杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

萩原鶴夫伝を読んで

2016-09-12 14:59:41 | 歴史

 萩原鶴夫さん。静岡の近代史に詳しい人でなければピンとこないお名前だと思います。かくいう私も最近のリサーチで初めて知った御仁。江戸時代から続く茶問屋で、幕末明治の大変革時代に駿府静岡の行政&経済を支えた功労者です。

 維新直後、徳川慶喜や勝海舟ら敗軍の将たちと旧幕臣&その家族がドッと押し寄せた駿府の町を、彼のような市井人が必死に支え、静岡に地方産業を興し、商工業を発展させた。こういう、日の目の当たらない裏方の功労者を掘り下げていく作業に、市井のライターのやりがいを感じます。今回は『幕末維新の駿府を語る~萩原鶴夫伝』(萩原元次郎著・昭和43年)の読み下しと雑感をまとめてみました。

 

 

 萩原四郎兵衛(鶴夫)は文化12年(1815)、安西2丁目の萩原家で生まれ、明治19年(1886)没。ちょうど没後130年になられます。萩原家はもともと清和源氏の流れをくみ、12代目が甲斐国に下向して萩原姓を名乗り、その子が駿府今川氏へ仕え、戦国時代は甲斐武田氏とも縁を持ち、武田家滅亡で浪々の身となったのち、遠江榛原郡葛籠村(旧川根町)に落ち着いて産土神の祭主を務めました。

 

 江戸時代になり、駿府に出て茶商となり、土太夫町に屋敷を構えた萩原家。駿府足久保茶は慶長年間(1596~1614)に“御用茶”となって江戸城へ献上されており、駿府の茶問屋が持ち回りで御用達の役を務めていました。

 鶴夫の父定信も茶商のかたわら安西2丁目の丁頭(まちがしら)を務めるなど地域の顔役として活躍していましたが、41歳で急逝。当時鶴夫は5歳。家業は傾き、生活が苦しくなったものの、教育熱心な母とよの影響で読み書き算盤に励み、20代で駿府丁頭となって町の自治を担う逸材に成長します。おりしも天保の大飢饉で各地で百姓一揆や打ち壊し、外国船が近海に出没するなど国難の時代。茶問屋の制度も廃止の憂き目に合うも、公共の職務を真面目に勤め上げた鶴夫は嘉永5年(1852)、13名の同業者とともに駿府国産茶問屋の再興を果たします。

 

 翌嘉永6年(1853)7月、ペリーが浦賀沖に現れ、翌嘉永7年(1854)3月、日米和親条約が締結されます。元号が安政と改まった同年11月、マグニチュード7クラスの大地震と大津波が東南海地方を襲い、駿府城下(町数96、戸数4417、人口20,541人)では13町・578戸(一説には613戸)が焼失。全倒壊408・半壊365・死者200余名に及びました。

 土太夫町丁頭の鶴夫は被災者の救護にあたる一方、崩壊してしまった駿府城の米蔵にわずかに残った籾を精米し、粥の炊き出しに奔走します。足りない分は、酒行司を務めていた下石町1丁目久右衛門を通じて酒造業者から仕込み前の精米済みの米を流用したそうな。比較的被害が少なかった安西2丁目の宝積寺に米を運び、初日は白米5俵を炊き出し、8日目には上魚町の秋葉神社境内にも配給所を設けて21俵を炊き出し。延べ14日間で191俵を配給しました。酒造業者にはのちに奉行所からちゃんとお米の代金が支給されたそうです。今、酒蔵は東日本でも熊本でも震災時に“被災事業者代表”のように紹介されることが多いけど、こういう記録を読むと地域にとって希望の存在だったんだ・・・!と頼もしく感じます。

 施粥に奔走した鶴夫は駿府町奉行貴志孫太夫の素早い決断と誠実な対応に感じ入り、自身の日記に「たまはりし厚き恵みの白かゆに こごえし民の命たすけぬ」と貴志奉行を称えています。非常時におけるリーダーの判断力・決断力の重要性って今も昔も同じですね。

