杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

しずおか地酒研究会20周年アニバーサリー「喜久醉松下米の20年」

2016-10-10 10:51:32 | しずおか地酒研究会

 しずおか地酒研究会20周年アニバーサリー企画。9月末~10月初にかけて4回立て続けに催行しました。少し落ち着きましたので1本ずつご紹介します。

 

 まずは9月22日(木・祝)に開催した『喜久醉松下米の20年』。藤枝の地酒『喜久醉』の醸造元青島酒造が蔵のコンセプト商品として位置付ける『喜久醉純米大吟醸松下米40』『喜久醉純米吟醸松下米50』も20年のアニバーサリーを迎えるため、“同級生”の当会が勝手に押しかけお祝いしようと企画したものです。

 

 青島酒造の前で記念写真を撮った後、松下圃場に移動し、田んぼの勉強会。その後、参加者のお一人で『そばをもう一枚』著者の山口雅子さんがコーディネートしてくださった手打ち蕎麦処『玄庵』でささやかな酒宴を催しました。松下米を宮田祐二先生(「誉富士」開発者)が解説してくださるという贅沢な会。青島さんが喜久醉全種類をご用意くださり、東京や浜松からも駆けつけた30名は大いに盛り上がりました!

 


 1996年3月1日。しずおか地酒研究会の発足準備会に、青島酒造の青島秀夫社長が連れて来た一人の稲作青年。聞けば前日、蔵に突然やってきて「酒米を作りたい」と切り出したとか。海外青年協力隊でアフリカに農業指導に行った経験があり、アフリカ好きの青島社長とすっかり意気投合したそうな。
 私が発足準備会の席で、会のコンセプトを「造り手・売り手・飲み手の和」と発表したところ、「米の作り手も入れろ」と口を挟んできて、酒米作りのキャリアゼロの分際で生意気なやつ!と憤慨したのが、松下明弘さんとの出会いでした(笑)。

 

 青島社長が「どうせ挑戦するなら山田錦を作ってみろ」「失敗しても俺が全量引き取ってやる」と力強く背を押し、地酒研メンバーも一緒に田植えや雑草取りを手伝いながらの1年目。出穂を迎える8~9月は、台風や豪雨にヒヤヒヤしながら、10月の稲刈りを無事迎えようとした、ちょうどそのころ、青島孝さんがニューヨークから帰ってきました。
 大学卒業後、家業は継がず、国際金融の世界に進み、ウォール街で巨額マネーを操っていた彼は、そういう世界に身を置いたからこそ、「地に足の着いたモノづくり」の価値を実感。帰国早々、実家の近くの田んぼで、得体のしれない連中が米作りで盛り上がっている様子に、最初は面食らったと思いますが、今思えば松下さんと青島さんの出会いは必然だったのでしょう。

 

 今は喜久醉の蔵元杜氏として地元にしかと立脚する青島孝さん。「20年前に帰ってきて、最初の仕事は、しずおか地酒研究会の田んぼ視察でした」とリップサービスしてくれたあと、酒造工程を丁寧に解説。彼の自信に満ちた姿は、今日に至るまで、求道ともいえる酒造の修業を20年間確かに刻み込んできたその証しでした。

 松下さんも「最初の数年は稲刈前のこの時期、ほとんど眠れず生きた心地がしなかった」と当時の苦労を振り返りますが、今は、どんな気象条件だろうとまったく揺るぎない姿に見えます。2人のことは勝手に同志だと思っていますが、同じ20年を刻んできたのに、自分はいったい何をやってきたんだろうと、いつもいつも情けない気持ちにさせられ、喜久醉松下米を呑んで苦いと感じる時は自分が落ち込んでるとき、旨いと感じたら自分の心根が安定しているとき・・・そんなバロメーターにもなっています。

 

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 松下さんはご存知の通り、日本で初めて山田錦の有機無農薬栽培に成功し、静岡県では初めて個人で農水省から品種登録を受けた「カミアカリ」を作り、大きな面積すべてで有機JIS認定を持つ県内唯一の稲作農家。

 2013年に彼が上梓した『ロジカルな田んぼ』(日経プレミアムシリーズ)は、「農作業の一つ一つには、すべて意味がある。その意味を知れば、工夫の余地が生まれ、これまでにない新しい農業が可能になる。農業とはどんな仕事かを、一般的に、ここまで技術ディティールに踏み込んで解説した本は、これまでないはず。」という本。この本の出版祝いに当ブログで紹介した20年前の写真を再掲してみましょう。

