杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

「静岡市空襲の記録」を読んで

2014-02-03 10:07:23 | 本と雑誌

 今、近所の戸田書店城北店で、フツウの書店にしては珍しく古本市をやっています。古本屋さんは時々探し物があるときに立ち寄りますが(・・・目的もなくフラッと気軽に寄れる雰囲気の古本屋さんってなかなかないんですね)、こういう場所だと、偶然、思わぬ拾い物に出くわします。

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 今回、出会ったのは『静岡市空襲の記録』。昭和20年(1945)、今からちょうど70年前の3月から6月にかけ、B29の爆撃を受けた静岡市民の有志が当時の経験を書き綴った文集です。最初のページに記されていた被害状況を見て、ハッとしました。戦争を知らない世代にとって、ご近所の町名がクレジットされていることに、まず愕然とさせられます。

 

 今年の元日、母と『永遠の〇』を観に行ったとき、「なかなかよく出来たCGだ」「若い世代にも共感しやすい脚本だな」と、素人評論家ぶった目で見た自分とは対照的に、母が「ああいうことは、どこにでもあったんだよ」とポツンとつぶやいたことに胸を衝かれました。戦死した祖父や、その後、祖父の弟と再婚した祖母の写真が脳裏をよぎりました。

 

 母の言う「ああいうこと」とは、特攻隊のようなシンボリックな存在ばかりでなく、戦地に赴いた人、見送った人、還ってこれなかった人、新しい家族を作った人・・・あの時代のすべての人々を生き様を指しているのだと思います。

 

 

 この本を手にとったのは、母のそのひと言と、台本制作&MCでお手伝いしている上川陽子さんのラジオ番組『かみかわ陽子ラジオシェイク』で、以前、賤機山で毎年6月に行われる日米合同慰霊祭を取り上げたことが主たる動機でしたが、本を開いて、まず最初に町名クレジットを目にし、「そうか、今住んでるここも戦禍に遭ったんだ。あの時代は遠い映画の世界の話ではないんだ」とジワジワ実感しました。

 

 

 静岡市は昭和19年(1944)12月7日に長沼地区が初空襲を受けました。以降、

○昭和20年(1945)1月27日 安倍川河原

 

○同2月15日 牛妻ならびに麻機山林

 

○2月20日 山崎新田

 

○3月6日 西島、千代田、春日町、伝馬町新田・・・死者4名・重傷者1名

 

○4月4日 古庄、国吉田、小鹿、池田、沓谷、千代田・・・死者70名・重傷者20名

 

○4月7日 籠上・・・死者2名・重傷者2名

 

○4月12日 見瀬、小鹿・・・死者1名

 

○4月24日 八幡本町、石田、高松・・・死者26名・重傷者3名

 

○5月19日 千代田、上足洗、泉町・・・死者1名・重傷者1名

 

○5月24日 柳町、安西5丁目、田町1丁目・・・死者37名・重傷者1名

 

○5月26日 安西5丁目安倍川河原

 

○6月11日 詳細不明

 

○6月18日 詳細不明

 

○6月19日 全市70%焼失・・・死者1669名・重傷者800名

 

○6月20日 市中心部で艦載機による機銃掃射

 

 

 3・11の1ヵ月後、福島県いわき市の被災地に行ったとき、一つの集落で100人以上が命を落としたと聞いて、「いっぺんに100人も死んだ場所に立っているなんて・・・」と鳥肌がたったことを思い出しましたが、何のことはありません、自分が住んでいる町で70年前、2000人が亡くなっていたんですね。

 

 

 4月24日の空襲では、当時、静陵女学校と校名変更させられていたわが母校・英和女学院の中学2年生三津山登志子さんが亡くなったことが詳しく紹介されていました。

 一緒に下校した後輩の原田さんという方の証言によると、空襲警報が鳴る中、英和のある西草深から西平松(久能海岸近く)まで自転車で帰る途中、八幡の踏み切りあたりで自転車が故障し、近くの自転車店に立ち寄ったとき、上から爆弾が落ちてきた。原田さんは左に、三津山さんは右に逃げたが、気がついたときには当たり一面煙。三津山さんは意識はあったが、セーラー服をたしくあげると鋭利な刃物でえぐりとられたように乳房が切り取られ、鮮やかなピンクに白いぽつぽつがまざった胸が見えた。血はぜんぜん出ていなかったそうです。

