杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

『理性の限界』に挑む読書時間

2013-03-07 11:44:19 | 本と雑誌

 このところ読書熱に冒されています。AmazonのKindle paperwhite をようやく使いこなせるようになって、一気に10冊購読・読破しました。10冊分を持ち歩くことを想像したら、200g程Dsc_0071
度のタブレットに収まるってやっぱり便利です。

 

 部屋の本棚もすでに容量オーバーで、どれをブックオフしようか迷っている状態ですから、今後は、電子書籍化された本はKindle で読むようにしていこうかな。それに、紙の本もそうだけど、Amazonの良さって、購入した本の著者や同ジャンルの関連本を自動的におすすめリスト表示してくれる点。これでずいぶん本選びの幅が広がり、また深まっていく感じがします。

 

 とはいえ、物書きを生業にしている身、外出時に本屋さんで過ごす時間は、他の場所では得られない宝物のような時間です。

 先日も、セノバで映画を見ようとして上映終了時間を確認したら、仕事の打ち合わせに間に合わないと判って観るのをあきらめ、立ち寄った5階の丸善で、『酒をやめずにやせる技術』(木下雅雄著・扶桑社新刊)、『山田錦物語~人と風土が育てた日本一の酒米』(兵庫酒米研究グループ編著・神戸新聞総合出版センター刊)を偶然見つけてゲット。2階にあるカフェで読んでいるうちに、映画2本分の満足感が得られました。Amazonは、関連本をより奥深く発掘できるけど、本屋さんでは偶然の出会いが愉しめますね!

 

 

 よくカフェで受験勉強する学生の“長居”が可か不可かって話を聞きますが、正直な話、カフェや電車内のように適度に喧騒のある場所って、ものすごく自分の世界に集中しやすいんですね。読書も、自宅よりはるかに、はかどります。

 

 願わくば、自宅では得られないゆったり、ぜいたくな読書タイムが満喫できるよう、コーヒーはマシンではなくハンドドリップでていねいに淹れてほしいし、イスやテーブルの配置も、独り客がくつろげるようなレイアウトにしてほしいな。音楽は耳に心地のよいクラシックかジャズで。

 昔はそんな、読書におあつらえ向きの珈琲専門店が街中にいくつもあったけど、今は味気ないチェーン店の味気ないマシンコーヒーばっかりになっちゃいましたね・・・。セノバの2階にあるカフェも、せっかく「くれあーる」さんの特選珈琲豆使用って謳っているのにマシンで淹れてあるからイマイチ。これで一杯600円ってどうなんだろう・・・。家でも「くれあーる」のコーヒーを飲んでいるけど、やっぱり自分でひきたてをハンドドリップするほうが美味い。

 

 

 これだけ通販が発達すると、わざわざ店でモノを買う、時間を買うという行為には、目的以上のプラスαの満足感がなければ、リピーターにはなりにくい・・・つくづくそう思います。

 

 

 

 さて、今、Kindle でハマっているのが、高橋昌一郎さんの『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』シリーズ。小難しい論理哲学を、架空のパネルディスカッション仕立てで、学生や一般市民が専門家とディベートしながら解説してくれるんです。

 

 たとえば「ゲーテルの不完全性定理」の解説では、こういう例題が。

 

 

 ナイト(正直者)とネイプ(嘘つき)の2種類の住人しか住んでいない島がある。島民Xが「自分はネイプです」と言ったとすると、Xは、はたしてナイトかネイプか?

 

 

 Xがナイトなら、嘘をつくはずがないから、ネイプだろうし、Xがネイプなら、正直に言うはずがないから、ナイトということになります。つまり、この島の住民は、真実と嘘しか発言しないのに、「自分はネイプです」という発言は存在できない。「自分はナイトではない」「自分は嘘つきです」という発言も存在しない。一般市民が「なら、いったい何を基準に真偽を定めるのか」と疑問を呈する。そこから、「命題論理」とか「ペアノの自然数論」の話に展開していきます。途中で何度も挫折しそうになるけど(苦笑)。

 

 別の例題では、大学教授の掲示板に次のような告知が。

 

 「月曜日から金曜日のいずれかの日にテストを行う」

 「どの日にテストを行うかは、当日にならなければわからない」

 

 

