杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

花博トークセッション「杜氏と樹木医 自然の育ちによりそう力」その2

2014-05-20 23:10:54 | しずおか地酒研究会

 5月17日の花博トークセッション『杜氏と樹木医 自然の育ちによりそう力』、休憩・試飲・吟Imgp0212 醸王国しずおかパイロット版試写をはさんで続きます。

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(鈴木)トークの続きを始めます。みなさまお酒の試飲はいかがでしたか?お口に合いましたか? こなみさん、吟醸王国しずおかの映像、久しぶりにご覧になったと思いますがいかがでしたでしょうか?

 

(塚本)はい、3回目ぐらいだと思いますが、あらためて心に沁みる映像だったと思います。イネの花が咲くシーンや麹室で祈りを捧げるシーン・・・自然を育み、その恵をいただく、まさにそのものです。

 

 植物園のスタッフにはよく話すのですが、手を掛けるのは当たり前、心を掛けるのも当たり前。両方掛けなさいと。手を掛け、心を掛けて、時を掛けて―はままつフラワーパークのテーマソングは「時を掛けて」というタイトルなんですが、やっと花が咲く。そして、1年は365日にあらず。1年はたった1回なのだと。桜もフジも1年に1回しか咲かないのだと。1年に1回、10日間しか咲かないのなら、残りの355日をかけて、枝葉を見ながら根元の状態をしっかり把握し、手を掛け、心を掛けて臨みなさいと話すんです。

 フジは21年手掛けてきましたが、21年ではなく21回。たった21回なんです。青島さんはどうですか?

 

(青島)おっしゃるとおりの感覚です。最初に酒蔵に入って8造り修業し、9年目から杜氏としてやらせてもらってちょうど10年。まだ18回なんです。夏場は原料になる米作りを地元農家の松下さんとやらせてもらっていて、米作りを含めて酒造りはトータル1年の作業です。春に種を蒔き、田植えをし、夏には草取りをし、秋に収穫し、そのお米で冬に仕込んで春に搾る。ちょうど1年サイクルです。ですからやはり〈1年に1回〉という感覚です。自分としてはあと20回はやりたいと考えています。

 

(鈴木)トータル38回になりますね。

 

(青島)そうです。あと20回ある、と思うか、あと20回しかない、と思うかは、心の持ちようだと思いますが、失敗は許されない。1年を掛けてじっくり取り組んでいく仕事だと理解しています。

 

 

(鈴木)今日のディスカッションのテーマ、私のほうで「自然の育ちに寄り添う力」と勝手につけさせてもらいました。ようするに人間の都合でコントロールするのではなく、自然のあるがままの育ちに辛抱強く寄り添う視点を、杜氏さんも樹木医さんも共有されているのではないかと思ったのですが、いかがでしょうか?

 

(塚本)私はスタッフに「木が12ヶ月、いつ、何をしているのか気づきなさい」と指導しています。落葉樹ならば、葉が落ちてから2月ぐらいまで少し静かにしていますが、呼吸はちゃんとしている。2月半ばくらいから根が出始める。3月、芽吹きのために必要な水分養分を地面の下で蓄え始め、地温が上がり始めると水を吸い上げ、蕾がだんだん膨らみ、花が咲く。梅も桜もそうです。私たちの目には見えない地面の下で動いているのです。

 

Photo_3  花が咲いた後、いつ次の準備が始まるか、といえば、フジの場合、4月末に満開になった後、5月末から来年の花芽の細胞が育ち始める。6~7月には細胞が充実し、8月に本格的な準備態勢に入ります。そして9~10月、寒さを感じ始める頃、花芽はコートを着る準備をするんです。霜や雪が降った時、中の花が傷つかないように油をかぶせる。そして3月頭、コートを脱いで花芽が膨らみ始める。12ヶ月間の花の状態に寄り添って手を入れるのです。それに逆らってしまっては、絶対に花は咲きません。12ヶ月間、すべてのものが、いつ、何をやるか、それに合わせて手入れをする。彼らの営みを知り、その上で私たちが何をすべきかを見定めるのです。

 

 自然というのは素晴らしい力を持っています。昔、私が生意気だった頃、自分が木を治療してやるんだ、治してやるんだと肩に力を入れてやった仕事は、たいていうまくいきませんでした。

 そのことに気づいて、「私のような未熟なものが触らせていただきますが、どうか教えてください」と頭を下げて、木の心に添うようにした。木に教えてもらう、といいますか、自分の心が整うようになってから、いい仕事が出来るようになりましたね。私は木の仕事をしなかったら、とても傲慢で慇懃無礼な人生を送っていたかもしれません。この樹木医の仕事を通して私自身が穏やかになり、真正面から木に向き合えるようになりました。

 

(鈴木)吟醸王国しずおかの映像で、青島さんが麹米に手を当てて念を捧げるようなシーンがありました。祈りを捧げるようなシーンは撮影中、多々見かけましたが、やはり「教えてください」という気持ちになるんでしょうか?

