杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

『震災大臣特命室』を読んで

2011-07-07 16:55:48 | 国際・政治

 復興担当大臣のドタバタ交代劇には日本国中がため息をつかされたと思います。政治家の姿勢が改めて問われる中、折も折、広報のお手伝いをしている上川陽子さんの後援会主催セミナーで、阪神淡路大震災の復旧・復興を担った当時の震災担当大臣・小里貞利さんをお招きすることになり、小里さんの著書『震災大臣特命室~震度7と闘う男たちの記録』を通読中です。

 

 

 小里さんは鹿児島県出身。鹿児島県議会議長等を経て、1979年に衆議院議員に初当選し、労働大臣、北海道沖縄開発庁長官、自民党総務会長などを歴任され、2005年に政界を引退。薩摩隼人らしく80歳になられる現在もお元気で、今回の東日本大震災に対する識者インタビュー等でも明快な受け答えをされています。

 

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『震災大臣特命室』が出版されたのは、阪神淡路大震災の発生から半年後の1995年7月。被災地では応急・復旧から本格復旧へようやくこぎつけたという段階での発行ですから、政府の初動態勢を現場サイドから記録したドキュメントとして興味深く読みました。震災担当大臣がこのタイミングでハードカバーの本を出せるとは、今の政府ではちょっと想像できませんよね・・・。

 

 

 小里さんが村山総理から震災担当専任の国務大臣に指名されたのは震災発生4日後の1月20日。その日のうちに神戸へ飛んで、現地対策本部を立ち上げ、21日には早くも記者会見で特別立法の検討に言及(特別立法は約2ヶ月後の3月27日までに16本成立)。22日には現地対策本部第1回会議が開かれ、23日には小里大臣を補佐する『地震対策担当大臣特命室』が設置されました。

 

 この特命室には11省庁の課長補佐クラスの若手精鋭が集結し、前例のない行政組織として大いに機能したそうです。本書の中には、特命室スタッフの手記が実名で掲載されていて、この部分も興味深かった

 

 その中に、特命室が発足して4カ月ほど経った時の懇談会で、そのリーダーシップを讃えられた小里大臣が「ここにいる面々は各省庁からの精鋭が集まってきており、まさにミニ政府だ」と語ると、「全員が小里大臣の門下生だ。小里スクールだ」と答えたスタッフ。

 

 また別のスタッフは「もともと発足時に現地対策本部とともに各省幹部級職員を震災対策の責任者として任命し、小里大臣の指揮下にあることをはっきりしておいた事実はあるものの、政府が小里大臣のもと一体となって震災対策に取り組む姿勢がいかに徹底していたかが実感できる毎日だった」「大臣と一体となって未曾有の大都市直下型大震災の応急・復旧対策に力の限り働いた特命室の存在は、震災史に大きく残ることは疑いない」と述べています。

 官僚が実名でここまで自信を持って書くというのは、特命室という組織がうまく機能していたことを示していると思いました。非常時とはいえ、エリートたちの混成組織ですから、尊敬できるリーダーの存在と協調性が何より必要だったでしょう。

 

 小里さんは巻末で、危機管理の上で必要不可欠な事項を『強力なリーダーシップ』『強力な組織』『臨機応変』『現場第一主義』『重要な広報』の5つに柱にまとめておられます。これ、言葉で言うのはカンタンだけど、解釈や実行のタイミングをはきちがえると大変なことになるって、現政権を見ていると感じますよね・・・。

 

 

 いずれにせよ、阪神淡路に比べ、今回の震災は地震・津波・原発の「重複被害」で、被災地域は約5倍。小里さんご自身はどんな思いで見ておられるのか、14日のセミナーが楽しみです。後日、ご報告しますね。


Shakeしずおか再び!

