杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

立春朝搾り、神の国の酒

2016-02-04 19:01:49 | 地酒

 立春の朝、島田の大村屋酒造場では日本名門酒会加盟蔵を取り扱う酒販店67店約140名が集まって、恒例の「立春朝搾り」のラベル貼り&出荷作業を行ないました。出荷準備を終えた酒は蔵のお隣にある大井神社へ奉納され、お祓いを受けました。

 神社の神殿横では白梅が愛らしくほころんでいました。鳥居に添えられた神聖な場所を示す紙垂(シデ)。稲の豊作には、雷・雲・雨が欠かせないことから、雷の形を模したと伝えられていますが、紙垂を揺らす早朝の風は神の息吹のようにも思えました。

 

 

 

 「立春朝搾り」は、2月4日零時過ぎから搾り始めた若竹純米吟醸生原酒(今年のスペック=米/吟ぎんが&あいちのかおり精米歩合55%、酵母/静岡酵母New-5、日本酒度0、酸度1.3、アミノ酸度1.1、アルコール度数17度)に、「立春朝搾り」の肩ラベルを貼り、大井神社へ奉納&お祓いを受けた後、各酒販店が車に積んで持ち帰り、その日のうちに販売するという日本酒らしい催事です。私も過去何度か取材させてもらっていますが、今年は、昨年発行の【杯が満ちるまで】でお世話になった杜氏の日比野哲さんや蔵人さん、また県内各地の酒販店さんに一度にお礼が出来ると思って馳せ参じました。

 

 

 

 蔵元の母屋で朝ごはんをご馳走になったとき、偶然、お隣同士になったのが、日本名門酒会の母体・日本有数の酒類卸会社である㈱岡永の山崎万里子さん。ご存知の方も多いと思いますが、日本名門酒会は日本酒の海外輸出のトップランナーでもあり、山崎さんはニューヨーク在住で、北米市場の流通開拓に尽力されています。「立春朝搾り」に立ち会うのは今回が初めてということで、杜氏の日比野さんが丁寧に案内されていました。ちなみに日本名門酒会には全国約120社の蔵元が加盟、全国の酒販店1,700店余とネットワークを結んでおり、「立春朝搾り」は今年、全国で38蔵(こちらを参照)が行なったそうです。

 

 

 大村屋酒造場の立春朝搾りが素晴らしいのは、お隣にある大井神社で参加者全員がお参りできること。立春の朝、清清しい気持ちで搾りたての酒を奉納し、お祓いを受け、神の霊力をいただいた正真正銘の縁起物としてその日のうちにお客様へお届けできる・・・全国38蔵の中でほかにこういうアドバンテージがある蔵がいくつあるのかわかりませんが、あらためて、日本酒と神道の深い結びつきを実感します。こういう結びつきは他のアルコール飲料では得られないでしょう。

 

 

 

 以下は【杯が満ちるまで】の「カミとホトケのサケ精進」の章で書いた草稿の一部で、ページの都合でまるまる削除せざるを得なかったのですが、私自身はこのテーマをこれからも深く研究していきたい。立春朝搾りと大井神社奉納神事は、そのことを改めて強く実感させてくれました。大村屋酒造場の皆さま、日本名門酒会関係者の皆さま、参加酒販店の皆さま、おつかれさまでした&ありがとうございました。

 

 

酒の起源は初穂信仰

  大陸から稲作が入ってきて農耕社会が構築された弥生時代、もっとも大切にされたのはその年に最初に実る初穂。初穂には大いなる霊力があると信じられていた。その初穂と、初穂で醸された酒を神々に供え、そのお下がりを収穫祭でいただく・・・穀霊が宿った酒に対する人々の畏敬の念は計り知れなかっただろう。

 農民は翌年、お供えの初穂を種籾として借り受けて、収穫後、借りた稲に神への謝礼を上乗せしてお返しした。借りた稲が「元本」で、上乗せ分が「利稲(りとう)」。日本列島における利息(金融)の起源である。これらをシステム化したのが、律令国家における「出挙(すいこ)」。地方のお役所が農民に稲を貸し、収穫後、元本と利稲を返却するというもので、のちに利稲だけが税金として徴収されるようになった。

  律令時代は朝廷神祇官が国家の祈年祭において霊力で満たした初穂を地方の神社に分け与え、その返礼として租税を取り立てていた。これが6世紀に入ってきた仏教によって大きく転換する。「カミも修行し、ホトケになる」という神仏習合の思想が浸透し、8世紀以降、各地に神宮寺が建立されると、国の神=皇祖神の威光は徐々に薄れ、出挙の運営も難しくなった。地方神社を支える地方豪族の力を軽視できない朝廷は、神宮寺の存在を容認し、神社と寺が同じ敷地で管理されるという摩訶不思議な神仏習合が定着していった。 