 

 原田さんの自転車は目茶目茶に壊れたが、三津山さんの自転車は無事だったため、三津山さんの自転車を借りて迎えに来た家族と一緒に帰宅し、まもなく、三津山さんの訃報を知り、一人だけ助かった自分を責めたと。

 

 

 6月19日の大空襲を綴った記述では、水落町の佐藤ちよさんの「残った肉片と髪の毛」に衝撃を受けました。佐藤さんは夜23時頃の空襲で、避難した防空壕に爆弾が直撃。重傷を負い、表の警戒から戻ってきたご主人に助けられて、城東町にあった練兵場に逃げ込み、一命をとりとめたそうです。一部を転載させていただきます。

 

 「親類の者が手伝って壕を掘りおこした。父は胸と手に血がにじんている。次女(18)は頭がない。マネキン人形の首をとったよう。わずかに、ふさふさとした毛髪のついた肉片がちょっぴり。それをだいじに拾った。

 末娘は顔がやられている。鼻の真下を水平にえぐりとられ、あごと鼻がくっついてしまっていた。(中略)親戚の方が棺おけを用意してくださったので、それぞれ棺に納めた。必勝を信じて数珠を首にかけていた父の姿が痛々しい。次女は学校で集金した物を大事そうにかかえていた。

 (中略)火葬場もいっぱいで焼いてくれないので、特別に許可をもらって土葬にすることにした。リヤカーに3つの棺をのせて墓地に行った。途中いただいたアジサイの3~4本と、山道でキツネのちょうちんと千草の花を折り、墓地にそなえた。

 (中略)私たちはその後母の実家へ身を寄せた。母は夕方暗くなるまで働いてくる。70歳にもなっていたが食糧を集めるため一心に働いてくれた」

 

 

 淡々と事実だけをつづった文章でしたが、行間から佐藤さんの慟哭が聞こえてくるような気がしました。

 

 このほか、呉服町通りが炎上し、本通りに出た人々がお祭りの雑踏のように安倍川方面に避難した様子、最も被害が大きかった番町界隈の様子、静岡駅や郵便局が炎上した様子、日赤を守り抜いた人々、一人の脱獄者も出なかった静岡刑務所の様子など、映画さながらに映像が浮かんでくるようなリアルな記述満載です。

 

 この記録集は昭和49年(1974)、大学教授、歴史家、商店主、公務員、医師、弁護士、学校教諭等の有志で結成された「静岡市空襲を記録する会」が刊行したものです。こういう記録や証言を集め、編集するには、29年という歳月が必要だったのかもしれません。

 

 

 情報化時代の今、3・11の記憶は、スピード感をもってさまざまなカタチで記録されています。それでも、愛する人の不条理な死に直面したときの慟哭は、70年前と同じではないでしょうか。慟哭の深さは同じなのに、世の中のスピードが速くなりすぎて、本当は30年ぐらいかけ、かろうじて振り返ることが出来る辛い記憶を、どんどん“消化”しなければならないとしたら、人の心はちゃんと適応できるのでしょうか・・・。

 

 

 皮肉なことに、今、私はアルバイトで檀家が何百人もいる大きな寺院で雑務をしており、法事や墓参りのお世話もするのですが、普通にお葬式が出来て、お墓参りが出来るって幸せだなってふと思います。位牌が何百本と並ぶ位牌堂を掃除するときも、同僚は「なんとなく背筋が寒くなる」と言いますが、私は「この人たちは、自分が生きた証拠をちゃんと遺せている。誰かにちゃんと、認めてもらえてる」と気持ちが明るくなるのです。

 

 この『静岡市空襲の記録』に書かれた多くの死者も、家族にとっては辛い記憶ですが、家族が生きた証拠になったという意味では非常に価値があると思います。時間がかかっても事実に誠実に向き合い、丁寧に記し遺すことが大事だな、と。

 