2010-01-27 14:13:46 | 国際・政治

 25日(月)夜は、上川陽子さんの事務所で『shake(シェイク)しずおか』編集会議が開かれました。

 

 

 shakeしずおかというのは、1997年7月から98年4月にかけて4回発行されたコミュニティマガジン(カラー32ページ)で、静岡市内の主要書店でも1冊500円で販売されていましたから、見覚えのある方もいるかもしれません。発行元は陽子さんの政策コンサルタント会社・グローバリンク総合研究所で、ご本人は当時はまだ衆議院議員になる前。わがまち静岡の履歴書を描いてみたいという陽子さんの熱意に、地元支援者やさまざまに縁のあったエディターやカメラマンたちが共鳴し、ボランティアで作った雑誌でした。

 今振り返ると、カメラマンの水野茂さんや多々良栄里さん、レ・サンクの田嶋清子さんや石垣詩野さんなどそうそうたるプロたちが協力していたんですね。

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 私はご縁のあった陽子さんを、雑誌づくりという自分のスキルを通して応援できるなら、とスタッフに加わり、雑誌のコンセプトを整理し、コーナー設定、タイトル作りをして、『職業(しょくわざ)』という静岡のプロフェショナルたちを紹介するページを担当しました。

  1回目は静岡中央署初代駅前交番所長の及川宣雄さん。静岡県警初の青年警察官長期海外研修生としてイギリスに留学し、県警本部初代国際捜査課係として県内の主に国際犯罪捜査に従事した語学堪能な警察官です。警察関係者にインタビューするのは初めてで最初は緊張しましたが、及川さんはとてもソフトで人懐っこい紳士。「警察官は道端に立つ不動明王たれ」という凛としたお言葉が、昨日のことのように甦ってきます。

 及川さんは昨年7月、(財)静岡観光コンベンション協会で吟醸王国しずおかパイロット版上映とトークセッションを開いていただいたとき、県トラック協会代表で会場に来ておられ、試飲の席で「スズキさ~ん、久しぶり~」と声をかけてくださいました。お会いするImgp1863_2のは10数年ぶりなのに、一目でわかり、思わず大はしゃぎしてしまいました。

 

 ちなみに及川さんを紹介した1997年7月の創刊号は、裏表紙が『忠正』吉屋酒造さんの全面広告です。「宝暦元年創業」の暖簾を、昨年降ろしてしまった忠正さん…なんだか皮肉なご縁です。

 

 

 

 

 2回目は花城ハムの花城光康さん。静岡県で初めてドイツで修業したハムソーセージ作りのマイスターです。モノづくりの職人さん紹介ということで、この回はイラストルポ形式にしてみました。

Imgp1864  私は小さいころは漫画家志望で、独学で線画タッチの絵を描いていて、ライターになりたてのころは、アルバイトでテレビやビデオのコマーシャル絵コンテなどもちょこちょこ描いていました。

 民俗学者でアウトドア作家の遠藤ケイさんのように、活字の原稿とイラストを組み合わせたイラストルポみたいな記事を発表できる機会があったらなぁと願っていて、当時、連載を持たせてもらっていた毎日新聞朝刊『しずおか酒と人』と、このshakeしずおかで実現することが出来ました。

 Imgp1867 私がこういうスタイルの記事を書くことを知らない人も多かったので、そこそこ反響が来て、3号の静清中央卸売市場セリ人の大月隆介さん、4号の馬場製菓・馬場昌子さんも同形式で紹介させてもらいました。

 

 

 …97~98年当時は、しずおか地酒研究会の活動と、毎日新聞の連載と、静岡新聞社刊『地酒をもう一杯』の執筆取材等で、酒の活動にフル回転していたころ。よくこんな手のかかる原稿を描いていたなぁと自分でも感心?してしまいます。一生のうちで、知力体力がみなぎる働き盛りといわれる時期があるとすれば、私のピークはこのころだったかもしれません。

 

 

 雑誌の仕事が減ってしまった今、アナログの極致ともいえるこういうイラストルポをオファーしてくれる媒体は皆無で、自分もペンを持って手描きで何か描く、なんて習慣をすっかり無くしてしまいました。

 

 十二支が一回りした今年、陽子さんから思いがけず、『shakeしずおか』をウェブ版で復活させたいと声をかけられ、久しぶりにshakeしずおかを読み返してみました。

 自分のページ以外にもじっくり目を通すと、高齢者の生き方、婚活、子育て、町内会のつながりや地域の行事の価値など、今に通じるトピックスが満載で、「これは10年先を行っていた雑誌だなぁ」と自画自賛したくなる境地に。私の『職業(しょくわざ)』コーナーだって、NHKプロフェショナルの先駆けみたいだし(言い過ぎか…笑)。陽子さんも「この雑誌づくりが原点だった。もう一度原点を振り返りたい」と真摯に語ります。