 これを見た学生Aは、いつ、ぬきうちテストがあるかわからないから、毎日勉強しなきゃ、と考えた。一方、学生Bは「もし月~木曜までに行われなければ、金曜に行うはずだが、“当日にならなければわからない”という条件に反するから、金曜にテストはない。月~水曜までに行わなければ木曜に行うはずだが、同様の理由で木曜にもない。で、月・火に行わなければ水曜となるが、同様にテストは不可能。結局テストは行われない」と判断した。

 

 ところが教授は金曜日にテストを行った。反発した学生Bに、教授は「君が、今日はテストがないと思っていたなら、ぬきうちテストは成立するだろう」と応えた。

 すると別の学生Cが「私はそう先生が答えると思って準備をしてきた」といい、教授は「だったら私が嘘つきになってしまうから、テストはやめよう」と言い、また別の学生Dは「僕は先生がそう応えると思ったから準備はしていない」と言い、教授は「だったらテストをやろう」と・・・。この会話は延々と続いて結論が出ません。

 

 

 ここで「おおーっ」と思ったのは、この無限循環論が、ノイマンとモルゲルシュテルンの『ゲーム理論と経済活動』という論文で取り上げた、シャーロック・ホームズとモリアーティー教授が対決した「最後の事件」と同じ構造だったこと。まさか、ついこないだまで夢中になって読んでいたホームズ本がここでリンクするとは・・・。

 「最後の事件」では、ホームズが犯罪王モリアーティの魔手から逃げようと、ロンドンのビクトリア駅から大陸連絡急行列車に乗ります。停車駅はカンタベリーとドーバーだけ。当初、ホームズはドーバーで下車して船でヨーロッパ大陸へ渡る予定でしたが、追いかけてくるモリアーティーにとっては“想定内”です。ならばその裏をかこうと、ホームズはカンタベリーで途中下車し、難を逃れた。小説ではそうですね。しかし、もし、モリアーティーがさらに上手で、ホームズがカンタベリーで途中下車することを見越していたら、彼も降りて追いつくはず。しかししかし、ホームズがさらにもう一回り裏をかき、ドーバーまで行ったとしたら、大陸へ無事渡れる。ところが、モリアーティーがそのことも見抜いていたら・・・、堂々巡りが永遠続きます。

 

 

 ゲーム理論は、プレーヤー双方の利得が相殺されてゼロになる「ゼロサムゲーム」を取り扱っています。このゲームで最も合理的な戦略は、「ミニマックス作戦」。つまり、自分の損失を最小限におさめる=勝とうとするよりも負けない戦略、だそうです。

 この戦略を発展させたのが、「ナッシュ均衡」。一方のプレーヤーが最適な戦略をとったとき、他方のプレーヤーもそれに対応する戦略があることを証明したんですね。ちなみにジョン・ナッシュは数学者として初のノーベル経済学賞を受賞した人で、映画『ビューティフル・マインド』でラッセル・クロウが演じました。「ナッシュ均衡」、私のレベルでは解説不可能なので、興味があったらこちらを。

 

 

 

 ぬきうちテストの話に戻ると、もし、最初に「教授は嘘をついた」と責めた学生Bに、教授が「だったら私の嘘を信じた君は正気者か?」と問えば、Bは自分に自信がなくなってしまいます。かりに、Bが「教授は嘘つきだ」と信じるとすると、教授の発言の否定(・・・つまりテストを行う)を信じることになる。『自分は嘘つき」という発言は、どう転んでもパラドックスを生じさせてしまうわけです。

 

 

 学生Bは論理的に解釈しようとして、ぬきうちテストの罠、つまり不完全性定理に陥ってしまいましたが、一方、教授の発言を深く考えず、真面目にテスト勉強をしていた学生Aのほうが、結果的に賢かったということになります。最も非合理的な戦略が、実は最も合理的な戦略になっているってことですね。対戦型ゲームやドラマのネタによく出てきそうです。

 

 

 

 もし「ゲーテルの不完全性定理」「ナッシュ均衡」なんてキーワードが全面に出ていたら、絶対に触手しなかった本ですが、パネルディスカッション風の対話形式で、しかも、シャーロック・ホームズやビューティフル・マインド等、一般の人に馴染んでいる大衆カルチャーを上手に取り入れて解説してくれる。この体裁自体、大変参考になりました。言葉の理解には限界があるという内容だけに、ライターという仕事の存在意義を考える、よい機会にもなっています。

 

 

 