 

 それはさておき、天保以来の不景気に開国&震災パニックが加わり、政治も経済も大混乱。茶問屋廃止期間中に諸国の商人が入り込んで直接茶農家と取引するなど駿府の茶業は厳しい状況に置かれていました。その意味でも、鶴夫たちが果たした駿府国茶問屋の再興は大きく、復興のけん引役になります。安政4年(1857)には駿府城復興に100両を上納、安政6年(1859)には茶仲間申し合わせの出店を武州神奈川の横浜港に新設しました。

 やがて時代は大政奉還→王政復古への大転換を迎えます。萩原家はもともと神職を務めた家でもあることから、鶴夫は若いころから本居宣長派の神道学にいそしみ、皇学者平田鉄胤の門下生にもなっていたため、動揺することなく、「此節柄皇國の為尽力致され度し」という内命を受けたようです。

 駿河・遠江は徳川家のお膝元というイメージが強く、維新の際も幕府側だったのでは?と思っていたのですが、江戸後期には賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤といった国学者に師事する者が増え、官軍が江戸へ向かう際もさしたる混乱もなく進駐を迎え入れたんですね。

 一方、駿府の経済は徳川家御用茶の看板の元、茶商を中心に発展してきました。徳川様にも十分すぎるほどの恩義がある。徳川家が将軍の座から70万石の地方大名に転落して徳川慶喜が駿府で蟄居を命ぜられた際も、駿府住民は良識を持って受け入れたのでした。この時期の鶴夫たち駿府の人々の両極端に走らないバランスの良さというのは、もっと高く評価されてもよいのでは?と思います。

 

 

 維新後の静岡藩は、安政4年(1857)~5年にかけて駿府町奉行を務めていた大久保一翁に実権が託されました。一翁と知遇のあった鶴夫は、彼から厚い信頼を受け、父子帯刀の許しと「鶴夫」の名を賜ったのでした。一翁は静岡藩大参事(1869)、静岡県参事(1871)を歴任した後、明治5年(1872)から東京府知事、明治10年には元老院議官、20年に子爵の座に昇り詰めます。鶴夫は一翁が静岡を離れたのちも家族ぐるみで親交を深め、大久保家には一翁亡き後も静岡の新茶が送られ続けたそうです。

 

 維新後の静岡には、かつて一翁が幕閣に取り立てた勝海舟や渋沢栄一が来住し、鶴夫は彼らから大いに影響を受けます。渋沢栄一は明治元年(1868)にフランス留学から6年ぶりに帰国し、駿府の慶喜のもとへ報告に行ったところ、そのまま静岡藩の勘定組頭を命ぜられ、駿府にとどまることになりました。彼はヨーロッパで学んだカンパニーの仕組みを帰国後2か月にして静岡で実験することに。これは、鶴夫たち駿府商人が茶問屋再興以来、地場産品の売買や金銭の貸付など機能的なしくみを構想していたことがベースとなりました。

 

 明治2年(1869)には静岡商法会所を設立。紺屋町の代官屋敷(今の浮月楼)に会所を置き、横内に1か所、駿府城内に2か所土蔵を設け、清水港と東京に出張所を設置しました。ここで国産茶、塗り物、椎茸、紙などを相場や景気を判断してできるだけ高値で買い上げ、東京や横浜に売る。そして藩内で不足していた商品米穀、大麦、小麦、肥料(胡麻粕)などを仕入れてできるだけ安く払い下げるという事業を始めます。

 当時、政府の奨励で同様の組織が全国に誕生しましたが、静岡商法会所の特徴は、官民共同出資の組織で藩が率先して先進的な会社経営に乗り出した。これを駿府商人たちが構想したという点にありました。当時、多くの旧幕臣と家族が藩内に“難民”のごとく流入し、藩の経済の立て直しは急務。会所では藩の収益を上げることを第一義とし、取扱品を藩所有の船以外の私用船の積み込みを禁止。勝手に商いするのも禁止。冥加金を免除されていた質屋・紺屋・酒屋・醬油屋・絞油屋・魚市場・青物問屋からも冥加金を新たに取り立て、収税にあてたようです。