 

 

 ウェブ版でどこまでそのエッセンスを復活させることができるか、これは陽子さんの政治活動の応援云々以前に、地域で活動するクリエーターの挑戦ステージ、という気持ちで取り組めたらと思っています。

 新生shakeしずおかについては、こちらをぜひご覧ください。

 

 またアナログなイラストルポが却って新鮮だ!と思われる奇特な方がいらしたら、ぜひお仕事ください(笑)。


ニュービジネスに田母神さん!

2009-09-13 17:58:31 | 国際・政治

Imgp1350  11日(金)~12日(土)と水戸市で開催された『関東圏ニュービジネス協議会会員交流会』に参加しました。ニュービジネス協議会という団体は関東地区に11団体あって、経産省管轄の組織なので静岡県ニュービジネス協議会も関東圏に含まれます。

 静岡からは、鴇田勝彦会長(TOKAI副社長)、秋山雅弘副会長(アルモニコス社長)、西村晴道中部部会長(西村建築設計事務所社長)、西村寿子さん(同専務)、末永和代専務理事と事務局の渡邊さん、そして私の計7名が代表で行ってきました。

 

 

 私はこの団体の広報誌を20年近く担当していて、全国で開かれる交流会やシンポジウムも数多く出席しましたが、基調講演の講師を務めるのは話題の企業の社長さんとか経済評論家や学者の方など、経済畑の専門家がほとんどでした。

 Imgp1355 ところが今回の講師は、あの、防衛省前航空幕僚長の田母神俊雄さん。この人とニュービジネスに何の関連があるのかピンと来ませんが、幕僚長を更迭され、退官した後、テレビのコメンテーターや講演会で引っ張りだこになり、著書も多数出版して話題になっているところを見ると、この人の思想や発言に共感する国民も少なくないんですよね。主催者の「政権交代というこの歴史的転換期に、日本という国を見つめ直す意味で傾聴に値する方」という紹介に、なるほどと思いました。

 

 

 約1時間半の講演で、日本とアジアを取り巻く近現代史のポイントを、年代や人名も的確に、ものすごい記憶力で理路整然と語る田母神さん。…下手な大学教授や歴史家の講義よりずっと聴きやすく、講演で食べていけるだけのスキルを持った人なんだ…!というのが第一印象でした。史料をよく読んで分析し、本や論文をご自分できちんと書いている証拠ですね。

 

 

 歴史好きといっても私の場合、明治以降の近現代史は教科書程度の知識しかなく、テレビや映画などの映像作品から受けるイメージに洗脳されている部分もあります。とくに日本の軍部が暴走し、中国や朝鮮半島やアジア諸国を侵略し、植民地にして乱暴狼藉を働いて、欧米から“懲らしめられた”という構図を教え込まれたこと。自分がもし子どもに歴史を教える教師の立場だったらやりにくいだろうとつくづく思います…。

 それでも、この年齢になって歴史の見方に多少の幅が持てるようになり、メディアの情報が“都合よく加工されている”現場を知ったりすると、あぁ、今までの報道や教育って、100%鵜呑みにしていいんだろうかと考えさせられます。

 

 

 田母神さんのお話で印象に残ったのは―

 19~20世紀にかけ、西欧列強が弱小国に行った植民地政策と、日本がアジアでとった植民地政策は違っていて、たとえば帝国大学は、東京・京都・東北・九州・北海道・京城(ソウル)・台北・大阪・名古屋の順に設立した。大阪や名古屋よりも早く、ソウルと台北に高等教育機関を設けていたなんて知りませんでした。

 

 