 それにしても、脳と視力が疲弊する読書タイム、やっぱり、美味しいコーヒーと心地よい音楽が欲しいですね。ついでにクイックマッサージとか占いなんかのコーナーが併設されていたら、リピーターになるんだけどなあ・・・。ようするに、通販で済ませないで店まで出向くっていうのは、人の手間がちゃんとかかっているサービスを求めるってことだと思います。あくまで個人的意見ですが。


ふじのくにの天下一品茶

2013-01-08 09:24:37 | 本と雑誌

 季刊発行の静岡県広報誌ふじのくに11号(最新号)が、昨年末に発行され、年明けから電子版でも読めるようになりました。こちらをぜひ

 

 

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 今号では、川勝知事とモンゴルのソドブジャムツ・フレルバータル大使との対談、県政特集「伊豆ジオパーク構想」、癒しの一杯(県内茶産地紹介)の執筆を担当しました。

 いずれも限られた紙面では伝えきれない深い内容ですが、再三言うように、この雑誌自体、県外のオピニオンリーダー向けに発行されているので、県民にはあまり知られておらず、みなさんの眼に留まる機会も少ないというのが悔しい限りです。静岡県がどういう方向で県土づくりを進めているのか、地元県民こそが正しく知るべきだと思い、私はミニコミの遠吠えながら当ブログでふじのくにを勝手に広報させてもらってます。手前味噌ですが本当に貴重な情報が詰まっていますよ!

 

 

 モンゴルのフレルバータル大使は大変な日本通で聡明な方でした。今回の対談でも、饒舌な川勝知事を上回るほど、大使がグイグイとトークを盛り上げてくださって、対談記事にまとめやすかった。私も10代のころは井上靖と司馬遼太郎で歴史を学び、川端康成で文章修業をした身ゆえ、大使が初めて読まれた日本の小説が【伊豆の踊り子】で、大の司馬ファンでモンゴル大好きだったという故・小渕敬三首相との交流エピソードにはホロッとさせられました。

 いつもより文字量も多めで、ちょっと読みづらいかもしれませんが、大変深い内容ですから、ぜひお見逃しなく。

 

 

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 【癒しの一杯】のコーナーは、当ブログで取材時に紹介した富士の天下一品茶。紙面の都合でところどころカットされてしまいましたが、こちらが原文です。地名や人名などより詳細に書き込んでありますので、ぜひご一読ください。 

 

 

 

 

【癒しの一杯】<o:p></o:p>

富士・天下一品茶<o:p></o:p>

 茶師の技の命脈、幻の銘茶復活<o:p></o:p>

 

静岡県に数ある茶産地。気候風土の違いや作り手の思いによって、さまざまな味わいが楽しめる。産地が伝えるお茶づくりのストーリーを想像しながら、一杯をとくと味わってほしい。今回は富士山のお膝元で甦った幻の銘茶物語。<o:p></o:p>

 

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 海外茶商が与えた“天下一”ブランド<o:p></o:p>

 

富士のお茶づくりは古く、県茶業史によると1614年の白糸村の検地帳に茶畑の記載がある。富士山麓は関東ローム層の黒土で肥沃な土地と豊かな湧水、富士山から吹き寄せる風など自然の恵みを受けて、茶樹がよく育つ。収量が見込めることから、明治以降、富士原野の開墾が本格的に進んでからは、輸出産業として大いに発展。他茶産地への生葉や挿し木の供給源にもなっていた。

 

そんな富士茶史の中に特筆すべき人物がいる。富士市比奈で茶園を開いた野村一郎(1832~1879)は、“質より量”から、”量より質“への転換を目指し、静岡の市川源之助、遠州の赤堀玉三郎、漢人恵助、江川佐平らを招き、『製茶伝習所』を設立。宇治や江州(滋賀)の伝統製法に、赤堀の“にぎり法”、漢人の“茎裂毛引法”といった新製法を組み合わせた。明治9年、横浜に出荷した一番茶は、長針のように細長く、蜘蛛の足のようで、風味良く、群を抜いて優れていたため、横浜居留地の英国・中国人茶商から『天下一品茶製所』と書かれた扁額を贈られた。“富士に天下一の茶あり”の評判はまたたくまに国内外に知れ渡る。

 