 

(青島)いや、こなみさんのお話をうかがっていてビックリしたんですが、まったく同じ感覚です。自分が酒造りをやってるんだと勢い込んでやっているときは、やっぱりうまくいかないんですよね・・・。

 

 杜氏さんの下についていた頃、麹造りがいまひとつ上手くいかないときがあり、杜氏さんから「嘘をつくのは人間だけだ、麹も酵母も正直だ」と言われたんです。そのときはピンとこなかったのですが、つまり、オレが造ってるんだという気持ちがどこかにあったんですね。実際に酒を造っているのは麹菌や酵母菌なんです。自分たちは彼らが元気よく健全に酒を醸してくれる場を整える、そういう役割なんです。

Photo_4  祈っているようなシーンといわれましたが、自分は大きな自然の営みの一部にしか過ぎず、何か少しでも役に立てればという気持ちで毎回臨んでいる、造っているというより育てている、というほうが正しいですね。そういう心持で酒造りに取り組むようになってからは、大きな失敗はなくなりました。

 

 そもそも麹菌も酵母菌も自分でこうなりたいという姿があり、こちらがよけいなことをするよりも、彼らが本来なりたい姿に導くことが大事なんです。本当に、寄り添って一緒に育つという気持ちですね。

 

 

(鈴木)それはこの仕事にとって肝になる、本当に大事なベースの部分ですね。とはいえ、やはりこれはボランティアでも趣味でもなくビジネスですから、フラワーパークならこの時期にこれだけの花を咲かせなくてはいけないという計算も必要でしょうし、青島さんにしたら、酒の状態を自然任せでお客さんの注文を無視していい、というわけにもいかないでしょう。やはり酒造りも植物園経営も、スペシャリストとしての理想と、経営者としての戦略が必要だと思います。お2人ともその辺の兼ね合いはいかがでしょうか?

 

 

(塚本)私の場合、はままつフラワーパークの運営に取り組む前、過去の入場者数を精査分析しました。またフラワーパークの60キロ圏内にどんな花の施設があるか、調べました。すぐ近くには熊野の長藤があり、加茂荘があり、島田のバラ園がある。有料無料にかかわらず花の施設を地図上にすべてマーキングし、有料ならいくらとっているか、データをしっかり取りました。

 

Photo_5  はままつフラワーパークの原資、一番お客様が認知をしてくださるのはいつなのかを見たら、年間入園者数の3分の2以上が、3~6月に集中していました。7月~9月はあわせて10%以下です。ということは、ふつうのお客様にとって真夏の、しかも坂が多いフラワーパークはお金を払って来るに値しないということです。10月から3%、11月は4%と少しずつ増えますが、とにかく数字の分析をして、3~6月を有料にして最も美しく魅せようと戦略を立てました。この時期の目玉は桜ですが、桜が最も美しい時期に、もっと美しくしようと着目したのがチューリップです。

 近隣でチューリップをやっているのは、ここから少し遠い、なばなの里です。桜とチューリップの園は東京の昭和記念公園のみ。近くに競争相手がありません。ならばチューリップを現行の10万球から3倍の30万球にしようと考えました。

 

 人間がいつ屋外に出て花見に行きたいか、心理を読み解くと、日本人は桜からなんですね。桜からゴールデンウイークまでがピークです。この間、徹底的に美しい園を造ろうと思いました。どんなにエネルギーを費やしても、7~8月は来てくださらない。でもこの時期なら、ちょっと種を蒔けばふわっと人が集まる。他の市場にはない競争相手の少ないものを商品にすればよい。そして最も得意中の得意であるフジを目玉にしようと。不得意なものを伸ばそうと思っても時間やエネルギーがかかります。

 ここにはもともと素晴らしい桜があり、チューリップの栽培もスタッフは慣れている。それに私の最も得意とするフジで、この期間、いっきにお客様を増やす。あとはみなさまが心豊かにゆったり自分の庭のように楽しむため、ハードルを下げるという戦略です。これはあしかがフラワーパークで成功した方法で、あしかがでは4月20日から5月中旬の1ヶ月間で、年間売り上げの大半を稼ぎます。この戦略は15年前に立てたものですが、自然の美しさを求める心理は変わらないだろうと思います。