 朝鮮人も日本の士官学校に入り、日本軍の幹部となり、中には天皇から勲章を与えられた者もいた。朝鮮王族は日本の宮家から妻をめとった。中国清王朝のラストエンペラー溥儀の弟も確か日本の皇女を迎えたんですよね。相手国の王家の血筋というものを、それなりに尊重し、教育をほどこし、投資もしようとしていた。占領政策の一環とはいえ、イギリス、フランス、ロシアあたりの政策とは違うわけです。イギリス王室が王女をインドに嫁がせるなんてあり得ないでしょう。

 

 

 第2次大戦が終結し、アメリカ占領軍は民間検閲局というところで6500人のスタッフを使って、日本のメディア統制を図った。新聞社や出版社に「あの戦争はやむを得なかった」とか「東京大空襲や広島長崎の原爆投下はあきらかに民間人の犠牲を承知していた作戦で国際法違反である」とか「戦勝国が一方的に裁く東京裁判も国際法に違反している」なんて書かせないためで、6500人中5100人が日本人のアルバイトだった。彼らは、日本の銀行の頭取が年収2万円ぐらいだった時代、3万円もの高賃金で雇われていて、自分の仕事のことを一切口外しない条件だった。朝日新聞が鳩山一郎氏の「東京大空襲と原爆投下は国際法違反」の発言を記事にしたときは、2日間発行停止処分を受けた…。

 

 日本人が自虐的になってしまうのは、戦争を自らの手で総括できない状態に置かれた、こんなペン狩りみたいな時代があったせいかも…。ライターなのにこういう史実を知らずにいたことを少し恥ずかしく思いました。

 

 

 1時間半、息もつかせぬ勢いで、次々と近現代史の知られざるエピソードを語りつくした田母神さんですが、どうとらえるかは人によって違うと思います。講演終了後には「思いっきり右翼の話だったよなぁ」と感想を漏らす参加者もいました。

 今の私には田母神さんのお話を客観的に分析判断するスキルがないので、この日の話も“鵜呑みにせず”、とりあえずは関係史書をいろいろと読んで比較してから、自分なりの解釈をしてみたいと思います。

 ニュービジネスとは、やっぱりあんまり関係なかったかもしれませんが、知的刺激を大いに受けた講演会でした。

 

 

Imgp1357  この後、分科会で、2010年3月に開港する茨城空港の概要を聞きました。航空自衛隊百里基地の民間活用で、羽田と成田の補完的空港という性格上、静岡空港とはあまり比較にならない話でしたが、決まっている就航路線がアシアナ航空のソウル路線と聞いて、日本の地方空港を一つ一つ攻めていく韓国の航空政策のしたたかさを改めて実感しました。

 

 末永専務から「静岡空港のことについて聞かれたら静岡代表できちんと報告して。真弓さん、空港は取材でいろいろ知っているでしょ」と言われ、ドギマギしましたが、茨城県の空港担当者とJTB水戸支店長のプレゼンで時間オーバーしてしまい、発言時間なし。少しは静岡空港の宣伝もしてやろうと思ったのに肩透かしで終わってしまいました…(苦笑)。


ブレずに応援し続けること

2009-06-27 12:43:41 | 国際・政治

 25日(木)は知り合いの社長さんに声を掛けられ、静岡県知事選挙に立候補した某氏の“市民勝手応援団”のランチミーティングに参加しました。某氏には、過去2度ほど取材でお会いしたことがあり、思想や信条や静岡県の地域づくりに対する考え方をいわば“代筆”した経験があるので、立候補者4人の中では、なんとなく親近感を持っていました。ランチミーティングに本人は来ませんでしたが、立候補を直接うながしたという勝手応援団の団長Aさんが、某氏の人となりを熱く語り、20人余りの参加者は、立候補表明までの“裏話”に興味シンシンで聞き入りました。

 

 私は衆議院議員の上川陽子さんが2000年に初当選した時に、選挙ボランティアをした経験があります。その時は、初めての体験だったこともあって、「選挙って、武器を使わない戦争みたいだ」と実感しました。小選挙区制だけに、狭いエリアの濃密な力関係をまざまざと見せつけられ、国政を担う国会議員を選ぶのに、地元のせせこましい話に左右されるなんて…と不条理に感じたこともあります。

 

 それに比べると、県知事選挙は全県エリア対象で、立候補者を直接知る人よりも、知らずにイメージだけで選ぶ有権者が圧倒的に多い。近づく総選挙の情勢に影響される人も多いでしょう。ここに来て、急に地方首長の言動が注目され始めていますしね(他県のタレント知事が国政に出ようが出まいがどーでもいーけど、過去、知事選に出た時と、主張や公約にブレはないんですかねぇ?)