野村一郎は扁額を授かったわずか3年後、天下一製法の詳細なマニュアルを残さず、48歳で急逝してしまう。その後、赤堀や漢人ら天下一製法に開発に関わった茶師たちがそれぞれの地元で独自に発展させ、”天下一“は、見た目の美しい高級茶を指す一般用語となっていった。やがて手揉み技術は機械に取って代わられ、天下一品茶名の存在も風化していった。

 

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茶師たちが復活させた天下一品茶<o:p></o:p>

 

静岡県が茶どころとなった一因には、生産地によって微妙に異なる茶葉の特性を見極め、品質の高い茶に仕上げる優れた茶師が多く育ったことがある。彼らは伝習所を開設し、競い合うように多くの若手を育てた。機械化の際もベースになったのは手揉みの技。優れた職人の手技が機械で再現され、県茶業は大いに発展した。

 

昭和34年に結成された静岡県茶手揉保存会は、職人の手揉みの伝統を後世に伝える活動をしている。手揉み技術には多くの流儀があり、そのうちの8流派―青透流(志太地区)、小笠流(中遠・浜松)、幾田流(県東部)、倉開流(北遠)、川上流(静岡)、鳳明流(静岡・岡部)、興津流(清水)、川根・揉切流(川根)が県指定無形文化財となっている。保存会は“静岡茶の広告塔”として普及振興にも尽力中だ。

 

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幾田流の流れを伝える富士市茶手揉保存会は昭和
57年に結成し、富士茶の品質向上と産地ブランド化に努めてきた。結成直後から目指したのは「天下一品茶」の再現だ。4代目会長の木村三郎氏が実現させ、現在5代目の平柳利博会長が再現活動に奔走している。

 

2012年6月には中国浙江省で開かれた緑茶博覧会で、かつて横浜の中国人茶商から授かった『天下一品茶製所』の扁額(複製)を展示し、天下一製法の実演を披露。鋭く長い針のような茶葉を30センチ以上も積む独特な飾り方は、現地の人々の目を釘付けにした。11月には富士市立博物館内の旧稲垣邸で実演イベントを行い、2013年からいよいよ市販開始する。

 

  ◇

 

富士山が世界遺産登録を目前に、その価値が再認識されてきたように、『天下一品茶』が静岡県の手揉み茶技法の価値にふたたび光を注いでいる。

 

県茶手揉保存会では10年ほど前から8流派共通の「手揉資格認定試験」を実施し、師範・教師・教師補という3段階の指導者育成も行う。最上位の師範として後継育成に努める平柳会長。「技術がなければ“天下一”は名乗れません」と資格取得指導に天下一製法への思いを重ねる。野村一郎はじめ歴代茶師たちの茶質向上にかけた命脈もこうして未来へとつながっていく。

 

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◆“天下一”にかける茶師の思い/平柳利博さん(富士市茶揉保存会会長・山平園園主)<o:p></o:p>

 「茶葉は日々刻々と状態が変わる。その変化に対応できる手揉み技術を会得できると、おのずと機械製法での調整にも活かされる。消費者にも手技を見せながらお茶の話ができる。手揉みの技の向上は、一石二鳥にも三鳥にもなるのです。富士山の麓に伝わる天下一製法の技が、手揉み茶を象徴する日本随一の技であることを証明していきたいですね」

 

山平園 静岡県富士市中里1021 TEL0545‐34‐1349 


セーラー服時代の聖書から

2012-12-24 20:42:23 | 本と雑誌

 今年のクリスマスイブは、バイト先のお寺でまるまる一日大掃除。達磨大師の像を磨きました。キリスト教とはもっとも程遠い空間で過ごしたわけですが、まあ、そもそも、ちゃんと教会でキリストの誕生を祝う人が世の中に何パーセントいるんですかね(苦笑)。・・・クリスマスって考えれば考えるほど不思議な行事です。

 今年は8月のアメリカ旅行で訪ねたサンタフェの教会、11月にホームカミングデー(同窓会)の記念礼拝で訪ねた母校の礼拝堂と、教会で印象深いひとときを過ごしました。

 信者ではないけれど、中学・高校6年間、毎朝の礼拝で使ってボロボロになった聖書は、30年以上経った今でもすぐ手の届く場所に(禅宗の経典も一緒に)置いてあります。いい言葉がやっぱり多いんですね。コピーを考えるとき、参考にすることもあります。