 

 あしかがの場合は民間経営ですから、ある程度自由にできますが、はままつフラワーパークのような国公立植物園で閑散期に無料期間を設け、500円のお買い物券を渡すようなやり方はありえないそうです。でも条例を変えればよいだけのこと。私がはままつフラワーパークの就任を正式に受けるとき、「私は私財がなく、赤字になっても自分で補填するということはできません、私にあるものは情熱だけです。情熱をもって日本一美しい桜とチューリップの美しい植物園を創ります」と旗を掲げました。職員たちが迷ったときは、「日本一美しい桜とチューリップの園を創らなければならないんだ」と。それだけが私の持てる力でした。

 この1年、おかげさまで多くの方々に私の思いをみなさまに支えていただきました。経営者の責任とは目指すものを明確に示すことだと思いますね。

 

 

(鈴木)自然の育ちによりそう力がまさに経営のエンジンになったということでしょうか。自分が自分が、ではなく、いろいろなものを観察し、状況を冷静に分析し、お客さまの心理に沿う。マーケティングとひと言でいえば簡単ですが、人間の気持ちによりそう力というものも大きいと思います。

 青島さん、経営ではよく“選択と集中”という言い方をしますが、こなみさんのお話からも読み取れました。酒造りにも通じるのではありませんか?

 

 

(青島)そうですね。私は製造のほうから入りましたので、ここは譲れない、ここはこの程度の幅で許容できるということが経験の中で判断できました。全部こうできたら理想だが、それで経営が成り立たなくなってしまったら元も子もない。地域の伝統の技を事業として継承していくために、どういうふうに折り合いをつけていくか。そこが、経営者としての腕の見せ所だと思っています。

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 どうしても譲れない部分。具体的に言えば、酒は造っているんではなく育てているということ。先ほどの映像にもありましたが、人の手が直接原料に触れる工程は、米洗いと麹造りの2ヵ所だけです。これだけは機械には譲れない、人の手で守っていこうと思っています。

 それ以外の瓶詰めやラベル貼りは機械で手早くやったほうが酒の品質上、メリットがありますし、物流の面では瓶は一度に大量仕入れし、1本あたりの単価を下げる。幸か不幸かこうい伝統的な産業は無駄な部分がまだまだあります。私の酒造りのテーマは、技の継承と、もうひとつ、製造コストの削減なんです。

 

(鈴木)無駄が多いというのはなんとなくわかります。

 

 

(青島)無駄と言いますか、この業界では、在庫管理の時間やスペースにコストがかかっているという感覚がないように思います。私が以前いた金融業界では、それこそ1分1秒理詰めでやっていく仕事でしたから無駄は許されませんでした。酒造りというのは限りなく農業に近い仕事で、理屈では割り切れないものですが、だからこそ守るべきところを守るため、捨てなければならないところを仕分けし、なんとか採算ベースに乗せることができます。

 

 成功したビジネスモデルとは程遠いかもしれませんが、私が前の仕事でやっていたような、目先の利益を短期間で追うような仕事は長続きしないと思っています。今獲れる利益を少し我慢してでも、長く酒造りができるような会社にしていかなければと。昔の人がよく言っていた「損して得とれ」というような姿勢に学ぶべきものがあるんではないでしょうか。ちゃんと守るべき酒造りを守りつつ、一定以上の品質を保ち、経営が成り立つ、そういう会社を1年でも長く続けて行きたいと思っています。

 

 

(鈴木)お2人にとって理想の植物園、理想の酒蔵とはどういうものでしょうか?

 

(塚本)私は設計コンサルタントをやっていた頃と、あしかがフラワーパークの園長をやっていた時では人生観が180度変わりました。あしかがの大フジが最高に美しい時期に、お客様が心の底から「なんてきれいなんでしょう」と涙を流して感動される姿や笑顔を見て、こんな仕事冥利に尽きることはないと思いました。

 

Dsc00302  もう一つ、障害をもたれた方々やダウン症のお子さんたちが、私に飛びついてハグハグしてくれたことがあります。そういう子どもたちが喜んでいる姿を見て、私が創る植物園は、こういう子たちや心に傷を負った方、さまざまな重荷を背負った現役世代の方々にこそ見てもらいたいと心底思いました。そんな私を見て、娘が「お母さん、園長になって顔つきが変わったね、おだやかになった、笑顔が増えた、嬉しそうに話をするようになった」と言ったんです。

 