 死を意識するとき、生きるということに真剣に向き合える。・・・どこかできいたような台詞ですが、ライターという職業の自分にとっては、いろいろな意味で真に迫ってきます。


古資料に見る明治大正の富士登山

2013-07-27 13:31:48 | 本と雑誌

 21日(日)、山梨県富士河口湖町にある県立富士ビジターセンターの講座【古資料に見る明治大正の富士登山】を受講しました。

 以前、中日新聞の取材でビジターセンターを訪問したとき、講座の予定を知って、今回は仕事というより個人的な興味と取材リサーチを兼ねての受Photo講です。

 

 

 

 

 

 中央高速河口湖ICと、東富士五湖道路富士吉田ICに近い、富士スバルライン沿いにある富士ビジターセンター。富士山世界文化遺産登録に合わせ、1階展示フロアを大々的にリニューアルしました。以前取材に行ったときは工事中でしたが、今回はこのとおり。

 ビジターセンタDsc02955ーの敷地に、山梨県側の世界遺産センターの建設も決まっているそうで、いまだに建設地が決まっていない静岡県側から見ると、やっぱり富士山への“投資”は山梨のほうが進んでいるのかなあ・・・。

 

 

 

 それはさておき、ビジターセンターでは毎月、「富士山ふるさと再発見講座」を開催中(こちらを参照)。7月21日は、元富士山レンジャーで“富士山好事家”を自称する萱沼進さんが、ご自身がコレクションする明治大正時代の富士山ガイドブックや雑誌の記述を紹介してくれました。萱沼さんのブログ(こちら)には興味深い富士山ネタが紹介されていますので、ぜひご参照ください。

 

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 今回、メインで取り上げたのは1905年(明治38)8月15日発行のグラフ誌【富士画報】。近事画報社という出版社が発行する【戦時画報】の特別版です。

 戦時画報は、日露戦争の戦時状況を伝えるグラフ誌で、国木田独歩が編集長を務めていたそうです。1905年8月といえば、日露戦争で日本が勝ってポーツマス条約が締結された頃。富士山で特集号を組んだのは、国中が戦勝祝いで盛り上がり、富士登山者がグッと増えたから、というわけです。今で言えば、世界文化遺産登録祝の特別号って感じでしょうか。

 

 この年、7月末に実際に富士登山をした作家杉浦野外坊と写真家・挿絵画家・編集者の4人が、新橋から鉄道に乗って御殿場口から富士登山をし、富士宮経由で帰ってくるまでの、今で言えば登山体験レポートが掲載されています。

 

 

 

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 戦時中のグラフ誌ながら国木田編集長の目利きのせいか、記事も挿絵も写真も秀逸のようです。

 

 講師の萱沼さんの読み下しを聞きながらパワーポイント資料を眺めただけなので、詳しい記述はわからなかったのですが、たとえば新橋から御殿場までの汽車の道中で、ラムネの瓶が破裂した「ラムネ爆破事件」とか、二百三高地の形状に似せた“二百三高地巻き”という女性の髪型が当時流行っていて、汽車で居合わせた「二百三高地美人」にうつつをぬかしていたとか、登山者の荷物を運ぶ強力(ごうりき)には、素人の登山者を騙して高額をふっかける輩が多かったが、御殿場登山道では強力の組合組織があり、“明瞭会計”をモットーに登山客の評判を高めていたなど、当時の庶民の旅行登山の様子が垣間見える“小ネタ”が盛り沢山。

 

 

 洋服&わらじで登るのが当時のトレンドで、わらじは最低4~5足持参、寒さ対策として和紙に油を浸した油紙と着ゴザが必携だったとか、登山を甘く見ていた同行者が高山病でダウンしたり、雨中に強行登山し、浅間神社で祈祷を受けたら奇跡的に雨が止んだとか、女学生の山ガール一行を追いかけてお鉢巡りを逆走したとか、登山のノウハウを実践レポートしながらも、当時の尖がった?知識人らしい自由闊達な描写。同じ戦時中でも、太平洋戦争時にはこんな雑誌は作れなかっただろうなあと思いました。

 

 

 