 

 鶴夫は会所のしくみを作った後、実務には深くタッチはしなかったようですが、半官半民組織の難しさというんでしょうか、藩の勘定役が会所の実権を握り、大久保一翁や渋沢栄一と親しい鶴夫は厄介者扱いされたとか。金札の扱いを巡って官民が対立し、会所は解消し、「常平倉」という組織に替わりました。常平倉とはもともと政府の穀物を売買させて穀物価格を安定させる米価調整機関のこと。しかし実態は会所時代と変わらず、明治5年(1872)の廃藩置県とともに常平倉が閉鎖されるまで、鶴夫が主軸となって組織運営がなされたということです。

 

 鶴夫はその後、静岡市の戸長として自治活動に尽力します。戸長は士族出身者4名と平民出身者2名でスタートし、士族出身戸長のほうが高い位置に置かれました。当時の静岡市は平民23,000人余、士族は1500人余。人口比率からいったらまだまだかなりの身分差別って感じですね(苦笑)。平民代表の鶴夫は静岡市中49区の戸長として士族と折り合いを付けながら職務に邁進し、当時、荒廃し、取り壊しの危機にさらされていた浅間神社や久能山東照宮の修復保全に努めます。神道に造詣が深かった鶴夫は、明治政府から神道の教導職を命ぜられています。彼が神道ではなく仏教徒だったりしたら、浅間神社や東照宮が今のように残っていたかどうか・・・ってことですよね。幸運なめぐりあわせじゃないでしょうか。

 

 実は鶴夫は禅にも関心があり、白隠禅師の『親』という書を大切に持っていたそうです。白隠さんの「孝行するほど子孫も繁昌、親はこの世の福田じゃ」という賛。鶴夫の「この額は祖先代々の霊碑所へ掛け置き、朝夕朝礼の節、代々親恩不忘為、この親の字の賛を遵奉すべし」とメモ書きが添えてあったとか。鶴夫が萩原家先祖の遺品を整理していたところ、4代目四郎兵衛久豊が写本した白隠さんの「新板仮名葎新談義」があり、5代目は白隠さんの「粉引歌」を写本していた。「孝行するほど~」は粉引歌に登場する歌だったのです。白隠禅語が萩原家の家訓だったとは、なんだか嬉しい発見です。

 以下の画像は『白隠展~禅画に込めたメッセージ』(2013年)の図録から複写させていただきました。

 

 

 明治7年(1874)、法改正により、各県に管区内大小区長制度が設けられ、鶴夫は第4大区第5小区(静岡市全域)の区長に命ぜられます。度重なる制度改定で事務や徴税の煩雑さが増し、士族町との不平等さも解消しない、善処願いたいという上申書を県令大迫貞清に提出。対士族にあたって、鶴夫は自分の土地を士族のために無償献納するなど地道な努力を重ねてきましたが、その土地を勝手に売り払ったり良田畑を潰して屋敷にしながら数年後に放り出すなど、士族の勝手なふるまいに翻弄され続けたようです。

 

 晩年の鶴夫は浅間神社の教院事務や小櫛神社神官などを務め、明治11年には第二十六国立銀行の副支配人の命を受け、静岡支店の開業に尽力します。亡くなったのは明治19年(1886)1月21日。時代の大きな節目を誠実に生きた70年6か月の生涯でした。

 萩原鶴夫の生涯を通して駆け足で振り返った幕末維新の静岡。静岡人は大人しくて積極性に欠けると言われがちですが、ただ黙って時の流れに身を任せていたわけではなく、士族や官僚の無理難題を知恵と判断力で受け止めて、モノ申すべきときにはしかと主張していた。彼らの功績は大河ドラマなんかには取り上げられないかもしれませんが、先人たちの営みが私たちの今の暮らしの基盤になっていることを忘れてはならないと思います。