 

 あるイメージや先入観を持たれた人やモノの本当の価値を、多くの“傍観者”に伝えるのに、かなりの時間や根気が要ることは、地酒の応援活動を通して身に染みています。

 消費右肩下がりの日本酒、しかも酒どころのイメージがまったくない静岡の酒のネガティブイメージを変えようと走り回ったこの20余年、まだまだイメチェンに成功したわけではありませんが、このところ、自分よりも若い世代や、地酒を重要視していなかった行政が静岡の酒に注目し始めた例が少しずつ増え、自分が応援していたものが、真に価値あるものなんだと、嬉しい手応えを感じています。

 

 

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 25日夜は、焼津松風閣で、志太平野美酒物語2009の反省会があり、私は今回運営のお手伝いはせず、むしろ映画上映で負担や手間数をかけたにもかかわらず、メンバーに呼んでいただきました。

 

 今年の美酒物語は蔵元ブースを中央に配置したり、きき酒クイズ方式を変えるなど、運営方法を変えた部分もあり、来場者からはさまざまな意見が寄せられたようですが、おおむね好評だったとか。「真弓さん、総括して」と言われ、そんな立場じゃないのにと焦ってしまい、ロクな意見が言えませんでしたが、“市民勝手応援団”みたいな自分を、こういう場に呼んでくれて、立場を尊重してくれる蔵元さんたちを見ていたら、「利害関係のない人たちに、真価を伝え、理解してもらう努力を、ブレずに続ける努力」を理解してもらえたようで、とても嬉しく思いました。

 

 この、ブレずに応援する・させてもらえるという人間関係は、利害関係よりも薄いように見えますが、実はとても密度は高い。万人が許容できる程度のメリットを共有するだけで、後は信頼です。最後にモノをいうのは、「この人は信頼に足る人物かどうか」なんですね。

 

 

 そこで今回の県知事選。立候補4氏のマニフェストや政見放送の内容自体は、どの候補も“もっともらしい、絵に描いたモチ”状態で比較優劣はつけられません。最後は「信頼できる、ブレない人物か」で選ぶしかないんじゃないか…と思えてきます。

 前述の立候補者某氏は、4年前に自分がインタビューして書いた地域づくりビジョンの内容とほとんどブレがなく、また立候補表明時の“筋の通し方”にも、信念や一貫性が感じられました。

 

 ちなみに、ランチミーティングの時、応援団長にこのインタビュー記事を見せたら、「すごいお宝記事!」と大喜びされました。代わりに持たされた某氏のパンフレットには、「もっとも好きなもの―酒・もっとも嫌いなもの―酒」と書いてありました。某氏が見事当選したら、今度は酒を愛憎する理由をインタビューさせてもらいたいなぁ。


オマーンに静岡を売り込め!

2008-11-24 21:02:27 | 国際・政治

Dsc_0001  今日(24日)は後援会会報誌の編集を担当する上川陽子さんの感謝の集いに行ってきました。陽子さんの後援会では年末にグランシップでクリスマス感謝祭を行うのが恒例でしたが、今年は12月中に会場(大ホール)の予約が取れず、また解散総選挙の時期が不透明で準備が整わなかった等の事情で、この時期の、パーティー形式ではなく講演セミナー形式のプログラムとなりました。

 

 第1部は本人挨拶、後援会長挨拶と、地元静岡で結成50余年の歴史を誇る市民楽団コンセールリベルテのミニ演奏会。第2部は前オマーン大使の大森敬治氏と陽子さんの特別対談というコンパクトなプログラムでした。

 

 