 はままつフラワーパークも、(障害者向けに)屋外にエレベーターを造ってください、フラワートレインももう1台買ってくださいとお願いしました。1台3000万もするので買えないと言われ、レンタカーを借りましたが、足腰の弱い方にこそ、桜やフジを見ていただきたい。次はエレベーターですね、来年造ってもらいます。

 とにかくこの園に来て心が豊かになって癒されてお帰りになれる、そんな園を創りたいと思っています。

 

(青島)前にやっていた投資の仕事は、しくみ上、誰かが儲かれば誰かが損をします。私はそういうところを割り切って仕事できる人間ではなかったと、今なら解るんです。酒造りを始めた頃は、ものになるかどうかわからない、とにかく自分のことで精一杯、という状態でしたが、今は、喜久醉で酒造りをやりたいと言って来てくれる若い同志たちもいます。自称ドリームチームキクヨイです(笑)。

 

 とにかく自分の人生を賭けて喜久醉を造りたいと言ってくる彼らは、経験は浅いものの、それを差し引いても余りあるだけのやる気と誇りを持っています。本当に信頼できますね。酒造りは一人では出来ない仕事ですから、“信じて託す”に値する存在です。その結果、先ほどみなさまが美味しいよと、笑顔をみせてくださったように、造り手も飲み手も幸せになれる。そういうところに、この土地へ戻ってきて酒造りをする価値を感じています。

 

 Photo_7 そのためにも、この地域のよさというものを酒に込めていきたいですね。一部ですが地元で米作りもやっていますし、今後は生産量を増やしたいと思っています。うちで酒造りをしたいという若者が米作りから1年を掛け、この土地の四季と共に造っていく、そういう酒蔵になれたらいいですね。大きくして利益を上げるよりも、みんなで見届けられる規模に抑え、長く続け、造る喜びをみんなで分かち合える・・・そんな酒蔵を60歳ぐらいまでに創れたらいいなと。

 

 

(鈴木)お2人の仕事は、単に植物園を経営する、酒を生産する、というだけでなく、本当に地域を豊かにするものであり、こういう方々が地域にいてくださることを心から誇りに思える住民でありたいなと思いました。

 残り2~3分になりましたが、何かご質問はありませんか? そういえば先ほど、喜久醉ってどこで買えるの?と訊かれましたが。

 

(青島)蔵のほうへお問合せくだされば、販売店をご紹介させていただきます。

 

 

(鈴木)どこのスーパーやコンビニでも売っているというものではないんですよね、あれだけ手間隙かけて造るお酒ですから量も限られています。

 

(塚本)でもお安いですよね、喜久醉って。

 

(青島)私が造っていますので(笑)。地酒というのは特別な存在ではなく、身近であるべきだと思います。蔵の教えに「安い酒ほど丁寧に造れ」というのがあるんです。高い酒はおいしくて当たり前ですが、手頃な酒ほどみなさんに飲んでいただく機会が多いわけですから、そういう酒こそより思いを込めて醸そうと思っています。

 

(鈴木)本当にありがとうございました。今日このお2人のトークショーということで、いろいろな方にご案内をしたのですが、この時期の土曜日、いろいろな行事が重なって、残念だけど行けないよ、という方が多かったのです。こなみさん、お酒とお花がコラボするような企画、ぜひフラワーパークの年中行事にしていただけませんか?

 

 

(塚本)花博は今年限りのイベントですが、せっかくこの花みどり館も出来たことですし、地域の文化を皆さんと一緒に楽しめるフラワーパーク独自のイベントを考えています。これから毎年、引き継いでいこうというものが花博の企画にたくさんありましたので、ぜひご期待ください。

 

(鈴木)ありがとうございました。

 


花博トークセッション「杜氏と樹木医 自然の育ちによりそう力」その1

2014-05-20 17:06:08 | しずおか地酒研究会

 5月17日、はままつフラワーパークの花博2014会場「花みどり館」にて、しずおか地酒サロン特別トークセッション『杜氏と樹木医 自然の育ちによりそう力』を開催しました。当日は天候にも恵まれ、花博会場は入場者トータル80万人の記録を突破するなど大変賑わっていました。そんな中、屋内での酒のトークイベントにどれくらいの人が関心を持ってくれるのか心配でしたが、フラワーパーク側のPRや、きき酒師でフリーアナウンサー神田えり子さんのプロ仕立ての呼び込み&試飲接客が奏功し、100名を超えるお客様に集まっていただけました。本当にありがとうございました。

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 喜久醉の蔵元杜氏・青島傳三郎さんと、はままつフラワーパーク理事長の塚本こなみさん。お2人の素晴らしいトークセッションを2回に分けてご紹介します。

 

 