 

 和歌森太郎氏の著書『酒が語る日本史』に、こんな一節がある。

 

 「日本人にとって、神には荒ぶる神と、平和な幸福を保証するニギミタマの神との二通りがあったとされる。しかし、人間が最初に意識したものは、災厄をもたらすおそろしいものとしての神であった。(中略)酒をこれに供するのは、荒神をいわば調伏する手段であったのではなかろうか」

 

 「今だって、五分五分に対等で話し合うには厄介な相手に、酒を飲ませ、酔わせてかれの人間的レベルを下げることにより、気軽に語り合えるようにしようとする。それがまた、人間相互に親近感を濃くさせることでもあるから、平素とくにおそろしい相手だとは思わぬ友とも、酒を媒介にして、いっそうの親密化を期待する。遠い古代の場合、神を相手に、神を供するさいの意識がそういうものだったといってよい」

 

 「お神酒が荒神にたいしても和神にたいしても、ともかくその強い威力を鎮め和らげつつ、人間にぐんとひきつけるものであったところから、祭りは、神と人とが酒をくみかわし仲良くする形で行われた。それはじつは、祭りに参加した人びと相互の相睦び相親しむ機会であった。祭りは酒を介することで、祭る仲間たちの協同結束をはかる機会であったわけである」

 

 

 また、上田正昭氏(京都大学名誉教授)の『日本人のこころ』には、こうある。

 

 「日本の神には自然の力を畏敬した霊威神もありましたし、職業にともなう職能神としての祖神(おやがみ)もありました。怨霊神もありますし、他界・他郷から来訪する客神(まろうどがみ)もありましたし、海外からの渡来神もありました。(中略)このような日本のカミの多様性は、鳥獣や木草、海や山などすべてのものにカミをみいだし、「カシコキ」人間もまた神になりうるとする万有生命信仰を背景にしていました。とかく排他的になりやすい一神教よりも、そしてまた一人一宗の信仰よりも、一人多宗の万有生命信仰のほうが、はるかに21世紀の人類の課題にふさわしい信仰といえましょう」

 

 「きびしい自然の中ではぐくまれた一神教では、カミとの契約に基づく対決型の信仰になります。しかし、山と森林と河川と盆地・平野、そして周りを海に囲まれている日本の信仰では、自然との対決よりも、自然に順応し調和する信仰をそだててきました。日本でも権力者による宗教の弾圧はありましたが、宗論はあっても宗教間の宗教戦争はありませんでした」

 

 静岡県、とりわけ志太地域は、上田教授の指摘どおり万有生命信仰を育てるにふさわしい地形を持ち、災厄や紛争があったとしても、柔軟に折り合いをつける見識が住民にはあった。そこでは、神様とさえうまく折り合いをつける手段として〈酒〉が機能したのだと思う。

 

 民俗学者の神崎宣武氏によると、行事を終えての打ち上げ会を今でも直会(なおらい)と言うが、本来は神々が召しあがったものを人間がご相伴に預かる「神人共食」という重要な礼講で、御飯三膳と御酒三口を正座・無言でいただく。しかるべき酒礼を済ませたら、神々に元の神座(かんどころ)へお帰りいただき、人間だけの酒宴=無礼講になる。この、礼講から無礼講への切り替わり時、礼講の〆として、酒杯を眼上に掲げる。これが本来の「乾杯」だそうだ。

 乾杯時の常套句「○○さまのご発展とご健勝を祈念して~」の祈念する相手とは、宴席の主賓や参加者ではなく、あくまでも神仏やご先祖様である。神仏や先祖に向けたものであるから、乾杯のとき、隣同士で酒杯をカチンと合わせることはしない。酒杯を触れ合わせる風習は西洋由来のもので、右手と右手で握手するのと同じ意味。凶器を隠し持っていないという安全保障の作法から来ている。

 

 神崎氏は「米は貴重な食料で、米の生産者たる農民も主食にしていたわけではなく、米飯はあくまでもハレの主食であった。ゆえに“御飯”といった。日本人にとって、米は霊力の宿る神聖な食料であり、最上位の神饌ともなり、米の加工品の中で酒が最も尊ばれた。それはもっとも調理に手間がかかったからである」と力説する。