 ご存知の通り、富士山の登山道は、富士吉田口、須走口、御殿場口、富士宮口の4つ。江戸時代、さかんだった富士講の巡礼者は主に富士吉田口を利用していました。

 

 明治16年に東海道線が開通すると、御殿場口が一番人気に躍り出ます。丹那トンネルが出来るまで、東海道線は今の御殿場線を走っていたのですね。で、駅から一番近い登山口が御殿場だったというわけです。

 萱沼さんがコレクションしている当時の絵葉書がこれ。SLをバックDsc02966にした富士山、かっけー!ですよね。

 

 

 

 

 

 【富士画報】では、東京からのお勧めルートとして①御殿場口、②富士宮口(鈴川駅から大宮まで鉄道馬車利用)、③須走口(御殿場から鉄道馬車で要3時間)、④富士吉田口(東京から最も不便)と紹介しています。

 

 富士吉田口は、現代では最も登りやすく、登山者が最も多い人気登山口ですが、当時は大月まで汽車で行き、鉄道馬車を乗り継いで登山口まで半日~1日かかってしまっていたようです。

 

 

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 こちらは、萱沼さんの古絵葉書コレクションでビビッときた「金明水」。山頂近くの湧水スポットで、御殿場の地酒「金明」の酒銘の由来となった水です。地酒「金明」についてはこちらのブログもぜひ合わせてご覧ください。

 

 

 

 

 

 萱沼さんの富士山講座第2弾は、9月8日(日)13:30~15:30から「忘れられた富士講~鳴沢村山臣講関連碑をめぐる考察~」が開催されます。受講無料。興味のある方は富士ビジターセンターへご予約ください。fuji-v.c@peach.ocn.ne.jp

 


酔読ノススメ追補

2013-04-27 00:11:06 | 本と雑誌

 eしずおかのコラムサイト『日刊いーしず』で隔週連載中の地酒コラム「杯は眠らない」第7回Photo
を26日、更新しました。松下明弘さんの【ロジカルな田んぼ】の発行を記念し、私の書棚の“熟成本”をいくつか紹介しています。

 

 

 このコラムで紹介した、フリーアナウンサー國本良博さんに日本酒の本を朗読してもらった『酒と匠の文化祭』でのエピソード、事後報告になっちゃいましたが國本さんに「載せました」と報告したところ、思いがけず、國本さんも今月、自伝本を出版されたことを知って、あわてて書店に走りました。

 

 

 

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 タイトルは【くんちゃんのはなしのはなし】(マイルスタッフ刊・1785円)。國本さんが1973年から2009年まで勤め上げたSBS静岡放送時代のアナウンサーキャリアをまとめたもので、なんと、伝説のバンド・ケッタウェイズの未公開ライブをおさめたDVD付きです。

 

 

 「杯は眠らない」でも書いたように、國本さんとは1995年の静岡市南部図書館地酒講座からのお付き合いで、それ以前の國本さんは、まさに、中学~高校生時代にハマっていたSBSラジオのパーソナリティくんちゃん、でした。ページを読み進むうちに、『1400デンリクアワー』『ぶっちゃけスタジオCut in ! 』『夜をぶっとばせ』等など、懐かしいタイトルが次から次に登場し、一気に10代の頃にタイムスリップしちゃいました。

 

 まずビックリしたのは、國本さんが入社2年目にジョン・ウェインに突撃インタビューして、ちゃっかりサインをもらったというお宝エピソード。若者の、コワいもの知らずの突破力って貴重だなあ~としみじみ思います。私も20代の頃は・・・まぁいろいろやらかしたもんなあ(苦笑)。

 AMラジオの深夜放送を聴かなくなって久しくなり、最近はどんなプログラムがあるのか、とんと分からないのですが、少なくとも國本さんがバリバリ現役の頃のSBSラジオって本当に面白かったと記憶しています。本を読んでみて、なるほど、番組の裏方さんたちも、本当に面白がってずいぶん大胆なことをやっていたんだなあとナットクできました。

 

 

 

 