(鈴木真弓)みなさまこんにちは。本日はこのように大勢の皆様にお集まりいただき、たいへん感激しております。ではこれより浜松フラワーパーク特別トークセッション「杜氏と樹木医~自然の育ちによりそう力」を開催いたします。

 今日は藤枝の地酒『喜久醉』の蔵元・青島傳三郎さん、そしてみなさまおなじみのフラワーパーク理事長の塚本こなみさんに来ていただきました。フラワーパークで何でお酒のイベントをやるの?と不思議に思われた方も多いと思いますが、追々ご説明するとして、まずは青島さん、今日は50年の人生で初のフラワーパーク入りだったそうですね?(笑)。

 

(青島傳三郎)今日は早めに来て少し園内を廻らせていただきました。まだまだ見足りないのですが、本当にお天気もよく、素晴らしいお花見日和ですね。ふだんなかなか花を愛でる生活をしていないので、これを機にそういう時間を持ちたいなと思います。

 

 

(鈴木)ついこないだまで酒造りが続いていたんですよね。

 

 

(青島)ええ、例年ですと3月一杯ぐらいでひと段落するのですが、それまではまったく外に出ず、蔵の中に籠もった生活をしています。ちょうど蔵の裏山にフジが自生しているところがあって、それを見ると酒造りも終わったな、と一息つくところです。

 

 

(鈴木)こなみさんとお酒、苦い思い出でも甘い思い出でも構わないんですが(笑)、どういうご縁がありましたか?

 

(塚本こなみ)若い頃、お酒はまったく嗜まなかったのですが、(造園業の)主人の代わりに会合に出たりして少しずつ飲むようになりました。いつのまにか外では日本酒を1升瓶飲むくらいの酒豪になってしまいまして(笑)、外で飲むのはほとんど日本酒です。30歳を過ぎた頃から、ポツンポツンと記憶喪失になることがあり(笑)、嗜む×2ぐらいでおさめるようになり、今では1~2合というところでしょうか。いずれにしても、お酒がなければ人生楽しめないというくらい、お酒大好き人間です。

 

 

(鈴木)静岡のお酒はこだわって飲まれていたんでしょうか?

 

(塚本)昔は節操もなく、何でも飲んでいたのですが、21~22年前、樹木医になりたてのころ、真弓さんが私を取材しに来てくれて、そのとき、「静岡のお酒は全国に誇れるほど美味しいんですよ」と教えてもらいました。それ以来、真弓さんを酒の師匠と仰ぎ、現在に至っております。

 

Imgp0207 (鈴木)過分なご紹介ありがとうございます(笑)。取材というお話が出ましたが、私はフリーのライターとして静岡県内の産業・文化・歴史などを取材しており、お酒の取材は25年ぐらい、自分のライフワークとして取り組んできました。この間、活字情報を提供するだけでなく、せっかく地元に造り手がいるのだから、我々飲み手が造り手とともに、お酒の未来を語り合える場があればいいな、と思い、1996年にしずおか地酒研究会という異業種交流会を作りました。

 

 その、しずおか地酒研究会で、10年前の花博の庭文化創造館というパビリオンで、こなみさんのお膳立てでお酒の試飲会を半年間、やらせていただいたのです。蔵元さんよりどりみどりで、花見の庭、雪見の庭、月見の庭など季節に合わせたディスプレイの中で地酒テイスティングサロンと銘打ってやらせていただきました。

 

 Dscn7890 オープニングセレモニーのときの乾杯の酒を青島さんのお酒でやらせていただき、6ヶ月間の会期中も2回参加してくださったのです。無料の試飲会でしたので本当に大勢のお客様に来ていただき、今思うと、よく何の事故もなく無事開催できたなと胸を撫で下ろす思いです。

 

 そして10年後の今年、こうしてまた、こなみさんに素晴らしいステージをご用意いただきました。こなみさんとは、足利の大フジを移植をされた頃から取材を通しておつきあいをさせていただき、青島さんとも、お手元のプロフィールにありますように、ニューヨークでのファンドマネージャーというお仕事から一念発起し、実家の酒蔵を継ぐため帰国した直後からのおつきあいです。長く長く応援し続け、お2人のファンでもあります。そんなお2人に来ていただくなら、ただ単に試飲して終わり、ではあまりにももったいない。植物園を創る仕事、樹木を治療する仕事、麹や酵母という微生物と向き合う酒造りの仕事の魅力をお伝えする・・・おこがましい言い方になりますが、花育、酒育のようなトークイベントに出来たらなと考えました。

 浜松は製造業のまちですが、単にモノを造って動かして売る、情報をやりとりする、という仕事とは違い、お2人の仕事は、自然の命と向き合い、人に感動を与え、対価をいただくという、とても難しい、でも大変やりがいのあるお仕事だと思います。

 まずはこういう、誰にでもなれそうでなれないお仕事に就かれたきっかけからお聞かせいただけますか?