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セーラー服を着ていた頃、真面目に聖書を読み、心に残った聖句に赤線を引いた、その箇所を、あらためて読み返すと、なんともピュアな気持ちになります。有名なフレーズもあれば、なんでここに線を引いたんだろうと思える箇所もありますが、ちょっと紹介しますね。こうして言葉を書き写すことぐらいしか出来ない私からの、ささやかなメリークリスマスです。

 

 

 

「あなたがたは地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味を取り戻されようか」(マタイによる福音書 5章13)

 

「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイによる福音書5章39)

 

「あすのことは思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイによる福音書6章33)

 

「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイによる福音書7章12)

 

「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするだろう」(マタイによる福音書9章17)

 

「敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ」(ルカによる福音書6章35)

 

「見ないで信じる者は、さいわいである」(ヨハネによる福音書20章29)

 

「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして希望は失望に終わることはない」(ローマ人への手紙5章3)

 

「あなたがたも、賞を得るように走りなさい。(中略) わたしは目標のはっきりしないような走り方はせず、空を打つような拳闘はしない」(コリント人への第一の手紙9章24-26)

 

「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない。不作法をしない。自分の利益を求めない。いらだたない。恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(コリント人への第一の手紙13章4-7)

 

「だから今、それをやりとげなさい。あなたがたが心から願っているように、持っているところに応じて、それをやりとげなさい」(コリント人への第二の手紙8章11)

 

「ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである」(ガラテヤ人への手紙6章4-6)

 

 


県広報誌ふじのくに浙江省友好30周年記念特集

2012-04-01 20:19:01 | 本と雑誌

 静岡県総合情報誌『ふじのくに』の最新号が発行されました。電子ブックでご覧いただけますので、こちらをぜひ。

 

 

 今年、静岡県と浙江省の友好提携30周年記念を迎えることから、今回の川勝知事の対談相手は中国の程永華大使です。2月初め、初めて足を踏み入れた、東京の中国大使館。入館に際し、県広報課の担当者からいろいろ注意事項を受けて、いつになく緊張?しましたが、大使はもちろん、大使館のスタッフの方々も、とてもフレンドリーでした。・・・もっとも、川勝知事の後ろに隠れていたら、怖いものはないか(苦笑)。

 

 

 県政特集でも浙江省友好提携30周年記念行事の紹介を書きました。4月5日~6日には、ツインメッセ静岡南館で『浙江―静岡名品展覧会』が開かれます。浙江省には、お茶、磁器、紹興酒など、そそられる名産品が揃っているので、個人的にも楽しみです。こちらで紹介した燗付け器、紹興酒用のものだと思いますが、重宝してます。同じようなものがあったら買い置きしようと思います。

 

 

 今号では県政特集をもう1本書きました。だいぶ前に入稿してあったのを、震災特集で2回飛ばされて、お蔵入りになりそうだったのを、年度末ぎりぎりに復活しました。発酵茶や中山間地のブランド茶など、静岡茶の新たなムーブメントを紹介しています。ぜひこちらもお目通しくださいまし!


『未知との遭遇』と『ふしぎなキリスト教』

2012-03-04 10:57:48 | 本と雑誌

 引き続きエンターテイメントのお話です。

 昨日(3日)、BSで久しぶりに『未知との遭遇(ファイナルカット版)』を観ました。1978年の日本公開時、高校生だった私には少し難解で、同時期に公開された『スターウォーズ』のほうがエンターテイメントとして楽しめたものですが、この歳になると、ホント、凄さが解りますね。

 

 とりわけ印象に残ったのが、ラスト近く、宇宙船に乗りこむ選ばれし人間たちが、神に祈りを捧げるシーンです。高校生の私だったらまったくスルーしていただろうし、ちょっと前の私なら、科学者の神頼みシーンの矛盾を嗤っていたと思います。

 

 

 ああいうちょっとしたシーンに目が留まるようになったのは、最近読んだ『ふしぎなキリスト教』という新書本のおかげです。2012年新書大賞第1位のベストセラーで、読まれた方も多いと思います。

 

 

 この本は橋爪大三郎氏と大澤真幸氏という2人の社会学者が、キリスト教の謎や近代社会への影響までを、対談形式で解説したもので、私は恥ずかしながら書店の新書大賞作品コーナーで初めて知って、一応目を通しておくか程度の軽い気持ちで買ったんですが、840円の新書で読んじゃっていいの?と思えるくらいコストパフォーマンスの高い内容。中学~高校で6年間も聖書を読まされ、「隣人を愛せよ」とか「愛は寛容なり」なんて女子学生が好みそうな詩的表現を暗記するだけで終わった感があったキリスト教の輪郭が、初めてクッキリ見えた気がしました。