 今、國本さんは静岡第一テレビの夕方の情報番組にレギュラー出演されていますが、第一テレビとは浅からぬ縁があったことも本書で知りました。もちろん、局をまたぎ、競合同士の壁を越えてまで、この人を使いたい、と思わせる國本さんの実力があってのことですが、番組制作者の中に、情熱や志のある人がいなければ、またそういう人との出会いがなければ実現できないでしょう。

 

 出版の世界でも同じです。松下さんが日経新聞から本を出せたのも、松下さんの実力もさることながら、よき編集者や協力者との出会いがあってのこと。・・・私も、【地酒をもう一杯】を出せたのは、当時の静岡新聞出版局に平野斗紀子さんという編集者がいたからでした。鈴木真弓の著作本として出せなかったことを残念がってくれた酒友もいましたが、それが、私の当時の実力。未だに自分の名前が表に出た著書がないのも、私にそれだけの力がないのと、今、身近に「本を作ろう」と言ってくれる編集者がいないから。よき編集者との縁も、実力のうちなんですね・・・。

 

 

 なんだか自虐的な気分に陥っちゃいそうで、やめときましょう(苦笑)。とにかく、國本さんが局アナの枠を越えた行動力と人脈を持つ、真に実力のあるアナウンサーだということが、今まで知らなかった数多くのエピソードから伝わってきました。

 

 

 そんなこんなで、読み進めていったら、静岡の地酒との出会いもちゃんと書いてくれていました。私の名前や、静岡市南部図書館地酒講座のこともしっかり。・・なんだかジーンとしちゃいました。大切な大切な、36年9ヶ月のアナウンサー人生の中のエピソードに加えてもらえたなんて、スゴイことです。

 以前、ご本人から、当時の資料が欲しいといわれて提供したことがあったのですが、こういう形で世に発信し、記録してくれるとは・・・。私の活動を、自分の本で紹介してくれたのは、松崎晴雄さんに次いで2人目です。やっぱり、しずおか地酒研究会の草創期から支えてくれたこのお2人なんだなあと、心底手を合わせたくなりました。

 

 

 70年代から2010年代にかけての、静岡のテレビラジオ放送の歴史を総覧できる貴重な史料ともいえる【くんちゃんのはなしのはなし】、谷島屋、吉見書店、江崎書店はじめ、ネットでも入手できます。國本さんファンはもちろんのこと、ケッタウェイズやデンリクアワーを懐かしいと思える世代は必読ですよ♪

 

 

 

 『日刊いーしず』地酒コラム「杯は眠らない」第7回で紹介したのは古い本ばかりですが、今ではネットでカンタンに入手できますので、連休中の寝酒・昼酒のお伴にしていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 


祝!松下明弘著『ロジカルな田んぼ』発刊(その2)

2013-04-11 12:16:21 | 本と雑誌

 松下明弘さんの本『ロジカルな田んぼ』発行にちなんでの写真紹介つづきです。

 

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 1996年10月27日。青島孝さんが静岡県沼津工業技術センターの試験醸造に研修生として参加しており、有志で陣中見舞いに行きました。

 

 

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 松下さんが気になるのは、やっぱり米を蒸す工程。甑(こしき)の構造をじっくり観察していました。

 

 

 

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 1996年12月8日。しずおか地酒研究会の『年忘れお酒菜Party』。農家のお母さんたちの伝承郷土料理と山田錦の玄米ごはんを味わう忘年会で、当時、静岡新聞社で農産物情報誌『旬平くん』を編集していた平野斗紀子さんが司会進行をしてくれました。松下さんは初めて育てたとは思えない堂々とした山田錦を披露。ちなみに玄米で食べたのは永谷正治先生が調達してくれた徳島県産の山田錦です。松下さんの米には手をつけていませんのでご安心を(笑)。

 

 

 

 

 

 

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 年明けの1997年1月。いよいよ松下米の初仕込みです。現場で「松下の米は胴割れしない」と真っ先に評価した杜氏の富山初雄さん。

 

 

 

 

 

 

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1997年1月25日。初搾りの日は松下さんも立会い、上槽作業に特別参加しました。

 