 

(塚本)造園業を営む主人に嫁ぎ、主人の仕事を見ているうちに、ああ、お庭ってこういうふうにできるんだな、こういう虫が着くんだな、それにどうやって対応するのか、主人の仕事を見ながら学んできました。

 35歳のとき、庭というのは工事完成=庭の完成ではなく、これからこの庭がどんな風情を醸し出し、樹木と樹木が融合してひとつの景色を創り出すのか、守って育てて、もっと美しい庭になってほしいという思いに駆られました。主人は私が心から尊敬する素晴らしい造園家です。その主人が造った庭を守り育てる会社を創りたいと言いましたら、「いいよ」って言ってもらいまして、別会社を作りました。

 

 掛川市に秋葉路という住宅団地があります。造成前、そこに樹齢1000年のモッコクの木があり、所有者からこの木を移植して欲しいと相談されました。「名古屋の大学の先生に相談したら、移植は出来ないからベンチにでも作り直せと言われたが、1000年もの悠久の時を生きた木を宅地造成の名目で伐採することはできない」と。これをお受けしたのが27~28年前のことで、それから木の移植の仕事が増え始めました。おかげさまでこれまで1本も枯れずにきております。

 

 そうこうしているうちに、平成3年度、樹木医制度が出来ました。国や県の天然記念物に指定されている樹木をどんなふうに守ったらいいか、林野庁が考えて生まれた制度です。この制度が出来るまで、木の医者というのは存在しませんでした。庭屋さんが自分の仕事の延長上で、樹木が弱ったらなんとかしなければという状況だったのです。

 

 樹木医になるには学問不問、樹木の診断治療経験7年以上という条件がありました。私には浜松市役所のソテツを治療したり、掛川のモッコクを移植したりという経験がありまして、十分資格の対象になるので受けたら?とお誘いをいただいたのが、樹木医になるきっかけでした。ですから樹齢1000年の掛川のモッコクは、私の人生を変えた木ともいえますね。

 

Photo (鈴木)こなみさんといえば、なんといっても足利の大フジですが、これはどういうきっかけで?

 

(塚本)平成3年に樹木医になったときはキャリアとしては未熟でしたが、思いがけず、女性樹木医第1号という肩書きが付きまして、いろいろなメディアで紹介されました。平成6年1月前でしたか、全国紙に【女性樹木医第1号塚本こなみ、巨樹巨木を100本以上治療し、1本も枯らさず】という記事が載りまして、それを見たあしかがフラワーパークのオーナーから連絡をいただきました。「今まで4年、大フジの移植をしてくれる人を探していたが、東京農大の先生にもムリだといわれ、地元造園者何十社にも断られ、わらにもすがる思いで電話しました」と言われ、見に行ったのがフジとの出会いでした。

 

(鈴木)私がこなみさんと出会ったのがちょうどその頃でした。周囲の専門家がみな無理だと匙を投げたものを受けるとは、すごい度胸のある女性だなあと・・・。

 

(塚本)おんなは度胸ですから(笑)。

 

(鈴木)でも実際にご覧になって出来ると思われたんですよね。

 

(塚本)動く、と思ったんです。そのフジに素晴らしい生命力を感じ、動くと思った。私の直感です。

 

(鈴木)直感力というのはときに本当に大きな原動力になるものですね。直感といえば、青島さんも、端から見れば無謀なキャリアといいますか(笑)、ニューヨークで巨額マネーを動かしていた生活から、杜氏への転職。杜氏になるというだけでも大変な選択なのに、当時、我々はそんな世界にいる人が帰ってくるはずないだろうと思っていました(笑)。

 

(青島)自分でもよく帰ってきたなと思います(笑)。酒蔵で生まれ育ちましたが、土日休みもなく早朝から汗を流して働きづめで、イヤなところばかり目に付いて、一日も早く家を出てやろうと思っていました。酒造業は当時、構造不況業といいますか、大手メーカーが市場を席巻しており、地方の中小酒蔵は下請けで何とか生き延びていたという状況でしたから、社長である父も、蔵を継がなくてよい、学校だけは出してやるから自分の道は自分で決めろと言っていました。

