杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

花びらは散っても花は散らない

2018-03-11 10:07:18 | 仏教

 東日本大震災の慰霊月となる3月は、震災以来、毎年、静岡音楽館AOIの鎮魂コンサートに通っています。きっかけは、震災の前年2010年秋に、AOIの企画会議委員で新国立劇場の演出家である田村博巳先生にインタビューしたこと。田村先生はこのとき『平泉毛越寺の延年の舞』を翌2011年3月12日にAOIで開催する準備をされていて、延年の舞を紹介した江戸時代のトラベルライター菅江真澄に惹かれた私もチケットを購入し、楽しみにしていたのです(こちらをぜひ)。

 公演は残念ながら震災によって中止になりましたが、田村先生のご尽力でAOIでは翌年から3月11日前後に震災復興支援のプログラムを定期開催するようになり、今年は3月10日に『聲明 鎮魂の祈り~四箇法要「花びらは散っても花は散らない」』が開かれました。

 今回は、声明の2大潮流といわれる天台宗と真言宗の僧侶による超宗派の合唱団〈声明の会・千年の聲〉による、いわば仏教のゴスペル。四箇法要というのは、経典から導かれた声明の曲「唄(ばい)」「散華」「梵音」「錫杖」から構成された、いわば声明の交響曲。交響曲といっても楽器を一切使わないお坊さん30人の声楽アカペラで、AOIのホール一杯に響き渡る物凄い迫力です。

 声の良く通るお坊さんの読経はお一人でももちろんパワフルですが、30人の声が重なると、交響楽団のフル演奏に勝るとも劣らない、いや、この世の音とは思えないほどの荘厳な響き。ステージはイスが置かれただけのシンプルなデザインながら、目を閉じるとそこはさながら仏教大伽藍。視覚イメージを見事に引き出す声楽のチカラを、まざまざ実感しました。

 伝統的な声明交響曲である「四箇法要」のほかに、現代作曲家による新作声明「海霧讃歎(うみぎりさんだん)」が披露されました。津波で亡くなった陸前高田の佐藤淳子さんが生前詠まれた短歌「海霧に とけて我が身もただよはむ 川面をのぼり 大地をつつみ」を旋律に載せたものです。

 田村先生はプログラムで「七万本あった松原の一本を残し、すべて津波に流された陸前高田の自然に死者の魂は還っていった。その一本松も塩害で立ち枯れてしまう運命にある。〈海霧讃歎〉には、自然界の風景の中にとけこんで、そして、大地にひろがっていゆく死者の魂を誉めたたえ、畏敬の念を示すという意味が籠められている」と紹介されました。

 作曲した宮内康乃さんも登壇され、「震災の犠牲者や被災者の方々への祈りの気持ちだけでなく、自分の身近な人々の死や自分自身の苦しみなど、想いはさまざまでも、この歌を聴くことによって、一度苦しみや思いを響きに乗せて天へと放ち、響きと一体化することで自然界の一部であることを感じ、心が少しでも軽くなるようなら幸いです」とご挨拶。2012年に神奈川県立音楽堂で初演され、2016年には和歌ゆかりの地・陸前高田で、そして今回のAOIが3度目の公演となったようです。身近な死を経験したばかりの今年、こういう曲を聴くことになろうとは、と心の中で合掌しました。

 事前に、短歌の作者が津波の犠牲者だと聞いたせいか、海霧讃歎の響きに身をゆだねていたら、自分も海の底に沈んでいくような錯覚にとらわれます。数日前に観た映画「シェイプ・オブ・ウォーター」のように、この世のものとは思えない存在に抱かれて、静かな眠りに堕ちていく・・・。そして次の演目「錫杖一條」の錫杖(修験者が振り鳴らす杖)の音にハッと覚醒。ほんの数分の出来事ですが、海の中で意識を失うという疑似体験をしたような演奏時間でした。


 実は1週間前の3月4日、京都の天龍寺塔頭永明院で毎月第一日曜日に開かれる坐禅会に参加したときも、不思議な体験をしました。いつものように坐禅をし、和尚さまに警策を打っていただいたとき、全身がものすごく温かくなったのです。血の巡りが滞っていた身体に程よい刺激があったからかな、と生理分析しながら、一方で、なんともいえない有難味がじわじわ湧いてきました。

 2度目に打っていただいたあとは、はっきり異変を感じました。涙がスーッと落ちて来たのです。人の話を聞いたり映画を観て泣けることはあっても、ただ坐禅をしているだけで涙が出てくるとは、一体自分に何が起きたんだろうと、少しばかり混乱してしまいました。

 思えば、大晦日に父が突然亡くなり、葬儀やら家のことやら初めてづくしの雑務に追われ、父を偲んで泣くという機会はまったくありませんでした。こちらに書いたように「お父さんは幸せな最期だったね」と言われ、最初は素直にうなずけなかったものの、最近では「理想の死に方ですねえ」と自分から笑って言えるようにさえなっていたのですが、どこかで自分を縛っていたものが、ひとつ、ほどけたのかもしれません。

 警策をいただいて合掌低頭したとき、大げさでなく、本当に心のうちからじんわり「有難いなあ」と思えてきました。感謝の対象が目の前の和尚さまなのかこのお寺のご本尊なのか、はたまた彼岸にいらっしゃるかたなのか、よくはわからなかったのですが、今まで頭で理解しようとしていた仏教を、心で感じるようになれたとしたら、この体験はひとつの成長なのでしょうか。


 今回の声明公演には、四箇法要に「花びらは散っても花は散らない」というサブタイトルが付いていました。仏教思想家で真宗大谷派僧侶・金子大栄が歎異抄を要約した言葉で、正確には花びらは散っても花は散らない 形は滅びても人は死なぬ」

・・・言葉や歌というかたちのないものが、人に、底知れないチカラをもたらすことを、我が事として自覚できた震災慰霊月、です。