 オマーン前大使を招いた理由は、陽子さんが今年5月に内閣府特命担当大臣としてオマーンを訪問したご縁から。

 中東のオマーンといえば、フツウの日本人ならサッカーW杯アジア予選の対戦国として聞く知名ですよね。正直なところ、オマーンもカタールもバーレーンも、地図で区分けしてみろなんて言われても困るんですが(苦笑)、6月のアジア3次予選は、ホーム横浜では3-0で快勝したものの、アウェイでは現地時間17時のキックオフで40℃の灼熱地獄の中、1-1の冷汗ドロー。もっと涼しい時間になってから始めればいいものの、日本のテレビ中継のせいで選手に過酷な試合時間を強いたなんてニュースになったっけ。まぁ、オマーンと聞いてもそれぐらいの情報しか記憶にありませんでした。

 実は今年2月、オマーンのハイサム遺産文化大臣が訪日され、閣僚では唯一の直系王族の方なので、天皇陛下ともお会いになっていたんですね。福田首相との間では公文書管理の重要性について意気投合され、政府間協力がスタート。公文書管理担当大臣の陽子さんが、日本の閣僚としては実に20年ぶりに、オマーンを訪問することになったのです。

 

 

 陽子さんも訪問前は、アラブという枠での“石油外交”の4文字しかイメージが湧かなかったそうですが、「実際に行ってみたのとみないのでは雲泥の差がある」と実感したようで、先日、会報誌の打ち合わせをしたときも、オマーン訪問の話を夢中になってしていました。

 

 

 

 日程は、最初にドバイに入り、とんでもなくハイスピードで都市化するオイルマネー国家の勢いをまざまざと実感し、次いで飛行機で1時間30分程度のオマーン首都マスカット入り。ドバイほどの勢いや華やかさはないものの、どこかホッとしたんだとか。インド洋に面したオマーンは、もちろんドバイのような都市化が進んでいるとはいえ、歴史と伝統と自然がほどよく息づく海洋国家で、アラブの中では独自の国際感覚を持つ国。陽子さんは「ドバイより人間味があって親日家が多い」と感じたそうです。アラブに属しながら、インド洋を介してインド、パキスタンをはじめとしたアジア文化とも融合してきたからなんですね。

 

 

 

 陽子さんが意外だと思ったのは、女性の社会進出。アラブ圏というと女性はショールで顔を覆い、人前では自己主張をせず、男性に庇護されているというイメージがありますが、オマーンでは30人の閣僚のうち女性大臣が4人もいて、ビジネスウーマンも結構活躍しているそうです。日本から女性大臣がやってきたということで、とくにオマーンを代表する女性たちが集まってくれたそうですが、その中には若くしてリラクゼーションマッサージの店舗展開で成功したという、日本にもいそうな女性起業家もいたそうです。

 

 Dsc_0009_2 大森氏は「もちろんアラブ的な男性中心のソサエティは存在しますが、女性には女性ならではのネットワークがあって、国際化の波を受けて次第に存在感を示すようになっている」といい、「日本、とりわけ静岡は、オマーンと同じように長い海岸線をもち、富士山のような素晴らしい自然にも恵まれ、産業の面でも伝統と革新がほどよく融合している。オマーンと実に気質が似ています。東京基準では見えないことが、静岡目線なら気づくということもあるでしょう。石油ではなく生活を通しての対話が出来るのでは?」と提言されました。

 

 

 ドバイやオマーンでは日本のメロンやスイカがVIPフルーツとして大変人気があるそうです。またアラブではサンダル履きが普通で、国王が公式行事で正装姿のときでも基本はサンダル。「静岡がサンダルの産地と知っていれば、大使時代にオマーンに静岡サンダルをどんどん紹介すればよかった」と大森氏。

 陽子さんは「静岡産のみかんやいちごやメロン、サンダル、下駄といった地場産品を積極的にアピールしましょう、サッカーもナショナルチームだけでなく小学生から社会人まで幅広い年齢層での交流をさかんにし、40℃のスタジアムでも動けるような体づくりをしたらいいと思う」とノリノリで応えました。

 

 

 

 静岡とオマーンが、国同士というよりは市民レベルでの生活文化交流を広げていくことで、石油外交一辺倒だった日本と中東の関係が、ひと皮剥けるんじゃないかと、私もワクワクしてきました。私が考える交流といったら、もちろん酒がなければ始まりませんが…!