 最近の富士山取材で知った、日本人の自然観や神道の特異性も、西洋社会の根っこにあるキリスト教を理解することで改めて見えてきた気がします。宗教学者ではなく、社会学者だからこそ、きわめて論理的で解りやすく解説できたんですね。

 

 

 とても興味深かったのは、自然科学も資本主義もキリスト教から発現したという指摘です。科学革命の担い手は、熱心なキリスト教徒でもあるという逆説的事実。16~17世紀、宗教改革と科学革命の時期が重なっていることに触れ、「とくにプロテスタントの中では人間の理性に対する信頼が育まれ、同時に世界を神が創造したと固く信じていた。この2つが自然科学の車の両輪だった」とズバリ指摘します。

 

 

 日本の神道だと、山にも森にも動物や植物にもそれぞれにカミがいて、自然に手を加えようとするとカミと衝突してしまう。だからそのつど地鎮祭をやったりする。浅間大社も富士山のカミの怒り(噴火)を鎮めるために造られた社ですね。・・・もともと地球上には、日本のような多神教の共同体のほうが圧倒的に多かったのです。

 

 ちなみに、なぜ一神教でGODが唯一無二の存在になったかといえば、大小数多くの民族が入り乱れていた大陸では、“安全保障してくれる存在”が必要となった。人間にとってGODは、預言者という仲介役によって「守ってください」とお願いし、保障契約する相手になったという解釈です。わけのわからない預言者の言葉が列記される旧約聖書の存在意義が、これでやっと解りました・・・

 

 

 

 

 一神教では、神が創造した世界は、神の残した“作品”であって、そこには神はもういない、後は人間に主権が託されたと考える。橋爪氏は「空き家になった地球を人間が管理・監督する権限がある。その権限には自由利用権も含まれていて、クジラを獲ってロウソクをつくってもいいし、石炭を掘り出してもいいし・・・こんなことはキリスト教徒しかやらない」「世界は神がつくったが、そのあとはただのモノ。ただのモノである中心で、人間が理性をもっている。この認識から自然科学が生まれる。・・・だから敬虔なキリスト教徒が優秀な自然科学者になる。優秀な仏教徒や、優秀な儒教の官僚などは、自然科学者になりません」と解説してくれます。

 

 

 ユダヤ教やイスラム教も一神教ですが、宗教法という絶対的な規律があって、優れた知識人はまず宗教法の解明と発展から入る。しかしキリスト教には宗教法がないので、信徒は一生懸命、祈りの方法を考えたり神学や哲学を極めようとした。思想の創意工夫の結果が自然科学なんですね。

 

 橋爪氏は西洋近代社会の本質として、「神を絶対化すれば、物質社会を前にしたとき、理性を備えた自分を絶対化できる。理性を通じて神と対話するやり方の一つが自然科学。数学の場合もデカルトみたいな考え方になり、公理系による数学の再構成が始まる。政治の場合には絶対王政や主権国家の考え方になる。教会の権威に頼らず自分の理性をたのむ点で、カトリックよりはプロテスタントのほうがこれらを真剣に発展させて行きやすい」と論じます。

 

 しかし、21世紀の今、誰の目から見ても、神から地球という留守宅を預かって勝手し放題やって、行き着くところまで来たのです。スピルバーグ監督は地球外生物をも神の創造物と考えて、「地球はもう手を尽くしましたから新たなフロンティアを与えてください、とりあえず道中の安全保障をしてください」とあのシーンで祈らせたんだろうか。別の意味もあるんだろうか・・・。日本人がああいう映画を創るとしたら、どんな“祈り”のシーンにするんだろう。

 自分が今、取り組んでいる酒造りのドキュメンタリーには、極めて自然に、祈りのシーンが撮れてしまったけれど、それにも意味があるんだろうか・・・。なんだか深く考えさせられます。

 

 

 とにもかくにも、この本もあの映画も、私のような宗教や自然科学のド素人にも、考えるきっかけをくれたのですから、世の中の現象や価値や、過去の検証、未来への提言・・・学者も映像作家もライターも、人々にちゃんと伝わるようにちゃんと伝える、という責任を忘れてはいけないと、つくづく思いました。