが酒造人生にひと区切りつかれるということで、慰労と感謝を伝えるべく遠野市のご自宅にうがかいました。

 

 一昨年訪れたときは、小田島さんと後輩の蔵人小林一雲さんと3人で花巻の居酒屋で盛り上がりましたが(こちらを)、今回は嬉しいことに萩錦の蔵元夫人萩原郁子さんも来てくださり、ご一緒に小田島家に泊めていただけることになって、従前に増して賑やかな慰労会となりました。

 

 5月24日、まず東名高速バスで東京へ行き、東京国立博物館で「茶の湯展」、三井記念美術館で「奈良西大寺展」を鑑賞。新宿から盛岡行きの夜行高速バスを乗り継いで25日朝6時過ぎに盛岡駅に到着。早朝営業の入浴施設を見つけてリフレッシュした後、盛岡城址公園を散策し、9時開館のもりおか歴史文化館をのぞいてみました。6年前に開館したフィールドミュージアムで、盛岡の歴史文化をわかりやすく紹介しています。駿府城公園にもこういう施設が欲しいなあ…!

 同館で開催中の企画展『盛岡南部家の生き方』では、経済を支えていた金山が枯れたり天候不順による不作凶作、自然災害等に再三見舞われた地方大名の艱難辛苦がうかがえました。天下泰平と謳われた江戸時代も半ばを過ぎる頃には全国各地でこのような綻びが生じ始めていたんですね。

 胸を突かれたのは、享保21年(1736)1月に発行された『南部利視宛江戸幕府老中連署奉書(手伝普請命令)』。幕府から遠州大井川の河川整備を命じられたものでした。もちろん静岡の大井川のことです。会場では実際の絵図面も展示されていました。

 私は真っ先に、大井川の伏流水で酒を醸す志太の酒蔵に長年奉職した南部杜氏のおやっさんたちのことを思い出しました。おやっさんたちのご先祖様もこうして大井川を守ってくれていたんだ…と。

 南部家当主に宛てた江戸幕府老中連署奉書(手伝普請命令)は他にもたくさんあって、日光、仙洞御所、甲州など各地のインフラ整備に駆り出されていたようです。これは盛岡藩に限らず、全国のあらゆる藩に義務付けられていて、各藩主は苦しい財政を立て直すために必死に藩政改革を行った。そういう中から上杉鷹山(米沢藩)、細川重賢(熊本藩)、松平治郷(松江藩)、佐竹義和(秋田藩)といった後に名君といわれる逸材が生まれました。逆に言えば、幕府の直轄地だった駿府のようなところには、改革も名君も必要がなかったわけですね。

 

 お昼前に新花巻まで移動し、小田島さん夫妻、萩原さんと合流。花巻空港のレストランで盛岡冷麺をいただいた後、遠野市にある小田島家に向かいました。その途中、かつて小田島さんの下で頭(かしら)として働いていた菊池一美さんが入所しておられる介護施設にお見舞いにうかがいました。

 小田島さんは頭の菊池一美さん、釜屋の菊池正雄さん、まかないの菅原テツさんの4人でチームを組み、20年前に初めて取材させていただいた当時は萩錦、葵天下、曽我鶴、小夜衣の4蔵を掛け持ちしていたのです。そのことを書いた毎日新聞連載コラム『しずおか酒と人』1998年2月5日付け記事のコピーを小田島さんに託して駐車場で待っていたのですが、窓越しに、萩原さんとの再会を破顔一笑で受け入れた菊池さんを目にし、イラストで描かせてもらった面影がしっかり残っていて、胸が熱くなりました。

 毎日新聞連載コラム『しずおか酒と人』1998年2月5日より

 

 自宅のある長野県から車で掛けつけた小林一雲さんや小田島家のみなさんがバーベキューの準備をしてくださっている中、私と萩原さんは小田島家から車で数分の宮守川上流生産組合加工所を訪問しました。どぶろく特区で知られた遠野市にある4軒のどぶろく醸造所のうちの一つです。

 ここでは地元農産物の加工品(ジャム、ジュース、味噌など)のほか、自社栽培の酒造好適米「吟ぎんが」100%使用の『遠野のどぶろく』を造っていて、突然の訪問にもかかわらず加工部長の桶田陽子さんが丁寧に案内してくれました。市内4軒あるどぶろく醸造所の中では平成16年開業の最も新しい加工所で、仕込み蔵は建物も機械もまだ新しく、萩原さんも「うらやましい」を連発。どぶろくは甘口(アルコール度12%)と辛口(同15%)の2種類あって、辛口は吟ぎんが精米50%と大吟醸並みのスペック。どぶろくとは思えないスッキリ感と口当たりの柔らかさ&甘酸っぱさで、冷やして飲めばクイクイ行けちゃいます。 

 夜のバーべーキューでは、この辛口どぶろくと地元特産の馬肉をたっぷりご馳走になりました。明治元年に建てられたという小田島家は民宿が経営できるほどの広さで、小田島さんは趣味のジャズ音楽を聴くために音楽教室にあるような特大サイズのアンプをお持ち。「いずれはこの家をリフォームし、酒友が集えるサロンにしたい」とおっしゃっていました。実現のあかつきには写真付きで大々的にご紹介したいと思います!