 私はこれ幸いと、家を出て、外へ外へと目を向け、そういう仕事に就きました。最初は東京で就職し、転職してニューヨークに行き、これで実家から逃げ切った、もう二度と戻ることはあるまいと思いました。20代前半の自分にとっては、刺激や醍醐味があって、金銭的にも余裕がある仕事でしたから、さらにその世界でステップアップしようと無我夢中でしたね。

 

 ニューヨークというのは世界中からいろいろな人種が集まり、自分たちの居場所を必死に創ろうともがく街です。自分たちのアイデンティティといいますか、自分たちが何者かを探る、そんな毎日です。自分も振り返って日本という国、藤枝という故郷について外から見直すようになり、今まで気がつかなかった、山野の豊かさや四季の美しさ、蛇口からひねる水をそのまま飲める・・・そんな、土地の宝といったものに価値を見出すことができたのです。

 

 さきほどこなみさんが1000年のモッコクの木のことをおっしゃっていましたが、うちで親父がやっている酒蔵というのも、その土地の長い歴史に育まれ、ああいう酒が出来るんだなあと思うと、地域の恵をいただいて造る酒というものに愛おしさを感じました。そういうものを、自分の代で簡単に無くしてしまってよいものだろうかと。

 

 お金というものは資本主義の世界では大切な血液のような存在です。しかしこれは他の人にも任せられる仕事です。日本人が100年1000年単位で続けてきた仕事というのは誰しも出来るものではないし、おこがましいのですが自分に与えられた使命ではないかと思うようになりました。私はそれまで酒のサの字も知らなくて、知らないどころかまったく飲めないのです。そのおかげか味覚と嗅覚には自信があるので、家に戻って酒造りを継ごうと決意しました。

 

 

(鈴木)私は最初、青島さんが戻ってこられると聞いたとき、そういう世界にいた方ですから経営に専念されるだろうと思ったら、製造現場に入って杜氏の弟子になった。これは驚きました。一般の方はあまりご存知ないかもしれませんが、酒蔵のオーナーが杜氏になるというのはかなりレアなケースだったのです。よく考えると、教えるほうも教わるほうも難しい状況ではなかったのですか?

 

 

(青島)会社経営も大事なことですが、酒造りをちゃんと引き継いで、つないでいくということが最も大切だと考えました。それがなくては青島酒造は継続しないだろうと。父にも「酒造りをやりに戻ってきた」と言いました。それまで盆や正月も家に帰らない自分でしたから、父からは「お前、ニューヨークで何かやらかして居づらくなって逃げ帰ってきたのか」と言われました(苦笑)。

 

 酒造りの職人を束ねる棟梁・杜氏とは、伝統的な徒弟制度の世界の人ですから、そこに経営者の息子が入るというのは杜氏や蔵人たちも非常にやりにくかったと思います。父も心配して「それはやめとけ」と強く言いました。今でも酒蔵で技術を継承する上でネックになる点ですね。それがうまくいかずに、その蔵独特の味が途絶えてしまった酒蔵さんも少なくありません。

 

 ただ、うちの場合、少人数が幸いしたといいますか、私が戻ってきた当時、杜氏と蔵人2名に両親、総勢5名で造っていて、私が多少なりとも戦力になることで現場が助かるという状況でした。杜氏さんは私が生まれる前の年、私の母が嫁いだ年に蔵入りした人で、「奥さんとは同期入社だ」というのが口癖でした。ですから私が「杜氏さん、ボクも酒造るよ」と言ったとき、とても喜んでくれました。

 

(鈴木)家族の一員のような存在だったんですね。

 

Img103 (青島)そうですね。杜氏さんに弟子入りしてからは、母屋ではなく、蔵人の寝所に布団を持ち込んで、杜氏さんたちと文字通り寝食を共にしました。社長も我慢してくれただろうし、杜氏さんや蔵人さんたちもずいぶん我慢してくれたろうと思いますが、その中で力をつけ、周囲に認めてもらわないと酒造りを継ぐことはできないと、自分としてはかなり困難な選択をしたと思っています。

 

(鈴木)ある意味、青島さんは酒造りに没頭できる環境に恵まれたともいえますが、酒造業にしろ造園業にしろ、端から見ると保守的で古い常識や慣習がときにはカベになったのではないかと思います。お2人はどうやってそのカベを乗り越えられたのでしょう?

 

(塚本)私は、30歳の頃から造園業界の中では「クソババア」と言われてきました。

 

 

(鈴木)えー!?