 まだ当時はプリント写真。しかも記録用に撮ったものなので画像の粗さ&画角の甘さはご容赦くださいね。

 

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  日付が見当たらなかったのですが、1996年6月、山田錦の田植えです。苗を疎に植える(一株2~3本の苗を間隔を空けて薄く植える)ので、傍目には苗だか雑草だかよくわからない(苦笑)。本当にこれで米が実るのかなあと心配でした。

 

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 1996年6月23日。しずおか地酒研究会で山田錦研究の大家・永谷正治先生を招いて地酒塾『お酒の原点・お米の不思議』を開催。その後の有志による現地見学会で松下さんの田んぼを先生に見ていただきました。

 

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 1996年8月末~9月初め。日付は不明ですが、出穂の頃です。あんなにスカスカだった田んぼがこんなに美しく黄緑色に輝いていました!

 

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  1996年10月5日。再び永谷先生を招いて田んぼ見学会。青島孝さん(右端)がニューヨークから帰国して2~3日後で、彼の最初の仕事?が、この田んぼ見学会でした。

  当時、私(右端)はロン毛。右は20年後。わははーです。

 

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  これは河村傳兵衛先生が、初めて実った松下さんの有機無農薬の山田錦を根っこから持ち上げる貴重なショットです!

 

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  1996年10月27日。青島孝さんが静岡県沼津工業技術センターの試験醸造に研修生として参加しており、松下さん&地酒研有志で陣中見舞いに行きました。

  

 

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  松下さんが気になるのは、やっぱり米を蒸す工程。甑(こしき)の構造をじっくり観察していました。

 

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  1996年12月8日。しずおか地酒研究会の『年忘れお酒菜Party』。農家のお母さんたちの伝承郷土料理と山田錦の玄米ごはんを味わう忘年会で、当時、静岡新聞社で農産物情報誌『旬平くん』を編集していた平野斗紀子さんが司会進行をしてくれました。松下さんは初めて育てたとは思えない堂々とした山田錦を披露。ちなみに玄米で食べたのは永谷正治先生が調達してくれた徳島県産の山田錦です。松下さんの米には手をつけていませんのでご安心を(笑)。

 

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  年明けの1997年1月。いよいよ松下米の初仕込みです。現場で「松下の米は胴割れしない」と真っ先に評価した杜氏の富山初雄さん。「松下米」の命名者でもあります。

 富山さんは、青島久子さん(社長夫人・孝さんのお母様)が青島酒造に嫁いだ昭和38年から青島酒造で酒を醸す南部杜氏。孝さんにとっても家族同様の存在で、ニューヨークから帰国し酒を造りたいと言ったとき、父の秀夫社長は(蔵元が造りに関わるのを)反対したものの、富山さんは手放しで喜んでくれたそうです。

 

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 1997年2月25日。初搾りの日は松下さんも立会い、上槽作業に特別参加しました。

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  洗い場で、タメに残ったもろみの米粒をすくって食べる松下さん。一粒たりともムダにしたくないんですね。なんだか正しい「お百姓さんの姿」を見ました・・・。

 

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  こうして生まれた喜久醉純米大吟醸松下米。最初の96BY酒(1997年発売酒)は、未だに空けられず、MY冷蔵庫の奥底で眠り続けています。

 以下は、1997年10月の発売時に作らせてもらった松下米のしおりです。当時は私が自分のワープロで打ち込んでプリントしたものを、簡易印刷で刷って、青島酒造のみなさんが1枚1枚朱印を手押しした、完全アナログチラシ(苦笑)。ささやかながら、この酒の誕生に関わることが出来て幸せです。

 

 

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 2016年10月6日。21回目の松下米の稲刈りが行われました。「20年で一番雨が多く、日照時間の少ない最悪の年だった」と振り返る松下さんですが、宮田先生が「肥料を余計に与えない稲は、葉の色が薄く透明感がある」「山田錦は茎の節々に一定の間隔があり、しっかり根を張らせて作った山田は、倒れそうに見えて絶対に倒れない」と解説されたまさにその通りの、美しく力強い稲でした。

 21作目の喜久醉松下米が吞めるのは1年後。毎年毎年、愉しみは尽きません。