 

 翌26日は朝7時30分から始まる南部杜氏自醸清酒鑑評会一般公開に参加しました。南部杜氏協会加盟の杜氏が平成28酒造年度中に醸した酒ー吟醸の部は全国(北海道~岡山)124蔵328品、純米吟醸の部は109蔵245品、純米酒の部は71蔵154品を対象にしたもの。吟醸の部トップはあさ開(岩手)の藤尾正彦さん、純米吟醸の部トップは三春駒(福島)の齋藤鉄平さん、純米酒の部トップは陸奥八仙(青森)の駒井伸介さんでした。

 静岡で活躍中の南部杜氏は小田島さん(萩錦・富士錦)をはじめ、山影純悦さん(正雪)、多田信男さん(磯自慢)、八重樫次幸さん(初亀)、菅原富男さん(臥龍梅)、伊藤賢一さん(富士正)、葛巻文夫さん(天虹)、日比野哲さん(若竹)、増井美和さん(出世城)等、静岡酒の屋台骨を支える方々ばかり。昨今のトレンドである高カプロン酸系酵母の香りと高糖タイプがやはり幅を利かせる中、入賞せずとも静岡らしさを堅持した銘柄がいくつもあり、ホッとしました。とくに、長年能登杜氏の蔵として認知されていた初亀に2年前に移り、それなりにご苦労もあっただろうと思われる八重樫さんの酒は、私の脳裏に焼き付いていた南部杜氏の醸す静岡吟醸のイメージを見事に体現していて、初亀の水や蔵のしくみを完全にご自分のものにされたんだろうと嬉しくなりました。

 静岡タイプでは上位入賞しないだろうと予想できる鑑評会に出品する杜氏さんたちの心境を慮ると複雑な気持ちになりますが、全国規模の鑑評会のような場で呑み比べてみるとやはり静岡酒の特徴がよくわかるし、審査員ではなく消費者の方を向いて造れと指導されていた亡き河村傳兵衛先生の教えが継承されていることを確認できるのです。

 

 一般公開は10時に終了。富士宮から駆けつけた富士錦酒造の清信一社長と合流し、南部杜氏自醸会吟醸の部でトップをとったあさ開(盛岡市)の蔵見学に向かいました。この蔵は20年前にしずおか地酒研究会の南部杜氏の故郷ツアーで訪問したことがありますが、当時の素朴な酒蔵の面影はなく、現在は見学者用コース&試飲お土産店&併設レストランが整備された立派な観光蔵に。静岡の蔵元には参考にならないくらいの規模で、いちいちため息をつくばかりでした(苦笑)。

 あさ開の併設レストランで昼食を済ませた後、帰りの新幹線まで時間があったので盛岡市内の報恩禅寺を訪ねてみました。広大な座禅堂と五百羅漢(ごひゃくらかん)で知られ、 宮沢賢治が盛岡高等農林学校時代に参禅したそう。受付にいらした和尚さんが「どこでも写真を撮ってかまわんよ」とおっしゃってくださったので、木彫りで499体が現存しているという羅漢堂をのぞいてビックリ!胎内の墨書銘から、1731年(享保16)に報恩寺代17世和尚が大願主として造立し、京都の9人の仏師によって4年後に完成し、京都から盛岡に運んだ輸送用の箱を台座として再利用しているとか。五百羅漢は全国で50例ほど現存が確認されていますが、木彫りで499体が現存し、造立年代が明確にわかるのは全国的にもまれだそうです。「こんなお寺があったなんて知らなかったなあ」と小田島さんも感心しきり。

 この羅漢さんたちが作られた享保=江戸中期といえば、前述した盛岡藩が藩政改革で苦労をしていた時代。辛い時代でも、いや、辛い時代だからこそ、人々は仏堂に救いと望みを寄せていたのでしょう。

 

 南部杜氏は、近江商人村井権兵衛が紫波郡志和村に大坂の池田杜氏を招いて酒造りを始めたのが源流とされています。村井家は信長に滅ぼされた越前浅井長政の家臣村井氏の子孫で、慶長年間に金山開発に沸いていた遠野に移住し、盛岡で「近江屋」を創業。当時最先端の酒造技術者を大坂から招いたことで、優秀な技術が根付き、多くの酒造職人が育ち、大消費地だった仙台藩へ出稼ぎに赴いた。江戸後期の文化文政年間には、米の収穫後に脱穀・籾摺りを簡便にした千歯扱き(せんばこき)が岩手にも普及し、年内に脱穀作業を終えることができるようになって冬場の出稼ぎが可能になったのです。

 静岡の酒を美味しくしてくれた南部杜氏のふるさとには、出稼ぎの酒造りで生きていかねばならなかった人々の歴史があり、南部に酒造りの技術が根付いた理由もちゃんとあった。東北の厳しい環境であったがゆえに地方自治や地域文化の根が張り、競争力のある優れた技や創意工夫の暮らしが育まれた・・・。小田島さんを道案内に、歴史の時空を超えた酒造の旅が出来た2日間でした。