 

(塚本)造園業は99.9%男社会なんです。社長の女房だから、親方の奥さんだからというのもあったと思いますが、同業者からの風は厳しかったですね。職人さんは親方の奥さんという遠慮もあったと思いますが、それでも現場で私から口出しするのは許されませんでした。

 聞けばいろいろなことを教えてくれますが、造園業界や土木業界では「女のくせに」という目で見られました。設計事務所に打ち合わせに行くと、どこの誰だ?という顔をされます。「お前ら下請けだから」とか「最後に植えりゃいいんだよ」とか、ここは日陰になるから植えないほうがいいと言っても「デザイン上ここでいいんだ。黙って植えろ」と命令される。「お前らが口を出す立場ではない」と。

 ですから、造園業は下請けになってはいけないとつくづく思いました。下請けではなくコンサルタントになるべきだと。女性が自分の意思で造園会社を造り、造園設計を担当したのは、私の前にはいませんでした。今ではずいぶん増えましたが、私が起業した30年前には、何を言っても「女のくせに」と言われましたね。

 

 ただ、青島さんと違って、私は現場で丁稚奉公のような修業はまったくしなかったので、従来の常識とは違う発想で木を見ることができました。まったく新たな発想で治療ができたのです。たとえば石膏でギブスをして幹の切り口を養生をするとか、移植が困難な巨木ならばくの字の鉄板を打ち込んで鉢植えに移植し、鉢植えごと移動させるというように、今までにない手法を自分で考えて出来たのです。伝統技術も大切ですが、自分でその枠にとらわれない、ということを心がけました。

 

 

(鈴木)確か、フジの治療に日本酒を使われましたね。

 

(塚本)フジはお酒が大好きなんですよ。フジが弱ったら酒粕を、マツが弱ったらスルメを煎じたものを入れなさいという通説はあったのですが、土壌に有効な微生物にアミノ酸等の栄養分を与えるということなんですね。フジを移植した後、治療に苦労したときは、國香さんの酒粕を使わせてもらいました。

 

(鈴木)木をいのちあるものとして、子どもが怪我したときに手当てをするように治療されたんですね。

 

 

(塚本)自然のメカニズムを人間と同じように考えます。この木が自分だったら、どうしてほしいかと。

Photo_2  足利の大フジ移植当時、、私はまだ40代でした。お手伝いしてくれる地元足利の造園関係者はほとんどが50~60代です。移植工事の前、みなさんに集まっていただいたとき、「自分が指揮をとらせていただきますが、成功したらみなさんのおかげ。失敗したら私個人の責任です。その上でどうぞご協力ください」「私の指示には従っていただきます。そのお約束をしていただけますか?」と確認をとりました。そうしないと、ベテラン職人の中には自分の経験上、塚本こなみが言っていることは間違ってるからと、自分のやり方をされてしまったらチームワークが取れなくなります。最初にその確約をとりました。

 

(鈴木)青島さんにも、ご自分がお生まれになった頃から勤めておられた杜氏さんに教わったことと、その教えから離れる瞬間があったかと思いますが・・・。

 

 

(青島)私は蔵に入ってすぐに杜氏さんの下につきました。喜久醉の味を継承するには杜氏さんの技術をマスターしなければという思いがあり、杜氏さんがやっていることをすべて学び取ろうと。杜氏さんも、これでもか、というくらい、しっかり教えてくれました。

 ただ、今だから言えますが、(杜氏の部下である)蔵人さんたちからは「経営者の息子が1~2年、お遊びのつもりでやっているんだろう」という目で見られていたと思います。たいした扱いもされず、逆に、自分が試されていると思える場面もありました。それでも、いつか自分が杜氏になれたとき、その蔵人さんたちに戦力になってもらわなければならないと思ったら、とにかく自分は本気で酒造りを継ぐんだという意思を理解してもらわなければならない。何でもがむしゃらに取り組みました。10を言われたら、15~20やる。これは違うなと思ったことでも黙って言われたとおりにやる。最初の3年間はそうでした。

 4~5年経ってから一人頭に数えてもらえるようになり、5~6年目ぐらいからきちんと教えてもらえるようになり、一人の職人として認めてもらえるようになったのです。

 

(鈴木)お2人のお話をうかがっていると精神力が強いというか、こういうのを人間力というんでしょうか、周りの圧力をしっかり受け止め、乗り越えてこられたんですね。

 

(青島)ただ、辛いと思ったことはないですね。単なる仕事として、カネを得るためにやっているんじゃなくて、思いを持って取り組んでいましたから。以前はパソコンの前に座ってまったく動かない仕事でしたから、重いものを背負って階段を昇り降りするような現場仕事にカラダが慣れるまでは確かにきつかったけど、辛いとは思いませんでした。

 

(鈴木)目指す目標がしっかりしているからですね。(つづく)