杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

縁地がつなぐ朝鮮通信使研究

2016-04-11 13:31:47 | 朝鮮通信使

 先日、滋賀県長浜市高月の『芳洲会』から、2015年10月17日に開催されたシンポジウム【雨森芳洲と朝鮮通信使~未来を照らす交流の遺産】の記念誌が送られてきました。「ブログ楽しみにしています」のメモが添えてあったので、そうだ!シンポジウムの話を書いてなかった!とヒヤリハット。ちゃんとシンポジウムに参加し、会場で記念誌を購入していたにもかかわらず、この時期、自分の地酒本の出版でバタバタしていたせいかまったく触れず終いでした。遅きに失した感はありますが、久しぶりに朝鮮通信使についてガッツリ書きたいと思います。

 

 

【雨森芳洲と朝鮮通信使~未来を照らす交流の遺産】は、朝鮮通信使のユネスコ記憶遺産登録を目指し、日韓国交正常化50周年の2015年に滋賀県長浜市が開催したシンポジウム&企画展。長浜市は過去ブログでも再三紹介しているとおり、朝鮮通信使の接待役として活躍した雨森芳洲の出身地で、芳洲が築いた「誠信」という善隣友好の精神を今に伝えようと、地域を挙げて顕彰事業を行っています。私は2007年に静岡市が製作した映画【朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録】のシナリオ制作で同市の『高月観音の里歴史民俗資料館』でお世話になって以来、学芸員の佐々木悦也先生はじめ、顕彰団体・芳洲会の皆さまとご縁を持たせていただいています。

 

 シンポジウムでは朝鮮通信使ユネスコ記憶遺産日本学術委員会委員長の仲尾宏先生が「朝鮮通信使から学ぶこと」として、日本での朝鮮通信使研究を遅らせた一国主義の歴史教育の問題点、在日の研究者たちが差別され荒れている在日の子どもたちに誇りと自信を与えようと1980年代から活動を始め、90年代にようやく教科書に登場したことなどを紹介し、雨森芳洲を〝相手の立場、歴史や文化の理解に努める”〝自国の立場、自国の歴史や文化を相対的に見る”〝東アジアの中の日本という立ち位置を認識する”ことのできた多文化共生の先駆者と説きました。

 講演の後は三重県分部町に伝わる、朝鮮通信使一行を模したとされる民俗芸能「唐人踊」、長浜市立富永小学校の全校児童と地域住民による「雨森芳洲子どもミュージカル」が披露され、最後のパネルディスカッションではユネスコ記憶遺産韓国学術委員会委員長の姜南周氏、対馬歴史民俗資料館の山口華代先生、草津宿街道交流館の八杉淳館長、佐々木悦也先生、長浜城歴史博物館の太田浩司館長が活発な討論をされました。一つのテーマでこれだけの地域間交流が成立するのは本当に素晴らしいこと。と同時に、そもそも朝鮮通信使を誕生させた徳川家康ゆかりの静岡でこういった顕彰事業ができないのは、やっぱり学術研究の拠点となる歴史博物館がないせいかなあと、パネリストの肩書を見てため息をついてしまいました・・・。

 

 

 会場では、この日に間に合わせて発行となった論文集『朝鮮通信使地域史研究』も購入しました。先月亡くなられた歴史学者上田正昭先生の序文に始まり、「縁地連朝鮮通信使関係地域史研究会」所属の研究者がたが各地域にまつわる読み応えのある論文7編、研究ノート2編、資料報告2編が収められています。買っておいたはいいが、先述の記念誌同様、いつか読もうと思って資料箱に入れっぱなしにしてあったところ、先月開催の静岡県朝鮮通信使研究会で北村欣哉先生(朝鮮通信使研究家)がこの論文集のことに触れ、こちらもあわてて読み直した次第です。

 