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 洗い場で、タメに残ったもろみの米粒をすくって食べる松下さん。一粒たりともムダにしたくないんですね。なんだか正しい「お百姓さんの姿」を見ました・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  こうして生まれた喜久醉純米大吟醸松下米。最初の1997年製造酒は、未だに空けられず、冷蔵庫の奥底で眠り続けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後におまけ。1997年のデビュー時に作らせてもらった松下米のしおりです。当時は私が自分のワープロで打ち込んでプリントしたものを、簡易印刷で刷って、青島酒造のみなさんが1枚1枚朱印を手押しした、完全アナログチラシ(苦笑)。ささやかながら、この酒の誕生に関わることが出来て幸せです。

 

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祝!松下明弘著『ロジカルな田んぼ』発刊(その1)

2013-04-11 11:32:56 | 本と雑誌

 2日のしずおか地酒サロンではサプライズがありました。『喜久醉純米大吟醸松下米』でおなじImgp1278み、稲作農家の松下明弘さんが、【ロジカルな田んぼ】(日経新聞社発行)を4月10日に発行、と発表したのです。本を書いているとは聞いていましたが、こんなに早く、しかも日経新聞社から全国発売とは、ビッグサプライズです。

 

 

 この日は講師の松崎晴雄さんと私が会を代表して見本を頂戴しました。それから連日仕事であわただしい日が続き、風邪をこじらせたりもして、合間合間に各章をつなぎ読みする程度でしたが、松下さんが田んぼや酒の会など折々で熱く語っていた、稲作という仕事への真摯な姿が口語体に近い簡易な表現で、誠実に再現されていたことはしっかり読み取れました。「ライターが聞き取って理解したような言葉をつなぎ合わせるのとは、やっぱり違う・・・」ということも、すぐに解りました(苦笑)。

 

 

 

 

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 松下さんはご存知の通り、日本でおそらく初めて、山田錦の有機無農薬栽培に成功し、静岡県では初めて個人で農水省から品種登録を受けた「カミアカリ」を作り、大きな面積すべてで有機JIS認定を持つ県内唯一の稲作農家です。そういう彼が、「農作業の一つ一つには、すべて意味がある。その意味を知れば、工夫の余地が生まれ、これまでにない新しい農業が可能になる。農業とはどんな仕事かを、一般的に、ここまで技術ディティールに踏み込んで解説した本は、これまでないはず。」という本です。

 

 

 

 門外漢の勝手な心象で言えば、ひょっとしたら日本の農業に革命を起こす本になるかもしれない。・・・もう少し時間をかけてじっくり読み込んでみたいと思いますが、とりあえず、松下さんにどんな発刊のお祝いがいいかと考え、自分に出来ることといったらこういうことしかないなあ、ということで、本書でもドラマチックに紹介されている松下さんと青島酒造との出会いにちなみ、『喜久醉純米大吟醸松下米』という酒が生まれた1996年から97年にかけて、私が撮りためていた写真を2回に分けて紹介します。当時を知る方々にとっては懐かしいショットだと思います。記録用のプリント写真なので画像の粗さはご容赦くださいね。

 

 

 

 

 

 

 

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 日付が見当たらなかったのですが、。1996年6月、山田錦の田植えです。苗を疎に植える(一株2~3本の苗を間隔を空けて薄く植える)ので、傍目には苗だか雑草だかよくわからない(苦笑)。本当にこれで米が実るのかなあと心配でした。

 

 

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 1996年6月23日。しずおか地酒研究会で山田錦研究の大家・永谷正治先生を招いて地酒塾『お酒の原点・お米の不思議』を開催。その後の有志による現地見学会で松下さんの田んぼを先生に見ていただきました。

 

 

 

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 1996年8月末~9月初め。日付は不明ですが、出穂の頃です。あんなにスカスカだった田んぼがこんなに美しく黄緑色に輝いていました!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 1996年10月5日。再び永谷先生を招いて田んぼ見学会。青島孝さん(右端)がニューヨークから帰国して2~3日後で、彼の最初の仕事?が、この田んぼ見学会でした。

 

 

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 河村傳兵衛先生が、初めて実った松下さんの有機無農薬の山田錦を根っこから持ち上げる貴重なショットです!

 (続きはその2へ)。