 3月18日に開催された静岡県朝鮮通信使研究会では北村先生が【徳源寺(沼津・原)の一行書をめぐって】と題し、徳源寺が所蔵する「玉葉永茂萬古春 朝鮮聾窩書」の筆者〝朝鮮聾窩”を探るトリビアを披露されました。この書の蓋の裏書に帯笑園珍蔵印が残ることから、もともとは帯笑園の植松家が所有していたものらしく、宝暦1764年の朝鮮通信使使行録「海槎日記」に、一行が休憩のために帯笑園に立ち寄ったことも記されています。

 朝鮮通信使学界のレジェンドである故・辛基秀氏が、第10回(1748)、第11回(1764)に朴徳源という小通事がいたことを書き残しています。「朝鮮朴徳源」と署名された墨蹟は各地に多数残されており、件の一行書には「悳源」という落款が残されていますが、悳はトクと読むので朝鮮聾窩=朴徳源で間違いないだろうと北村先生。

 

 ところが先生は昨年秋、件の論文集『朝鮮通信使地域史研究』に収められた岡部良一氏の研究ノート「小通事・朴徳源の再検討」を読んで驚愕します。朴徳源の書は多数残っているが、小通事というのはわりと下っ端の身分で現場で走り回っていて、のんびり墨書する時間はないはず。ちなみに全国に残る朝鮮通信使関連の墨書は朴徳源を除けば、残りはすべて高官である写字官の揮毫だそうです。それよりなにより、第10回(1748)、第11回(1764)、第12回(1811)の朝鮮通信使随行員リストに、彼の名前は見当たらないというのです。

 岡部氏は謎めいた小通事・朴徳源を探るうちに、全12回の朝鮮通信使とは別に、釜山と対馬を56回も往来した「朝鮮渡海訳官使」の存在に着目します。朴徳源は安永9年(1780)から寛政8年(1796)まで4回対馬に渡ったと推察され、対馬滞在は約2か月ぐらい。この間に日本人から頼まれて多くの書や軸物を書いて報酬を得ていたのではないかと岡部氏。対馬には「以酊庵」という外交施設が設けられ、朝鮮人と筆談ができ、文化的素養の高い京都五山の禅僧が当番制で詰めていました。禅僧のいわば人的ネットワークのもと、対馬滞在中の朴徳源の書が全国のゆかりの寺や名家に伝わったのではないかということです。

 北村先生は「帯笑園の植松家も白隠禅師の松蔭寺や徳源寺など臨済宗妙心寺派の寺院とつながりが深く、植松家には、京都の文化サロン的存在だった妙心寺塔頭海福院やそこに集う池大雅、円山応挙、皆川淇園に付届けをしていた記録が残っていることから、件の一行書は京都人脈を駆使して対馬にいる朴徳源に依頼したものではないか」と結論付けられました。

 

 朝鮮人が書いたとされる一つの軸物から、これだけのことが解明できるとは、本当にワクワクしてきます。当時、朝鮮人の墨書がいかに珍重されていたか、文化の力がいかに外交を担っていたかが手に取るように伝わってくる。上田先生や辛先生のような、それこそ教科書に載る著名な研究者のみならず、地方で地道に調査研究している市井の歴史家たちが掘り起こし、ときには定説を覆す事実を究明する。そこから見えてくる当時の人々のリアルな暮らしは、今の私たちの暮らしと時間軸でつながっている・・・このような学びの機会を、遠く離れた縁地の皆さんと共有できる幸せを実感します。

 4月29日にはしずおか地酒研究会の20周年企画第2弾として【ZEN to SAKE~白隠禅師の松蔭寺と白隠正宗酒蔵訪問】を開催予定です。この日、松蔭寺と徳源寺で所蔵する書や軸物を一般公開する寺宝展があるため、朴徳源の一行書も見られるかも・・・と今からワクワク×2!しています。

 

 目下、『朝鮮通信使地域史研究』にあった、雨森芳洲の思想の基層に白隠禅との共通項があったという信原修先生(同志社女子大学名誉教授)の論文を読み深めようと、先生の著書に挑戦中。概略を語れるレベルまで読解できたら、またここで紹介します。